自身に起こる出来事ばかりにとらわれるのはやめた
最近、仕事で書いていると枠に収まった自分でなんとかやっていけているんじゃないかという気持ちになる。
そして、その枠を自分で知らぬうちに一生懸命作って、そこに安住しようとする。
自分という存在は唯一無二なんだから、そこに誇りを持って自信を持って生きていったらいいよね。
無理にカテゴライズしてみようとしたり、人と違う自分はなんだかおかしいのではないかと考えてしまったり、共感できないときに自分のセンサーはどこかトチくるっているのかなと思ったり。
そんなことは、どうでもいいよね。
目の前に起きていることや、自分にふりかかってくるあらぬもない事象について、真っ正面から受け入れなくていいのではないかと思う。
責任逃れという見方もできる。しかし、今までの文化であったり常識を信じてばかりいると、新しいものは生まれない。
たぶん、自分が思っているよりも生きていることがツラいのであれば、それは何かがおそらく間違っているのではないのだろうか。
それに気づくかどうか。それとも人のせいにし続けてずっと過ごしていくのか。どちらが正解とか、そのような論議をかわそうというつもりは毛頭ない。
人は自分が常に正しい、正解は己の中にあると思うものであると私は思う。
それならば、特段それをふりかざさなくともお互いを尊重したらいいのではないのかな。
あなたも正解
わたしも正解
そんな簡単なことができないんだから、人間って愉快だよね。
なんだか最近は、こういったことを考えて物事をフランクに捉えることができる人たちと共に何かを成し遂げたいと思うようになってきた。
そのためには、まず自分自身がそういう人にならなくてはならないよね。
むやみやたらと物事を批評したり、他人を否定したりそんな息苦しい生き方はつまらない。
自分が認められたかったら、相手を認める。
意識や認識の相違を感じたら臆することなく会話を交わさなくてはならない。
キャッチボールができない相手だったら。さあ、どうする。
もうこれは人生自体がゲームだよね。自分の想像、予想しているところの180度違う方向から思いも寄らない言葉が返ってくるかもしれないよ。
そう考えるとワクワクするよね。
そう、生きていくことにもっとワクワクしていたいだけなんだ。
自分自身の限界を勝手に決めて、周りからの評価に怯えて、そして自信をなくして。
もうそういうスパイラルから逃れて、もっと快活に行動していこう。
本当に時間はそんなに長く残されていないのだから。
それでは、今回はここまで。