ももたちの失敗
船の上で目を瞑ると、浮かんできたのはおばあさんだった。
効いてきたトラベルミン。
空気の隅々にまで、“ぼく”が行き渡らずに済んで安堵した。
おばあさんの言葉が流れる。
「今はバスでも行けるのヨ」
ぼくの小さな反抗心を後悔した。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
おばあさんは、大きな旗と刀を携えたぼくをみてつぶやいた。
「あのころのわたしに似ているネ」
そして小綺麗な巾着袋を渡してきた。
中身は団子のように丸められたものがあり、サランラップと保冷剤に包まっていた。
ぼくはお礼を言った。相場はおにぎりだと思ったけど。
おばあさんはいつものように「またネ」と言った。
ぼくが帰ってくるかもわからないのに。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
巾着袋のせいか、やたら動物に懐かれた。
団子に何か変なものでも入っていたのだろうか。
哺乳類二種と鳥類一種がぼくの周りを彷徨く。とうに二十をすぎているのに動物に触れないぼくは、手懐けることも追い払うこともしなかった。
おばあさんは動物が得意だったのに。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
おばあさんのおかげでぼくは大きくなった。
小学校から背の順では後ろ。
“前へ習え”では腰に両手を手を添えるだけの楽を経験したことがないほどに。
ぼくは体が大きい割に弱虫だった。
からかいの対象になるのは充分みたいだ。
人には言ってはいけないと教えられた言葉をたくさん浴びた。
でも先生も悪さをする子のほうが可愛いようだった。
そんなぼくは家に帰るとおばあさんがいた。
「ももの笑顔はわたしを幸せにするネ」
おばあさんは口癖のように言っていた。
ぼくが悲しい顔をして帰ると、おばあさんも悲しい顔をすると思い、笑顔を作って帰った。
作り物の笑顔は、ぼくが泣くのを拒んだ。
通学路には、ぼくから溢れた悲しさが落ちている。
おばあさんはたくさん料理をふるまってくれた。
まるでぼくが来賓かのように。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
ぼくの記憶はおばあさんで埋め尽くされ、おじいさんはいない。
巷では“パパはいつもしばかりに行く”と書かれた子供服が物議を醸しているというのに。
おじいさんが家に帰ってくるのはいつも遅い。山へ芝刈りに行くと言うけれど、シャツはいつも知らない香水の匂いがした。
でもおばあさんは何も言わなかった。
おばあさんは川へシャツを洗濯に行った。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
「また鬼が悪さしてるのネ。鬼なんかみんないなくなればいいのに」
おばあさんは新聞紙を乱暴に破りながら言った。
おばあさんは鬼の話題になるとやさしさに雲がかかった。
おばあさんは昔、学生運動に熱心だったそうだ。
当時は今よりも鬼との距離も近かった。
しかし鬼の悪行が目立ちはじめ、弾圧する動きが学生を中心に起こった。
時が経ち、鬼との距離ができた。
でも、ときより当時のおばあさんの姿が垣間見える。
ぼくはおばあさんの前で、なるべく鬼の話題を出さないようにした。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
「あなたは川からどんぶらこどんぶらこと大きな桃の中に入って流れてきたのヨ」
真面目なおばあさんが一度だけ言った冗談。
あまりに下手だったのでぼくは裏笑いした。
“どんぶらこ”という初めて聞く擬音が可笑しくて。
桃の中に人が入っているというのが可笑しくて。
笑うぼくと対照に、おばあさんの目からは涙が流れていた。
ぼくも泣きたいはずなのに作り物の笑顔が邪魔をした。
ぼくの乾いた笑い声が障子紙に響いた。
母であるはずの人を“おばあさん”と呼んでいる理由と結びつかないように――。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
