「言葉る」記録#04〜それわ短詩ぢやないだらふ〜
俳句を始めて3年目になる。
「俳句をやっています」と人に自己紹介すると、返ってくる反応はさまざまだ。「渋いね」「古風だね」とか「雅だね」といった、なんというかステレオタイプな反応はまだ多い。それだけ俳句が知られていない、ということなのかもしれない。
世の中で「俳句」と言えば、芭蕉や一茶、蕪村らなどによる句が想像されることだろう。「古池や蛙飛び込む水の音」などの句はあまりに有名で、俳句の代名詞的でもある。
しかし、この時代「俳諧」と呼ばれ現在の俳句のもとになったと言われる文芸は、中世の和歌・連歌に端を発し、近世の俳諧師たちによって完成されたもので、もともとは五七五で詠まれる「発句」の情景に合わせて七七の「脇句」をつなげ、さらにまた五七五の「第三」をつける…という、複数人で行う遊び、いわば、ヒップホップの「フリースタイル」のようなものであった。
芭蕉の「古池や」の句も、このような数多くの句の集合体として楽しまれた「俳諧」のうちの「発句」のひとつにすぎない。
では、なぜ「古池や」が俳諧を代表するような一句として知られるのか。「発句」を俳諧とは独立した文学であると説き、近現代の「俳句」の礎を作ったとされる俳人・正岡子規はその随筆の中で、古来の俳諧から主流だった「滑稽」の作風のパターンを「一は擬人法または譬喩を用うる者、一は言語上の遊戯に属する者、一は古事、古語、鄙諺等の応用または翻案をなす者」、現代風に言えば例えツッコミ・駄洒落・パロディの三種に分類して、歴史的にはこのような小手先のテクニックに弄する「悪句」が数多く蔓延してきたと論じたうえで、芭蕉の古池の句を
と評し、「されば芭蕉の俳諧はこの一句を限界として一変せり。従つて当時の俳諧界もまたこの一句を中軸として一転せり」とまで述べている。それほどまで、芭蕉の句は俳諧という遊びの文芸の歴史を大きく変化させた、当時の基準では革命的なものだったということだろう。
芭蕉以降、芸術的な景を描く「発句」そのものを独立した作品として鑑賞することが増え、芭蕉の句として知られる多くはその発句からきているが、彼は発句を作る以上にこの俳諧を得意としていたとされ、
とも伝えられている。
ところで、文学史的な流れから言えば、普通「俳句」と言ったときは、子規以降に確立された近現代の俳句を指す。近代俳句に限っても、写生に重きを置くものや主観的叙情に訴えるもの、伝統を重んじるものや社会性を含むものなどさまざまな作風が生まれた。
そういった多様な作風にも、五七五の韻律や切れ字、季語といった歴史的経緯を持つ定型が「俳句」のアイデンティティをつなぎとめていた一面があったが、その定型すらも捨象して自由な詩性を求めようとした「無季俳句」「自由律俳句」といった試みがあることはよく知られていることだろう。
今や、現代俳句はさらにその指す範囲を広げつつある。五七五の韻律を大きく飛び出したものや、スペース・行替えを一句の中に多用するものなど、これまで「俳句」というジャンルがまとめあげてきた支点を見つめ直し、解体する試みが常に行われ続けている。
自分の知っていた芸術とは異なる作品を「芸術」として提示されたとき、あるいは、自分の作風や、自分が大切にしている芸術の描き方とはまったく違うように見える他人の作風を見つめたとき、「こんなもの芸術じゃない」と立ち上がって部屋を飛び出し、ドアを閉ざしたくなる衝動に抗うことは時に難しい。
そこまで極端な反応でなくとも、新しい作風・新しい作品に触れることは、常に新しい混乱に直面する怖さを孕んでいることは確かだ。これまで知っている、これまで触れてきた自分の感性や知識、もはや自分の一部となったそれが、過去の無用の長物となってしまうことは恐ろしい。恐ろしいから、"それ" は詩になる。
