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デウスの誓い  Part2

     2 木梨孝司                          

孝司の大学は、自宅から電車を乗り継いで一時間ほどかかり、郊外の小高い山の中腹にあった。
最寄りの駅からスクールバスがでていて、駅から徒歩で行くと三十分ほどかかった。
駅の周辺は、大学が移転する前は人口が少ない過疎地域で、サラリーマンが棲むようなニュータウンもなく、畑や水田があちこちにあった。
大学が移転し、地元商店が大学生向きの飲食店などに商売替えをし、大手資本のチェーン店もこぞって進出してきた。駅前には、学生相手の定食屋、ファーストフードのほか、ゲームセンターやパチンコ店などもでき始めた。
 駅でスクールバスに乗ろうと歩道の端を歩いていると、コツン、コツンと上品で心地よい靴音のようなものが聴こえてきた。
その音に引率されながらバス停のそばの建物の窓の近くまできていた。すりガラスの窓は半分開いていて、なかの様子を窺うことができた。
少し薄暗い室内に緑色の長方形のテーブルがいくつもおかれていた。そのなかの一番奥のテーブルにふたりの大学生らしい男が、代わる代わる上体を倒し、棒状の道具で白い球を突いていた。
孝司はその様子をぼんやりと見ていた。そして、両目を軽く閉じ、耳をすませた。
球同士が当たる不規則な音は、慎ましく、奥ゆかしく、密やかな音に聴こえた。
烈しく当たっても粗野ではなく、鞭でしなやかに叩いたような張りと気品が感じられた。
「おもしろいだろう」
背後から男の声がして目蓋をゆっくりあけた。
「何だ、見てなかったの?」
男が孝司の顔を横から覗きこんでいた。
「えっ」
孝司は少し大袈裟に身体をかわすように動かし、男から離れる素振りをみせた。
「見ていてていいだよ。今度はじっと両目を開いてね」
 男の白い顔、その額にさらさらの髪が流れるようにかかっていた。昔の青春映画に出てくる青年のようだった。目が涼しくて、全体的につるりとしている顔立ちだ。
孝司が室内の様子に目を凝らしていると、彼の顔から目を外さずに男は言った。
「君、新入生だよね、じゃ決まりだ」
 男はジャケットの内ポケットから定期入れパスを取り出し、その中から名刺を一枚孝司に渡した。
『ビリヤード研究会』名刺の半分をその文字は占めていた。申し訳なさそうに名刺の一番下に横書きで『会長 榊原健太郎』と書いてあった。
「カルチャー系なのよ。体育会系じゃないからね」
孝司は名刺と榊原の顔を順番に見た。
「でも、もうサークルに入ったから」
「どこのサークルに入ったの」
「ラテンアメリカ研究会」
「何それ。何やるところ。聴いたことないな。その研究会、何が楽しいわけ」
「別に…入学式の日に記念会堂の前でつかまって、強制的に名前書かされて…」
「あのさ、そういうの、よくないよ。同じ研究会だけど、何やるのよ、その会。ラテンアメリカのこと皆で、顔つきあわせて心配したり、ラテンアメリカの料理なんか、作ったり、食べに行ったりするわけ?」
「僕もよくわからないけど…歴史とか…」
「あれ」
榊原は腕組みをして窓と孝司の間に立ち、孝司の視界を塞いだ。
「あれ、あれ…君、理学部か工学部じゃない?」
「理学部です。数学科」
「やっぱりそうでしょ。あのね、ビリヤードは理科系がむいているのよ」
「はい?」
孝司は腕時計を見た。授業が始まる時間まで十分ほどしかなかった。
「ここから覗いていたから、きっと興味があると思ってさ」
「目を閉じて聴いていたんです。いい音だなあって」
孝司はもう一度目蓋をとじた。ビリヤードの球が当たる音は聴こえてこなかった。
榊原は孝司の腕をつかみ、引っ張りながらビリヤード場の中に引き入れた。
少し薄暗く見えた店のなかは、入ってみると、球を打つのに集中力を高めるのに丁度よい明るさに思えた。
空気はこの季節にしてはひんやりして孝司を緊張させた。壁に立てかけてある木製の棒を持ってきて、孝司の前で突きたてた。
「この木製の棒がキューというんだ」
榊原はキューの先をゆっくりメトロノームのように横に動かした。
