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寝落ちした。今も眠い。
ここ最近、寝る時間が遅く睡眠不足気味。
仕事のみならず、趣味など自分のやりたいことをやって深夜〜朝方になってから布団に入る日もままあった。
早寝、早起き。
健康のためには、それが良いということはなんとなく知識としてはもっている。しかし、それが簡単に実践できないということは、習慣になっていないことも原因としてはあるのだが、単純に本当にそう思っていないからなのかもしれない。
夜は静かで、自分の時間として使える贅沢な時間であるという認識が若い頃からあるのかもしれないと感じている。
中学生くらいから、夜ふかしが好きだった。
あまり覚えていないけど、両親が離婚したこともありひねくれてしまって、自暴自棄になって適当な暮らすようになった。
高校の頃は、深夜ラジオにハマり昼夜逆転のような毎日を過ごした。
雑誌社に就職して、社会人になると締め切りという恐怖の業務から徹夜や、深夜遅くまで仕事をする日々が続いた。
僕の人生において夜は特別な時間であり、自分のアイデンティのような……いや、そんな大層なものではないのだけれど、夜ふかしが習慣化されているのだろう。
何十年も習慣となっているものを、すぐに変えることはなかなか難しい。難しいと思うから難しいのだ、という声なのか文字なのか、偉いのか偉くないのか良くわからない第三者からの助言のようなものが聞こえてきたり、目に入ってきたりするけれど、実体験から感じたことなので仕方がない。
難しいものは、難しいのだ。
というか、僕にとってはそうである。
この、僕にとってはというものは、僕だけのものであり、僕のなかでは至極簡単かつ単純なものであるのだが、理解してもらおうと少しでも考えてしまうと、途端に複雑なものになってしまう。
自分に関係する事柄や感覚など、物事を共感してもらいたいという気持ちは、誰しもあると思うけれども、共感してもらいたいと思わないほうが楽ではないだろうか。
共感してもらえたらラッキー、共感を得ることができたとき、そして、その声を挙げた人がいたとき、または文字によって伝えてくれた人がいたときに「あぁ、よかったな、うれしいな」という感情が心に宿る。
基本的には、分かってもらおうと思っていないし、分かってもらわなくて構わないという気持ちがある。
でも、それは強がりかもしれない。
傷つくことを恐れている。
受け入れられないときの悲しさ、辛さ、やるせなさ、憤りの痛みを知っている。
だから、基本的に僕は受け入れる側になりたいと考えているし、なろうと努力のようなものもしている。
たとえ偽善者だといわれようとも。
あっ、イエスマンといわれようともね。
それでは、今回はここまで。