それは考えうるかぎり最高の復讐
復讐という言葉の後ろには、復讐は「意味ない」や復讐は「自らの身を滅ぼすだけだ」という言葉が多くの場合続く。たしかにそのような場合が多いかもしれない。しかし、復讐はしたいものだ。
私は今まで生きてきた中で、「いつかぶち飛ばしてやるからな」「いつか社会的に何かしてやるからな」「いつか復讐してやるからな」と思っている人が何人かいる。ぜひとも死ぬまでには復讐しておきたい。
さて、ここで問題なのはその方法である。どのような方法が最もよい復讐方法だろうか。
単純に考えれば、相手にされたことをそのままお返しすること、また「お礼参り」の要領で受けたものを上回る熱量をもってお返しすることが、復讐の方法として浮かぶ。しかしだ。それでは単なる「やり返し」であり、面白くない上に、最悪の場合こちら側に「罪悪感」が残ってしまう場合がある。復讐後の人生を楽しく生きるためには、それは避けておいた方がいい。
そこで、私はいまの私が考えうる最高の復讐方法というのを思いついた。
(しかし、これは法律に反した方法で被害を受けた場合や、差別的な方法で傷つけられた場合はその限りではない。その場合は、司法によって加害者は裁かれるべきであるし、復讐の方法は私にはわからない。今から記す復讐の射程範囲は、あくまで、理不尽な仕方で馬鹿にされたり、下に見られたり、なめられたり、いやな気持にさせられたりした場合だ。)
私の考えうる最高の復讐方法、それは「相手が、自分(私)の手によって、うっかり幸せになってしまったことを確認する」ことだ。どいうことか。まずこの復讐方法のゴールは「確認する」ことだ。確認をしなければ、復讐は完了しない。しかし、確認のためにその場にいる必要は無い、人づてに聞いたりしてもよい。そして、何を確認するかというと、「相手がうっかり幸せになってしまった」ことだ。「幸せ」まで行かなくてもいいかもしれない。相手の独自の価値観、信じている社会的な価値観において「これは良い」と思わせるのでも充分だ。ここで重要なのは「うっかり」の部分だ。作為的に相手を幸せに追い込んではいけない。相手を幸せにするために頑張ってはいけない。なるべく「うっかり」幸せにするのだ。そして、どう幸せにするか、それは「自分(私)の手によって」、具体的に言えばなんらかの「創作物」によってだ。言葉や作品、状況や環境など私の創り出したものならなんでもよい。しかし、重要なのは相手が幸せになる前に「創作物」が「私の手によるもの」と気づかれてはいけないという事だ。気づかれてしまっては、相手がうっかり幸せになりづらくなってしまう。あとは、自分のしたい「創作」をすること。相手の幸せに媚びたのでは全く意味がない。いつもどおり好きに創作しよう。以上が、復讐の詳細と方法である。
では、この復讐の効果と良いところは何か。まず効果として、相手が「自分(私)の手によって、うっかり幸せになってしまった」ときづいた時、相手を複雑な気持ちにできるといことだ。今まで、下に見ていたものによって、うっかり幸せにさせられてしまったことで、恥じらいの気持ちが浮かんだり、信じていた物事の価値観や関係性が揺さぶられることになるだろう。最高の気分だ。ざまあない。そして、この復讐方法の良いところは、誰にも傷はつかないという所だ。私のやることは創作をして、幸せにするだけ。相手もとりあえずは幸せになるだけ。罪悪感もない。身も滅ぼさない。何も残らなくは無く、創作物は残る。楽観的な考えかもしれないが、これが私に考えうる現時点での「最高の復讐」だ。
とはいえ、この世には理不尽があふれている。理不尽な人間もたくさんいる。言葉や身体をつかった暴力はよくないが、復讐の気持ちだけは溢れて止まらない時がある。磔獄門にして、市中を引きまわしてやりたいときもある。私は最終手段のいくつか前の手段として、MCバトルを考えている。いつか私はMCバトルをしてしまうかもしれない。それでも治まらない時は、その時また考えよう。もし、いままでした中で気持ちのよい復讐がある人は教えてほしい。
みんな、復讐をしよう。
追記
この世には違法ではないがクソなことをする人間がたくさんいる。ぶち飛ばしたいときは、ぶち飛ばした方がいいときがあるかもしれない。そんな奴を、幸せにしてやる必要はない。上記の復讐方法は、きっとあくまで「許す余地のある範囲人々への理想的な復讐」に過ぎないのかもしれない。それを超えて、これは許せない「悪」だなと思えるものには、復讐はともかく、泣き寝入りせず徹底的に抵抗したほうが良い。その時は喜んで手を貸そう。一緒に何か方法を考えよう。