「こんなもの、俳句じゃない」「漫才じゃない」「ロックじゃない」「芸術じゃない」。陳腐なまでによく聞くこれらの攻撃的な拒否反応の裏にあるのは、恐ろしさだ。これまで自分が知っていた、知っていると思っていた、それが塗り変わってしまうこと。自分が信じていたもの、ひいては自分のアイデンティティが、歴史の片隅に追いやられてしまうこと。忘れられてしまうこと。それはある意味、死よりも恐ろしい。
恐怖からくる「〇〇じゃない」という拒否反応は、人々が人々の声を増幅する、エコーチェンバーを作り出す。
2022年7月、人々が口にしだしたのは「こんなもの、川柳じゃない」だった。
朝日新聞の連載「朝日川柳」にはその誌面というメディアの性質上、多くの時事ニュースを取り入れた句が並ぶ。7月中旬のある日、安倍元首相の銃撃事件について扱った句がきわめて不謹慎であるとしてTwitterを始めとするSNS上に批判が殺到した。
「疑惑あった人が国葬そんな国」「利用され迷惑してる「民主主義」」「去る人の濁りは言わず口閉ざす」「これでまたヤジの警備も強化され」等、たしかに、強いメッセージ性と批判を閉じ込めた句が多い。見る人によってはひどくひねくれて、必要以上にあてつけを含んだ悪趣味な句に映るだろう。
こんなものは川柳ではない、第一季語がないではないか、季語がいるのは川柳でなくて俳句だ馬鹿者、これは立派な川柳だ、いや川柳は人情味があってクスリと笑えるものだ、こんな悪趣味なものは下手を通り越してやはり川柳ではない――そんな喧々囂々の「議論」が、連日タイムラインを騒がせた。
思わぬきっかけから生じた興味深い議論ではあるが、この「ニュース」において重要なのは、「何が川柳たりうるのか」「人情味とは何か、滑稽とは何か」という文学的理論の構築や、「公共の場に掲載される作品に何が求められるべきか」という倫理や理性に基づく論理立った議論ではなかった。なぜならばこの拒否反応は、「恐ろしい」という感情からくる反射的なものだからだ。
なぜこんなものが川柳として評価されるのか。川柳とは、「寝て居ても団扇のうごく親心」や「いい家内 10年経ったら おっ家内」のような、温かい人情や日常のささいな悲哀を書いた、人として誰でも共感できるもののはずだ。人が一人死んでいるのに、なぜそんなことをお笑いのネタにできるのだ。それを評価している連中も、人の死を喜び、蔑んでいるようで気味が悪い。恐ろしい。世知辛い世の中だ。人の心は、人間味というものはどこへ行ってしまったのか。こんな世の中に誰がした。誰が悪い。お前が悪い。そんな恐ろしい世間を見せつけてきた、お前が悪い。
これは決して、そういった拒否反応を起こす人々を、一時の感情に支配される理不尽な人間と軽蔑するわけではない。知っていると思っていたものが、予想と全く違う様子や変化を見せたとき、人間は恐怖する。それはきわめて自然なことだ。そういった生理反応を、議論や正論をぶつけて「論破」することで解決することはできない。まずその人が抱いている恐怖を、悲しみを認識し、理解しようと寄り添うことでしか、前に進むことはできないのだ。
そしてこれは、悪趣味の烙印を押された「川柳もどき」を作った作者たちにも言えることかもしれない。江戸時代の「誹風柳多留」に端を発する川柳は、庶民によって作り出された笑いと共感、人情味の文芸でありながら、同時に人間の弱点や社会の抱える矛盾を浮かび上げ、風刺する側面も持っていた。
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」といった古句は広く知られるところであるが、これは役人の腐敗をあげつらう一方で、その裏にそうした腐敗を知りながら役人をありがたがり偉ぶらせる庶民、ひいてはそれを「お笑い」に訴えるしかない語り手の抱える自己矛盾すらを笑い飛ばそうとしているとも読める。社会に抱えるやり場のない不満、怒り、悲しみ、そうした感情を処理するガス抜き・ストレスコントロールとしても川柳は機能していたのではないか。