「白い球、手球というんだけど、これで、カラーボールに当てて順番にポケットに沈めてゆくのよ。ナインボールでやることが多いから、それにしたがって説明するぞ」
榊原はビリヤードのルールを説明し始めた。
一番奥のビリヤードテーブルで突いている二人組の男たちの球の音が、快く孝司の気持ちに入ってきた。淡々と思慮深くカラーボールにあたる時は、あっと声をだしそうになるほど感動深かった。
球同士が会話を交わしているように孝司には聴こえた。
 榊原の説明は続いていた。突く時には、両足を浮かしてはいけないとか、二度打ちに気をつけろだとか。注意を払う事項が変わるたびに、榊原は、テーブルの木製の外枠の上に尻を乗せたりおろしたりした。
孝司は、榊原の説明ではなく、強くてもどこか甘みのある球が弾け合う音をうっとりと聴いていた。
 翌日孝司はレンタルショップでDVDを借りて自分の部屋で映画を見た。
プロのプレーヤーの復讐劇が交錯したサバイバルストーリーだった。
台詞にしばしば登場する精神力という言葉が意味する着地点に孝司は少しうんざりした。映画の音声は、昨日ビリヤード場で聴いた弾き合う音と違うような気がした。孝司は耳をすまし、意識を集中し、ビリヤード場で球を突く場面に巻き戻し繰り返して聴いた。
何度も繰り返し画面を見ていた孝司は、はっとして、上体を後ろに倒した。
ビリヤード場で球の響きが違うのではなく、同じ手球を打っていても、プレーヤーによって音が違うことに気づいたのだ。
この映画の主人公が突く球の音が孝司の胸に響いてこないのはどうしてだろう。孝司は、はっきりしない頭のなかで目の前で球がぶつかり合う音が聴きたいと思った。

 ラテンアメリカ研究会は退屈だった。
法文学部の建物と学生食堂に挟まれた小さな建物の五階に部室があった。
ラテン音楽のポスターが貼ってあるドアを開くと正面の窓の下に数人が座れるテーブルがおいてあり、飲みかけの缶コーヒーやポテトチップのかけらやサンドウッチの食べかけなどがいつも散乱していた。
白いテーブルはこぼした飲み物の痕がこびりつき、それが層になって奇妙な模様を形成していた。
 ドアの正面のテーブルにはいつも誰かが、好きなことを、好きなように、好きなだけ、時間を潰しながら座っていた。
ラテンアメリカの小説を翻訳本で読んでいたり、ラテン音楽の弦楽器を弾いていた。要するにラテンアメリカの範疇のことを勝手にやっているだけだった。
 孝司は、特別ラテンアメリカには興味がないので、入会して二週間を過ぎた日、退会届けを出しに部室に行った。
退会届けを出すのと同時に、現金で払った年会費の五千円を取り戻そうと思っていた。
「虫がいいんじゃないの」
二年生の三浦美茄は、鼻先を上に向け、孝司の顔を見ずに口を尖らせた。
「でも、まだ二週間しかたっていないし、何もやってないから、年会費の五千円は返してもらえると思って」
 美伽はテトラパックの豆乳にストローを挿し、チューチュー音をたてながら顔を背けていた。そのチューチューの音が終わった瞬間、孝司の胸のあたりに鈍く白い飛沫がいくつか飛んだ。
孝司は唖然として美伽の顔を見た。孝司の足元に豆乳のテトラパックが落ちていた。
「一度払ってしまった年間の会費は戻らないの。半年でも一ヶ月でも、一日でも同じなのよ」
「でも……」
「一日しかたっていなくても年会費なのよ。わかる。そういう種類のものなのよ。それに、もうそんなお金どこにもないわよ」
「返してもらわないと…今アルバイトもしてないし…」
美伽はじっと孝司の表情を見ていた。
「お金は返せないのよ、そういうことになっているから」
美伽は一転、落ち着いた低い声で言った。
「ちょっとついてきなさい」
美伽は立ち上がると、横にあったバッグを肩にかけて立ち上がった。
スクールバスのなかで、美伽は孝司にご馳走するから一緒に来なさいと言った。
孝司はビリヤードのことが頭の片隅から離れなかった。スクールバスを降りると孝司は、ちょっと先に行きたいところがあるのでと言うと、ビリヤード場に迷うことなく向かった。
美伽も黙ってついてきた。
 夕方が迫るビリヤード場は、やっと役割が回ってきたような雰囲気に包まれていた。人はそれほど多くはないのに活気があった。大学生に混じり、地元の人間がプレイしているからかもしれないと孝司は思った。
