尻尾の長いジャコウネコ科の体長45cmほどの肉食動物
壁から女性が出てきた--
そう思った。道を歩いていたら少し先の壁から、にゅっと女性がこちらの道へ出てきたのだ。
薄茶色のコートを着たその女性を見て、僕は普段の引っ込み思案な性格を忘れて思わず駆けだし、話しかけようとしてしまった。
彼女は綺麗な肩までの黒髪を揺らし、驚いた表情でこちらを見る。
目があった時、しまった。とかなり後悔した。
ここにきて気付いたのだが、壁から出てきたように見えたのは細い路地から彼女が出てきたからに過ぎなかったのだ。
だが、駆け足でやってきて目もあって、今さら誤魔化せない。
沈黙のあと、僕は冷や汗をかきながら言葉を絞り出した
「あの…その路地の先には何が」
これで、怪しい襲い来る男から奇っ怪な路地好き男くらいにはレベルダウンしたはずだ…多分。
不審者と思われ警察沙汰などは困る。
壁から出てきたと思ったから、なんてきっと信じてもらえない。
警察沙汰なんて考えてたのは、この小市民の僕が追われている訳ではなく、最近子供がこの辺で不審者を見たという話があったからだ。
目の前の女性は明らかに困惑した表情でちらと今出てきた路地を振りかえり、ぼそっと言った
「えっと…マングースが…」
「マングース?!」
僕は思いがけない言葉につい大きな声で返してしまった。女性は胸元のネックレスをいじりつつ続けた
「あれ、マングースじゃなかったかも…ごめんなさい…なんだか、そのへんの動物の…」
ぼそぼそと話続けようとしたが、途中で彼女の持つ鞄から着信音が鳴る。
「あっ、すみません。では…」
女性はホッとしたようにぺこりとお辞儀をするとくるりと僕に背を向けてすぐ鞄から携帯を取り出し「はい、あ…森山です」と話始めながら歩き出した。
ヒールの音を鳴らしながら彼女が行ってしまった後も、僕はその細い路地前に立っていた。
マングース?マングースってなんだっけ?
というか、こんな商店街の路地裏にいるものか?
そっと路地の方を見ると、人が一人通れるくらいで、数メートル先で道が分かれてるのか、ここから見えるのは奥にある壁。
路地の左側は、まっすぐな建物の壁、右側にあるのはカフェか何かの店の壁だ。
右側はカーテン付きの窓もついているからここに入っていったのを見られたら不審がられるかもしれない。
僕はそわそわと路地と右の店を伺う。店からは、誰もこちらを気にしている様子はない。
先程までの行動が僕にしては驚くほど突拍子もない行動だったことを証明するに相応しいくらいにはその場で、路地の奥に行くか迷っていると後ろからわいわい楽しそうな声が歩いてきた。
小学生くらいの子供たちが4人で道をこちらに歩いてくる。僕が思わず見てしまったものだから、一人の女の子と目があってしまった。
こんなところに突っ立っていたら、怪しまれないだろうか。不審者に間違われるかも、と焦ってくる。
僕の悪い癖だが、何事もどんどん悪く考えて、勝手に自分で焦るので挙動がおかしくなり余計に怪しく見える。
そういえばそれが原因で丁度あの子達くらいの頃、危うくクラスの子の筆箱を隠した犯人にされてしまう所だった。
半泣きの僕を信じてかばってくれた、もっちゃん元気かな…。
懐かしい思い出に現実逃避しかけた時、一人の女の子が隣の子に耳打ちした。
何を話したか聞こえた訳ではないのだが、僕ははっとして慌てて逃げるように路地に足を踏み入れる。
振り向かず進む、でも耳は後ろの子供達の声を必死で聞いていた。
「あっネコ!」
男の子の声と駆け出した音、他の子の「かわいー!」とか「やめなよー!」の声と、走り去る音がする。
僕はほっと胸を撫で下ろして振りかえる。
細い視界には誰も居ない。路地は光があまり入っておらず、まわりが一段暗く見える。
「さて…」
逃げるように入った薄暗い路地を、決心して奥まで進む。
路地に入るのさえ、大の大人が小学生に追いやられないといけないとは、ほとほと情けない。
奥まで来ると、T字路になっているそのコンクリート壁の下の方に、赤いペンキのようなもので何か線が書いてある
鳥居だろうか?しゃがんでみると矢印のようだ。
←
→おみせ
↓↓
左は消えており読めないが、右の矢印にはひらがなでおみせと書かれていて、下は何もないのに矢印がある。
子供が鳥居の意味も知らず真似て書いたのだろう。
なんだか探検のようで少しワクワクしつつ右を見る。確かにお店らしき扉とお洒落な黒板のメニュー看板が見える。看板にはカップのイラストがあり、扉のガラス窓から中で人影が動くのが見えた。
凄く面白いお店を見つけたぞ!
僕は喜んで近づいた。こんなの隠れ家中の隠れ家じゃないか。この辺に引っ越してしてもう1年になるが、なんて良い所を見つけたんだ!