いずれも被曝や被災を題材にした句。口語で一見軽薄な語り口に、一語一語をなんとか絞り出す痛切さ、叫び出すような心中が感じられる。
こちらは俳人が詠み、俳句として広く知られた句だが、広島の記念碑をもじったフレーズに、社会の抱える矛盾と反戦のメッセージを逆説的に強く打ち出した一句と読める。これもまた、字面の「不謹慎」さとは違う深さをもった句だ。
これらの句も、「不謹慎」と切って捨てることはたやすい。しかし、突然の事件に深い悲しみ・失望・怒り・不安にある人々が、軽薄にも思える言葉に乗せて、その衝撃を軽減しようとする、そんな人間らしさを感じることはできないだろうか。
それは、「川柳」と呼ぶにふさわしい心の叫びではないかと、私は思う。
ところで、川柳もまた、俳句と同じく、社会的メッセージを重んじるか、日常に近い共感を重んじるかといった、多様な作風の誕生・共存にあって、時代時代に変化を遂げてきた文学である。
こと現代の川柳にあっては、芸術的な世界観を重んじ、風刺や共感にとらわれない詩情を切り出そうとする、無季俳句に近いような句も多く作り出されている。
ただし、近代俳句などと違って、なにか具体的な景色を描こうとするわけではないし、自由律俳句のように、定型に縛られず感情を表現しようとするものでもない。しかしそこには、なにかもっと純粋な詩情があるように感じられる。詩というフォーマットのもつ意味的な制約を解体し、律動に合わせて紡がれるだけの言葉を、純粋に味わい直そうとする試みといえるかもしれない。
先日、歌人でもある平岡直子の著した現代川柳の句集『Ladies and』を買った。
タイトルは自身の句「Ladies and どうして gentleman」から取ったもので、平岡にとって現代川柳は「男性社会にチェックインするという手続きを踏まずに使える言葉の置き場」であるという。
その中の「光ろうと月」と題された章に、特に目を吸い寄せられた。
「紅葉」「九月尽」「梨」「虫の音」「椎茸」「月」「夜露」「桐一葉」「木犀」「葡萄」。これらはすべて、秋の季語だ。
川柳は季語を詩の構成要素として必要としない。といって、全く使われることがないわけではない。季語に数えられる情景を、背景の舞台装置として取り入れることはある。ただし、大きな特徴として、川柳は伝統的な近代俳句のように、季語を詩の中心に据えることはない。つまり、季語が「季語」という意識のもとに使われることがない、といえば近いだろうか。
しかし、これらの季語には「九月尽」や「桐一葉」のように、おおよそ俳句でしか用いられない、漢詩や和歌の歴史を受け継いだ伝統的な季語も含まれている。これらの語を含んだ句を寄せ集めて一章としていることからも、作者はこれらを「季語」として意識しているのだ。だが一方で、これらの句は季語を詩の単なる背景として用い、「俳句」としての描き方をしているわけではない。このような複雑な描き方の選択は、あきらかに作者の意図によるものだろう。
そこまではわかっても、なぜそのような選択をしたのか。わからない。川柳と俳句という、ときに別物だと思われたり、混同されたりする二つの詩形の境界に対する挑戦と受け取るべきか。わからない。
そもそも、これは川柳なのか。それとも、俳句なのか。作者本人は、これを「川柳」として発表していることは確かだ。それ以上は、わからない。
俳句も川柳も、さまざまな場面でかつて「俳句じゃない」「川柳じゃない」と呼ばれた句を受け入れて、その可能性を広げてきた。
俳句は、川柳は、どうなっていくだろうか。
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