 窓の横の壁にもたれかかり榊原健太郎は立っていた。
いつもの紺色のジャケットに蝶ネクタイをしていた。孝司は、蝶ネクタイをした人を実際に初めて見た。これほど周囲と不調和で異質なものかと、しばらく榊原から目が離せなかった。
榊原はバンキングの後、相手が後攻者になりナインボールのラックを組んだ。
榊原が先行者で、ブレイクショットを行った。
キューのフォロースルーを大きくとり、彼はしばらくそのままの姿勢を保った。的球はポケットに入らず、手球は、いうことをきかない子供のように、あちこちのクッションに跳ね返り、止まることをしらない。
後攻者はキューを片手で持ってしばらく思案していた。相手は同じ研究会の四年生だった。
名前は法文学部法学専攻の五島正樹という学生だった。
五島は手球を切れのよい動きで突き、若い番号の的球から順番に理路整然とポケットに入れていった。彼の性格が表現されているように孝司は感じた。
例えば、朝鏡に向かい歯を磨いた後、歯ブラシは決められたいつものコップに、いつもの角度でおき、チューブは底からゆっくりと巻き込み、鏡に飛び散った歯磨きの飛沫は丁寧に濡れたタオルで拭く。そういう一連の生活のリズムがビリヤードの動きに表われているような気がした。
榊原のプレイの番はなかなか回ってこなかった。
五島は表情を変えず、階段をゆっくり踏みしめるように、ひとつずつ九個の球を沈めていった。
孝司は、入り口の傍の少し離れた横長の椅子に座りながら、榊原と五島のプレイを見ていた。
そして時々目を閉じた。
五島の律義な球を突く音が快かった。孝司は少し前に見たビリヤードの映画を思い出していた。
美伽は孝司の隣に座っていた。
「球突かないの」
美伽が孝司の耳の近くで言った。水の中で聴こえるようなくぐもった声で、遠い森から聴こえてくる小動物の鳴き声のようだった。
「球が当たる音を聴いている方が好きなんだ」
 美伽は、へーそうなのというような不思議そうな顔をして孝司の顔を見た後、榊原と五島の方を見やった。
榊原の蝶ネクタイが微妙にぴくぴく生き物のように動いた。
「あの人、五島さんというのよ」
 孝司は窓の外を見た後、隣の美伽の横顔を見た。僕知っていますと言おうとしたが声がでなかった。窓の外は空が群青色になりあけて小高い山に溶け込もうとしていた。
「なぜ知っているんですか?」
「五島さんは私と同じ法文学部なのよ。私は文学専攻で、五島さんは法学だけど」
 孝司は息を大きく吐いた。
何かが始まろうとする気配があるように思えた。
もしかしたらもうとっくに始まり、もうすぐ枯れ果ててしまうのかもしれないと孝司はふと思った。
「三浦さんは二年生で、五島さんは四年生ですよね」
「一般教養の必修科目があるでしょう。あれを大量に残しているのよ。五島さん」
 孝司は五島の姿を見た。
ビリヤードテーブルのラシャのスレートに腹を擦りつけるように身体を屈めていた。美伽の話と五島の身体から発するものとは、孝司の頭のなかでは繋がらなかった。
「法文共通の必修が多いの。五島さん四年だけど、ほとんど必修単位とれてないの」
 孝司はふたりのプレイに目を移した。
五島が失敗し、最後のひとつの的球を榊原が突くことになった。榊原の喉がごくりと動くのがわかった。そして蝶ネクタイが上下に動いた。
「声かけられてさ。五島さんに」
 榊原は左手でキューを縦に持ち、右手の親指で顎の先端を触っていた。
榊原の思案顔が孝司には不思議に見えた。極めて単純な突きかたしかないと孝司には見えたからだ。
「ノート貸してくれとか、ここのところがわからないとか、最初はそんな感じだった」
 五島は榊原のプレイを待っていた。
少し顔を上げて、入り口近くの長椅子に座っている美伽ににこりと笑いをつくった。そして顎先を少し上に向けて、口をすぼめるように尖らせた。孝司が初めて見る五島の表情だった。
でもその時、孝司は、何かに気がついた。具体的に何なのかわからなかったけれど、どこか頼りなげな、坂をころころ転がってゆくような、その転がるものが、ばらばらに壊れてゆくような、そんな感じのものだ。
