日比谷公園での没個性
8月3日、私は初めて日比谷音楽堂、通称「野音」でライブを観た。前々から好きで聴いていたカネコアヤノさんのライブだ。私はそれまでこういうライブに行った事がなかった。今まで体験した中で、一番近いのはおそらくNetflixで観たあいみょんのライブだ。実際に生で見たことは無かったので、当日は本当に緊張した。日比谷公園につくと、開場を待つ人がたくさんいた。カネコさんのファンの人はどんな人が多いのだろうと、いろんな人を眺めた。大部分を占めるのは若い人で男女比は半々くらいのように思えた。そして、眺めているうちにあることに気づいた。みんな系統が似ている。服装や髪型、発する言葉、身振りなど、なんだかみんな似ているのだ。それぞれに個性的な恰好をしているように見えて、みんな似ているように見える。かくいう私はどうだろう。私も似ていた。上下は古着で、靴はニューバランス。カバンの中に入っている本までも、「そういう系統」とからかわれるように思えてきた。くらくらした。
その時に思い出したかは覚えていないが、私はこれを書いているいま、「没個性」という言葉を思い出している。この言葉を初めて知ったのは確か中学2年生か3年生のころだった。1つ上の先輩のラインの「ひとこと」欄にこの言葉が書かれていた。「没個性」とは、集団の中に個性が埋没し、隠されて見えないような状態になっていることだ。先輩がなんでこの言葉をひとことに書いていたのかはわからない、中二病だったのかもしれないし、高校などで自ら「没個性」を感じ恐怖していたのかもしれない。とにかく、その時の私は、自分を含めたみんなが没個性的にみえてしかたがなかった。
なんだかつかれて揺らいでしまった私は、日比谷公園の池の前の(ベンチはみな人がいたので)石に腰を下ろした。することもなかったので、チケットを再度確認して、少し池を眺めた後、レシートの裏に絵を描き始めた。いつも書く自分のキャラの絵と猫の絵、近くに生えている木の絵を描いた。たいしたことのない、まったく上手ではない絵だったのだが、描いているとき私は突然1つのひらめきを得た。
「いま手の中にあるこの絵は、ここにいる誰も描くことはできない、私にしか制作できないものだ」「絵の下手さや、線の引き方、曲がり方、組み合わせ」「制作という観点からみれば、私は誰とも違う。」そのように思えた。そしてそのように思った途端、「あの人も誰とも違う」「そうだ、あの人も誰とも違う」というように没個性的に見えていた人々が再び個性的に見えるようになった。似ている中でも、よりいろんな差異に目が行くようになった。確かに系統というものはある。不思議とみんな似ちゃうし、似せに行く人もいる。でも、それぞれ人は違うし、全部が一緒なわけではない。「系統」のフィルターを通して、「その人自体」を予測し、決めつけてしまうことはよくないなと感じた。私はよくやる。それでも、みんな本来的にはばらばらで、1つ1つ違うバックボーンやルーツをもつ存在だというのを忘れてはいけない。この考えが、正しいかはわからない。でも、その時そう思えたのはよかった。じゃないとライブが楽しめないから。

カネコアヤノさんのライブはすごく良かった。ライブの楽しみ方というのはいまいちわからなかったがいい体験だった。普段聞くのとは違い、すごくロックの音がした。最後の「さびしくない」→「恋しい日々」→「アーケード」はとても盛り上がっていた。ビールの1杯くらい飲んでおけばよかったかもしれない。またいつか行きたい。
「サマーバケーション」にでてくる通り「夏が終わるころには全部が良くなる」になればいいのに。もう秋だけれど。なんでまだ暑いんだ。