神戸サウナという阿闍梨
サウナとは悟りに近づく修行なのか?
仕事を終え、ふらりと神戸サウナに足を運ぶ。
神戸サウナはいわば僕のホームである。
神戸サウナはなんとサウナシュランというサウナー界隈では名誉な賞も獲得している格式高い名店なのである。
そんな神戸サウナの、サウナに入ると、熱気と冷気の交互の刺激によって、体も心もじんわりとほぐれていく。そこには、ただのリラックスを超えた不思議な魅力がある。サウナの「ととのい」とは、もしかしたら悟りへの近道ではないかとさえ思うのだ。
「悟り」とは?
僕が思う「悟り」とは、自己という個から解き放たれ、何か大きな存在と融合することだ。それが人類の集合意識なのか、自然の営みなのか、あるいは地球そのものの意思なのかはわからない。だが、サウナに入るとき、僕はふとそうした「大いなるもの」に接触するような感覚を覚えるのだ。
実は、サウナの高温や水風呂の冷たさにさらされると、身体は「生命の危機」と判断するらしい。なにかで読んだ。
心拍数が上がり、意識が研ぎ澄まされる瞬間、サウナは一種の臨死体験と言えるかもしれない。この感覚はまるで、昔から仏教の修行者に付き添い「悟り」への道を示す**「阿闍梨(あじゃり)」**のような役割をサウナが果たしているようにも思えてくる。
阿闍梨とは、弟子を悟りへと導く師匠のことだが、サウナもまた僕を非日常の境地に連れていく案内人だ。
欲に塗れた「サ飯」の誘惑
そんなことを考えながらも、サウナに入るとどうしても腹が減る。
僕のホームである神戸サウナには、「サ飯セット」がある。カレーに肉団子、そして唐揚げがセットになったこの料理は、サウナ上がりの空腹を満たすのに最高の逸品だ。
臨死体験から生還したようなこの状態で、一気に食欲に駆られながらサ飯をかきこむ。
なんともわんぱくで、どこか滑稽だが、これが僕にとってのサウナ体験そのものなのだ。
サウナという阿闍梨が教えてくれるもの
サウナで汗を流し、冷水に身を委ね、ようやく「ととのう」感覚を得るまでの過程は、まるで修行のようだ。
そしてその先には、「欲」や「渇望」から解放されるひとときが待っている…かと思いきや、最後に待っているのは唐揚げやカレーへの渇望というわかりやすい欲望。
人生においても、目指しているのは崇高な境地かと思いきや、結局は食よくなど原始的な欲求を満たすことを求めているだけなのかもしれない。
これもまた、サウナが僕に教えてくれる小さな悟りの一つだ。
もしかすると、阿闍梨としてのサウナは、僕が現世で楽しむための案内人としていつもそこにいてくれているのかもしれない。そして今日も僕は、欲に塗れたサ飯を求め、神戸サウナの扉を開けるのだ。