榊原がはずし、また五島に順番が回ってきた。最後の一個の的球だった。
「教室に入ると、ぐるりと教室のなかを見回して、私を見つけると私の席に向かい、一直線にすたすたやってきて、隣に座ると、身体をぴったり寄せて、何も言わずに座っているの」
 五島は冷静な表情を保ちながら、最後の一球を仕留めた。
猟師が獣を撃ち抜いた後のように、キューの先をチョークでくりくりと整えた後、スレートの上のラシャと同じ素材の小さな赤い布で先端を丁寧に拭いた。
 美伽はそれ以上何も五島のことを話そうとしなかった。
五島は美伽に向かって、口を動かした。でもその口からは言葉が出ていなかった。口のかたちで言葉を伝えようとしていた。手旗信号のように、それはしっかりと、確実に、素早く行われた。
 美伽は、五島の口の動きと釣り合いがとれたスピードでひとつ肯いた。
五島と美伽だけがわかる暗号のようだった。

 孝司と美伽は新宿で電車を下りた。
五島は榊原とビリヤードを続けていた。
 ふたりは南口から外に出た。新宿までの二十分の間、電車の中では孝司と美伽は何も話さなかった。
孝司の頭のなかで、球がクッションに当たる音や、球同士が弾け合う音が、何回も繰り返し響いていた。孝司は、余計なことは考えず、ひたすらビリヤードと立ち昇る響きだけを聴こうと試みた。
 ふたりは南口の前の信号を渡り、大型書店の前を無言で通り過ぎた。
辺りは暗くなっていた。道が狭くなり、気持が少しずつ圧迫されるような錯覚をおぼえながら、孝司は線路沿いの道を歩いた。
やがて駅のサインが見えた。ふたりはその駅の高架下の道をくぐり、改札口に入ろうとした。孝司は少し、憚るような態度を見せたが、先に歩く美伽に合せて改札口を通過した。
山の手線のホームは風が強かった。
風は春の匂いを含んでいた。
電車がきて学生や予備校生が大量に下車し、また同じ人数が乗車した。孝司と美伽は座席に座ることができた。
「どこの駅で降りるんですか?」美伽は黙っていた。
 立っている乗客の間からちらちらと街の明かりが見えた。今夜の明かりは妙に白っぽいなと孝司は思った。
「ひとつ質問があるんですけど」
「今質問したじゃない」
電車がスピードを増したので、目に入る街の光源が勢いよく行き過ぎ、目がちかちかした。
「いいから言ってみなさいよ」
言葉の強さに比べて美伽の声の調子は穏やかだった。
「新宿で山の手線に乗り換えればよかったんじゃないかと……」
「歩きたいのよ。あの道を歩くのが好きなのよ。何か悪いことでもある」
「別に、特別悪いことはないですけれど…」
「けれど…何なの」
「あまり素敵なことじゃないので…」
美伽は揺れる電車の中で、身体の向きを変え、孝司を正面から見ようとした。前に立つ中年のサラリーマン風の男に身体が当たりそうになり、男は迷惑そうに顔を下に向け、美伽を睨んだ。
「素敵なこと?そんなことこの世の中にあるの。わたしは、新宿で降りて、あの細い情けない暗い道をとぼとぼ歩いて次の駅に辿り着いて、そこから山の手線の内回り電車に乗りたかっただけよ」
「別に否定はしません…世の中にそれほど素敵なことがあるとも思えないし…」
「そうでしょ、それで、思う存分山の手線をぐるぐる気が済むまで乗り回すのよ」
急に大きくなった美伽の声に前に立っていた中年のサラリーマン風の男は呆れたように美伽の顔を見た。
「思う存分というと…どのくらになるのでしょうか?」
「そんなことはわからないわ。その日の事情で、その時のはずみでどのくらいになるのか。私にもわからない」
美伽は少し呆気たような表情をした。首を傾げ、前に立つ男の股間あたりをぼんやりと見ていた。
「はずみですか…」
「そう、はずみよ。今日は内回り線だったけれど、明日はわからないわ。外回り線かもしれない。とにかく私は、山の手線でぐるぐるいつまでも回っているのが好きなのよ」
「好きなんですね」
「あなたがビリヤードの球がそこらじゅうに当たる音が好きなのと同じよ」
 その夜、孝司と美伽は、山の手線の内回り電車を三周し、三時間弱電車に揺られた。
そして、戻ってきた新宿駅で下車し、くすんだ、すえた匂いのする小さな居酒屋で一時間ほど酒を飲んで切り上げた。
