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「22世紀の資本主義」を読んだ話

成田さんの話は好きである。
アホみたいな理由で炎上してるのは残念ながらアホが多いからであって、この人の話は面白い。

この本の終盤。経済を測るから比較して良し悪しの判断がついてしまう。その人が何をしてきたかというところをデータとして残していさえすれば、その人の評価を経済的な数値ではなく、何をしてきたかということで見れるアート作品のようになる。

というお話が出てくる。

人は人を評価するときに、あなたの資産は?年収は?という指標をよく使う。
こういうの好きではないと感じている僕ですら、この指標をよく使う。

毎日のように学校帰りに僕の家でウイイレをやっていた高校の同級生に数年前に会ったときに仕事の話を聞いたら、
外資系の企業でおそらく年収3000万くらい稼いでいることがわかり驚いたことがある。

ウイイレで僕がアルゼンチンばかり使ってたのが悪かったのか、大きな差がついてしまった。

だから、僕と彼との人間的な差も大きくて僕は彼と比較したら取るに足らない人間であるとなりそうなのが、その経済的指標による人間的評価である。

その指標があるからそういう評価をしてしまうのである。

アートとして、数値的評価を捨てようという話はとても面白いと感じた。
振り返ってみると、僕はやりたいことをしようとし、やりたくないことを避けて生きてきた。歪かもしれないがアーティスティックな形を持った人生なのかもしれない。

そして、僕は今日も昨日もずっと幸せなのである。にもかかわらず経済的指標を持ってくることで、その幸せが脅かされる可能性があるのである。

今日作った手羽元と大根の煮物が美味しかったことは、どのような評価になる?
昼に作った焼きうどんは?
健康のためにジムに通いだしたことは?

数値的な評価というものから脱する。
簡単な話ではないけれども面白いと感じた。

お金では買えない、自分にとって価値のあることに目を向けるようにしてみようか。

僕の持っているもので1番価値を感じているのが、結婚して9年も経つのに奥さんと顔を見合わせて笑顔になれるという瞬間である。
特に何もなくても笑顔になれるのである。
何気ない会話もまだまだ顕在だし、そもそもケンカをしたり文句や愚痴を言ったり言われたりすることもない。

奥さんの友達が、旦那さんとのコミュニケーションについての話を聞いてきたのだけど、まともな会話はないそうだ。
するのはお子さんの話くらいなもので、必要だからするのだろう。
当然、見つめ合って笑顔になることもないのだろう。

それが世のスタンダードなのかはわからないけど、少なくない事例だとは思う。

ここ数ヶ月、食事の用意は僕がするようになったのだけど、食事を作る意欲が湧いてくること、美味しいものを作れる技術、それを奥さんが美味しいと言ってくれることなども、とても大きな価値だと思っている。

仮に年間100万円払ったところで簡単には得られないような価値のあるものを僕は多く持っているのである。

経済的指標を持ち出すこともなく、そこに価値があることを感じ、そういったものを重んじる生活を送っていくことが、経済的指標からの脱却になり、より僕を幸せに持っていってくれるのではないかと感じる。

この本の結びの一文「ただそれぞれの人がそこにあるがままにあるための仕組みが測れない経済である。」

これだ。

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