ぼくが大きくなるにつれ、おばあさんは老いていった。
痩せ細り、頬骨が浮かび上がっていった。
おばあさんがふとつぶやいた。
「わたしが生きているあいだに、鬼がいなくなる日はくるのカナ」
おばあさんのやさしくない姿。
おばあさんの最期。
一言にぼくの見たくないものが詰まっていた。
ぼくが鬼を退治したら、おばあさんはやさしいままでいてくれるだろうか。
ぼくが鬼を退治したら、おばあさんはお母さ――。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
目を瞑っている間に鬼ヶ島についた。
バスなら三十分ほど短縮できていたようだったけど。
入り口に架けられた幕には、淋しそうに“ようこそ”と書かれていた。
街にはチャーリー・パーカーが流れる。
鬼の親子が公園で散歩していたり、コーヒーショップに老夫婦が入っていく姿が見えた。
コーヒーショップのウィンドウに武装したぼくが映る。
何もかも場違いなぼくは、ただ公園のベンチに座り込んだ。
目の前で子鬼たちが楽しそうに“鬼ごっこ”をしている。
「お前、トロいんだよ」
よくみたら、体の大きい子鬼が小柄な子鬼たちにからかわれながら追いかけている。
「お前のかあさんもトロそうだもんな」
僕の中で何かが反応した。
気づけば小柄な小鬼に刀を向けていた。
おじいさんは山へしばかりに行った。
しかし、ぼくは刀を向けたものの、何もできなかった。
ぼくにやさしくないおばあさんの血が流れていたなら、このまま刀を振り抜いていたのに。
ぼくが何もできないとわかると小鬼たちは刀を奪い、ぼくの喉を数回つついた。
「おっさん、弱いくせに喧嘩売ってくるなよ」
小鬼たちは無邪気にぼくを殴る。蹴る。
“おっさん”という言葉で、ぼくがもう若くはないことを知った。
「おい、お前もおっさんに一発殴れよ」
大柄な小鬼が指図を受ける。
「え、いや、そんな、無理だよ」
「いいから、やれよ」
ぼくは大柄な小鬼からも殴られる。
「おい、おっさん。なんでオレたちに襲いかかったんだよ」
小柄な小鬼が意地悪そうに聞いてきた。
「ぼくのおばあさんのため……」
なんとか声を絞り出した。
「は? 知らねえよ。おっさんの家庭の事情でなんでオレらが襲われなきゃ行けないんだよ」
殴られながらでも小鬼の方が正論なのがわかった。
いっそこのまま死んでしまいたい。
ぼくは暴力から抗うのをやめた。
ぼくの体が痛みを受け入れはじめると心が軽くなった。
視界が白くなっていく。
心の重量分、瞼がこれから重たくなろうとしている。
いい夢がみれそうだ。
しかしここで小鬼たちは殴打をやめた。
「このおっさん、手応えねぇから帰ろうか」
小鬼たちはなにごともなかったかのように帰っていった。
ぼくの最後の願いも叶わなかった。
小鬼たちはすでに晩御飯の話題に花を咲かせる。
泣いてみようとしたが泣けなかった。
小鬼たちがまぶしくて。
コーヒーショップがまぶしくて。
どこまで目を細めてもまぶしくて。
白一色世界。
三匹の動物は鳴き声も出さずただぼくを見つめる。
チャーリー・パーカーがまだ流れている。
ぼくはこの音が“どんぶらこ”に聴こえた。
おじいさんは山へしばかりに行った。
*
雨が冷たい。
帰りはおとなしくバスを使った。
バスは悲しい記憶の上を法定速度で走る。
水たまりを踏むたびに傷口が痛んだ。
バスは着実に最寄りに向かい、降りると玄関が見えた。
ドアを開ける前に来た道を振り返る。
タイヤの跡だけが申し訳なさそうに残っていた。
「ただいま」
ぼくはなるべくいつものように言った。
今日はどうしても悲しい顔にしかならなかった。
ぼくが見せたくなかった顔。
「おかえり」
おばあさんはいつものように返してくれた。
おばあさんも悲しい顔だった。
ぼくが見たくなかった顔。
気づけば、ぼくは。
あんなに泣けなかったのに。
雨足が少し強まった。
おばあさんは、ぼくを癒すように料理をふるまってくれた。
今日の料理はいつもより質素な気がした。
おじいさんは山へしばかりに行った。
おしまい
白鉛筆さんの企画に参加させていただきました。楽しい企画ありがとうございました。