美伽は酒がそれほど強くないにもかかわらず、ガブガブ日本酒を飲んだ。勘定は、ふらふら足許がおぼつかない彼女が払った。
居酒屋を出ると、スイッチが急に変わったように道の真ん中に美伽は倒れ込んだ。美伽の家の住所をやっとのことで訊きだし、押し込むようにタクシーに乗せ、運転手にその住所を伝えた。
孝司は、山手線の内回りの品川止まりの最終電車に乗り品川から歩いて自宅に辿り着いた。

 ラテンアメリカ研究会の三浦美伽とはそれからしばらく会う機会はなかった。孝司は年会費の五千円を取り返すのを諦めたし、学部は違うし、大学付近の彼の動線は理学部の校舎とビリヤード場しかなかったからだ。それに加え、彼女の携帯電話も知らない。
 ただ、山の手線に乗ると孝司は美伽のことを思いだした。
 数学科の授業は特別、何の苦労もなく、また格別興味をそそる授業もなく進んでいった。
ラテンアメリカ研究会をやめ、ビリヤード場に通うことが孝司の生活の中心になった。榊原と五島たち四年生は孝司のような入学して間もない学生には目を向けず、自分たちの力を向上させるのに夢中になっていた。
四年生のそういう無関心な態度は、孝司にとって有難いことだった。孝司はビリヤードをプレイすることよりも、見ること、球が弾け合う音を聴くのが好きだったからだ。
 そういう孝司でも、まったくビリヤードをしないわけにはいかない。自分が突いた球の音は、プレイをしないで脇の長椅子に座って聴いていた時と違う音に聴こえた。
 空気の中が湿気に満たされた水っぽい梅雨はすぐにやってきた。
じっと耐えていると夏休みがやってきた。
ビリヤード場は学生たちの姿はなく閑散としていた。でも榊原は、孝司と同じ回数で大学の近くのビリヤード場までやってきていた。
 ビリヤード場の使用料をかせぐため、孝司は、時給がよい深夜コンビニのアルバイトをした。
夏の間、時々榊原がナインボールの相手をしてくれた。五島の姿を見たのは、夏休みの間は二回だけだった。五島が来た時は、榊原は孝司に構わず、無言で五島に挑んでいた。  
でもいつも最後に球をポケットに入れるのは五島だった。そして勝ってしまうと五島はすぐに帰ってしまった。
 夏はまたたくまに過ぎ、九月はすぐにやってきた。孝司はコンビニの深夜アルバイトを続け、朝家にたどり着き、父、久雄の様子を窺いながら、自分の部屋で二、三時間睡眠をとり大学に通った。
 九月も中旬を過ぎたその日、孝司はビリヤード場の入り口のドアを押した。
夏の蒸し暑さが残るなか、クーラーの冷気を含んだ風がやさしく店から流れてきた。榊原と五島が、指定のビリヤードテーブルで球を突いていた。テーブルの横の長椅子に三浦美伽がキューを右手で握り座っていた。
孝司は、美伽を認めるとプレイをしている五島を見やり、すぐに美伽の姿に視線を戻した。
短いスカートの太腿を合わせ、膝から下をハの字に開いていた。少しくすんだ白いズックを履いていた。オレンジ色のノースリーブがビリヤード場の唯一の色彩のように、しっかりと孝司の目に焼き付いた。
孝司の姿に気付き、美伽は軽く微笑んだ。
前後関係がない笑顔だった。
通りかかった道端で風に揺れるコスモスを見たようだと思った。
孝司は少し猫背になりながら、三人の方へ歩いてゆき、誰に対してということもなくペコンと頭を下げた。美伽は右手で、自分が座っている隣のスペースをぽんと軽くたたき、ここに座れという仕草をした。
五島がゆっくり振り返った。
孝司は五島をちらりと見て美伽の隣に座った。
「ラテンアメリカ研究会やめちゃったのよ」
「そうですか」孝司は関心がなさそうな声で言った。
「あそこで豆乳飲んだり、サンドウッチ食べたり、先輩が持ってきた歌舞伎せんべい食べたり、たまにラテンアメリカ料理を新宿に食べに行ったりしてもしょうがないでしょう」
「たしかに」
「まあ、知り合いも多いからビリヤードやってみようと思って」
「そのほうがいいと思います」榊原が連続して球を突いている。今日は調子がいいらしい。五島が手持無沙汰に美伽と孝司を順番に見た。
「おまえも次やるか」
五島が美伽の顔を見て言った。少し威圧的な物言いだった。ビリヤード研究会の後輩や男子学生に言うときは整然と思慮深いのに美伽に対しては違っていた。
