「わかりあう」とはどういうことか。
ずいぶん前(5月!)に、HOTASさん(@HOTAS10001)と、スペースをやったんですよね。忙しさと心の余裕のなさにかまけてなかなか何もかけていなかったんですけど、ようやく聴き直したので、思うことなど。
「わかりあう」というのが、同じテーマにおいて同じ結論に至ることではかならずしもない、というのが、面白い発見でした。同じテーマにおいて違う結論に至ってもいいんだよね、という、もう一段抽象的なところでコンセンサスに至ってもいい。また、「わかりあう」には、「そういう考え方があるのね!」という発見のニュアンスもあって、それが喜びにつながっているというのも、興味深いポイントでした。
絶対に同じ結論に至らねばならないというのはなかなか窮屈な話です。戦わざるを得なくなったりもします。だから違う結論でいいんだけど、違う結論でよいということについて合意していないと、少なくとも片方が不満を持ったまま終わりかねない。
とはいっても、おそらく、「同じ」ということには仲間意識とかにつながる喜びがあると思われるので、「同じ」を目指さなくていいという合意に至るには、どこか上流までたどれば共通の(あるいは、お互いが許容できる)何かに到れるのだろうという信頼も要るのでしょう。嫌いな相手のいろいろは許容できづらいのが普通であることを考えると、尊敬の感情があったほうが合意には至りやすそうです。尊重とか敬意とか言ってもいいですね。なお、恋愛感情などは、「わかってくれるのが当然」になりがちなのでかえって危険かもしれません。「なんでわかってくれないの!」とかありがち、ではないでしょうか。
「わかってくれるのが当然」でトラブルになる、ということを考えると、同族(たとえば両方Autistic)であるということは、プラスにもマイナスにも働きうるということになりそうです。上流までたどれば共通のなにかに到れるよね、という見通しが持ちやすいという意味ではプラスですし、「同じAutisticを名乗っていながら違う結論を述べるなど許しがたい」という不寛容につながりかねないという意味ではマイナスです。Autistic同士であればその共通点、たとえばAutisticの性質そのもの、については、プラスもマイナスも強まりそうな気がします。
ひょっとしたら、「同じじゃなくていいよね」という合意にあっさり到れるのは、Autistic同士だからかもしれないとふと思ったりしました。定型発達の人よりも、「同じ」ということにかける情熱が少なさそうな気がするんですよね。ひょっとしたら、話の内容と人格を切り離すのも、得意なのかもしれません。同じじゃなくていいのであれば、発見も歓迎しやすいので、対話もさらに楽しいものになる可能性が出てきそうです。
Autistic自体を話題にしていなくても、Autisticがどうこうを意識しているつもりがなくとも、また、バックグラウンドも性格もAutisticとしての性質も全然違っても、Autisticらしい対話にはなっていると思いますし、何かしらの信頼を持って話せるというのはありがたいことです。
また近々、スペースを企画したいと思います。