店の前まできて扉を覗こうとすると、中の人影がやってきてドアを開けた
「いらっしゃいませ。ご予約は?」
「あ、いえ…初めて来まして」
しどろもどろな僕を、髭が映えたダンディな店主が笑顔で迎え入れる。
「今は暇ですし大丈夫ですよ、どうぞこちらにお座りください」
そういわれおずおずと入り、そして知る。
あぁ、僕は間違ってた。
座った椅子は回転するし、その前にはミラーがある。店主はエプロンではなく、腰にハサミが入ったバックをかけてるじゃないか。
「どのようになさいますか?」
店主-いや、美容師の男が笑顔で聞いてくる。
どのようにって、こちらが聞きたい。どうしたらいいんだ。
まごついてる僕に美容師は畳み掛ける
「髪ボリューム多いですね、少しすいて整えますか?前髪も少し切りますか?」
「あ、じゃあ、それで…」
もうここまできて、看板がややこしいから勘違いした…とも言えないし、いいか。丁度髪もボサボサだったし、うん。
美容師がなんだかんだと説明をするのを、さもカットに来たのだ、という口ぶりで返事しながら、ちらっと店内を見ると、他に誰も従業員がいないことに気がついた。
まぁこんなところに来客もあまりないだろうと思ったがそうでもないらしい。
空いているもう1つの椅子を横目に見ると切られた長い黒髪が落ちている。
店長だという彼に髪を切られる自分を鏡でみて、なんだか蟻地獄のような店だなとふと思う。
近づいたら引き込まれて食べられる。
好奇心は猫を殺す と言うじゃないか。
あ、猫で思い出した。
「あの、変なこと聞いてもいいですか?」
僕は手早くカットしている店長に聞く。
彼は手は止めず「どうぞ」と返事をする
「あの、この辺にマングースいませんか?」
我ながら妙な質問をする。しかし、元々の目的はそれなのだ。
「あはは…お客様、それをどこで?」
店長は愛想笑いをしたが、否定しない。
「えっと…どこっていうか、その…」
なんと言ったらいいものか。
「どなた様かから聞いたのですね」
「はい、まぁ…」
鏡越しに彼はニヤリと笑う
「分かりました。後でお持ちします。」
そう言ったきり、無言でカットに集中してしまう
え?! マングースを?!
後で連れてくるって、いや待てお持ちします、って言った。これはもしや危ない隠喩とかではないよな…
嫌な冷や汗が背中を伝う、店長は知ってか知らずか笑顔で促す。
「さぁ、シャンプー台の方へどうぞ」
言われるがままに移動し、布をかけられ髪を洗われる。
どうしよう、どうしよう…!
もし危ない事件とかが絡んでたらここで間違いでした、では帰れないんじゃないか?
知ってるふりしてやり過ごした方がいいのか?
シャンプー後のドライヤーでもぎこちない笑顔を作りながら、僕は明らかに緊張していた。
好奇心は猫を殺す。もしかしたら、僕も…。
「さぁ、完成しました!いかがですか?」
鏡を見るとそこにはさっぱりとし、いくらか良くなった僕がいた。おお、幸運な事に腕は確かみたいだ。
「ありがとうございます、あのやっぱり今日はこれで…」
「まぁまぁ、大丈夫すぐですから」
そういって本来順番待ちで座るのであろうソファに促され、腰を落とすことになる。
「最高のマングースをお持ちしますよ」
店長はまたニヤリと笑うと裏へひっこんだ。
…怖い!何がやってくるというのだ。
最高のマングースってなんだ!最高とか最低のマングースがあるものか!
このまま帰るか…?いや、そもそもカット代も払ってない。それは駄目だ。
僕が脚を揺すりながら待っているとやがて彼が戻って来た
「どうぞ、お待たせ致しました」
カチャと、僕の前に置かれたのは、ティーカップだった。
「こ、れは…?」
「当店の裏メニュー、オリジナルティーです。その名もマングース。その単語を出した方だけに提供している貴重な逸品ですよ」
店長がいたずらっぽく笑い、口の前に指を立て
「内緒ですよ」
と言う
僕はとたんにホッとして、そっとその白いカップを手に取る。あぁ、なんていい香りなんだろう。
「いただきます」
熱い紅茶を口に含むと、やわらかな香りが鼻を抜け、舌が喜ぶ。
普段コーヒー派だが、この紅茶はなんとも美味しい!
「でも、どうしてマングースなんて名前なんですか?」
紅茶を飲みつつ聞いてみる
「あぁ、以前僕が海外に居たとき、道端で見かけたんですよ。キャスケットを被った少年が、動物を抱えて路地に入るところをね。それが一瞬犬にも猫にも見えるけど、違うあれは…と。
それから、まぁこの名前を。その国で取れたあるものをブレンドしてます」
後は企業秘密です。と、言いながら
「今ではこの紅茶を目的に遠路はるばる来られる方もいて、何屋さんなんだか」
ははっと店長が笑った。
店を出る頃には、なんだか今日の特別な体験に僕は嬉しくなっていた。
薄暗い路地から明るい商店街へ、日常へ戻るかのように踏み出す、と
「あの!すみません!」
「え…僕?あ、はい…」
突然声をかけられた。そこには茶髪の男の子が自転車を持って立っていた。
「あ…いや」
彼は口ごもると言った
「今出てきたから…どうしてそこから?」
彼が路地に目線をやる。そう言われて僕も
変な勘違いで始まった今日の事をなんというか戸惑った
「えっと…マングースを探して…」
「マングース?!」
案の定、彼は驚愕する。
「マングースって…」
彼が口を開いた時、僕の携帯がなる。僕は助かった!とばかりにそれに飛び付いた。
「失礼、これで! あ、もしもし…あ!もっちゃん!久しぶり!元気?え、今こっち住んでるの?えー結婚?!おめでとう!!」
自転車の彼は困惑しながら僕と路地を見比べていたが、僕はマングースそっちのけで、旧友との会話を楽しみながら商店街を歩いていった。