美伽は、いたずらっぽい目を孝司に向けてから立ち上がった。美伽は五島の粗野な言い方を自然に受け入れ、榊原とナインボールを始めた。
美伽のプレイはぎこちなかった。ボールをうまく突くことができないと、相手の榊原が熱心に身ぶりを加えて彼女に教えた。
五島は脇で表情は変えずにじっと聴いていた。榊原の色白の顔はしだいに熱を帯びて赤くなった。美伽は、うまくいってもまた、その逆にボールをかするだけであっても何事もなかったようにプレイをした。
孝司は長椅子に座り、じっと美伽と榊原のプレイを見ていた。榊原だけが、フライングした短距離ランナーのように、じりじりと沸きでる興奮を抑えられないように見えた。
 五島の提案で事態は変化した。
榊原が手球を打ち、まだその音が響いている時、五島は遮るように、断定的に、プレイを終了するように言った。
そして、そそくさと立ち上がり、先頭にたちビリヤード場を出ていった。
孝司はその姿が、五島にしてはバランスを欠いたように見えた。彼のプレイの端正さとあまりにも違う姿は孝司の胸に焼きついた。
ほかの三人が表にでた時、五島はビリヤード場の外壁にもたれ、煙草を吸っていた。
出てきた三人を見ると、にやっと笑い、食事にいきましょうかと柔らかく、落ち着いた声で言った。
ビリヤードのプレイ中の五島に戻っていた。
四人は電車を乗り継ぎ都心にでた。
五島は慣れた様子で一軒のレストランに入り、残りの者も後に続いた。
「俺のおごりだから、気にするなよ」
と言うと五島はメニューを開き、顔の前に持っていった。顔がメニューに隠れた。店内は四人がけのテーブルが三つあるだけの小さな店だった。
それぞれのテーブルに赤と白のギンガムチェックのテーブルクロスがかけてある。
壁がクリーム色に荒く塗られている。たぶんフランスか、その辺りの国の料理の店なんだろうと孝司は推測した。
五島は、ふんふんと首を縦に振りながら無言でメニューの料理を指さして注文した。
「結講羽振りがいいじゃないか」
榊原は店内を見渡しながら言った。
「たいしたことないよ、たいした店じゃない」
 五島が答えると、孝司ははらはらしながら店の奥を覗いたが、美伽は、関心なさそうに黙っていた。
孝司は五島が妙にバランスが悪いように思えてならなかった。榊原にビリヤードで珍しくやられてしまったからか。美伽を加えた人間たちの不安定な関係のためなのか。
 イワシと夏野菜の前菜、鴨フィレ肉、牛テールの赤ワイン煮込みなど、孝司が食べたことがない料理が運ばれてきた。
五島はそのたびに、簡潔に彼らしく料理について説明を加えた。
その説明が正確なのかどうか、誰にもわからない。
「ここはよく来るのか」
榊原は少しもぞもぞしながら五島に訊いた。
「二、三度かな」
 そう言うと、五島は人数分切り分けた牛テールを皿に移し、ナイフで丁寧にゆっくり切り、静かに口のなかに入れた。
会話は弾まなかった。
四人は取り分けた料理をそれぞれのペースで口に運んでいた。それぞれが、別なことを思い浮かべていた。孝司はビリヤードの音を聴いていたし、榊原は不思議な取り合せのメンバーと目の前の料理の金額に思いを巡らせていた。
 美伽の顔が複雑な様相をみせた。パーツがばらばらになり、好き勝手な方向を向いた。そして、あっと言う間にひしゃげて崩れた。
「なんであなたはいつもそうなの?こんなこといつまでも続くわけがないでしょう。お金もないのに見栄だけは超一流で、なんになるのよ、こんなもの。犬の餌にもならないじゃない」
美伽は一気に言うと、ふうと息を吐き、虚脱して両肩をがくっと落とした。
 榊原は美伽の勢いに押され、身体を細かくふるわせ、額に汗をうかべた。孝司は視線を五島に移した。
五島は、つるんとした蛙のような顔で視線を真直ぐ窓から見える道路に向けていた。焦点は動かず、ひとつのものをしっかりと見ていた。美伽は椅子にかけてあったショルダーバッグを肩にかけ、ゆっくり立ち上がろうとした。
「だから駄目なのよ。何度経験しても、あなたは学習しない。同じことを繰り返す。地獄に落ちるわよ」
美伽は言葉の烈しさには似つかわしくない、ゆっくりした足取りでドアの把手に手をかけ、その金属の感触を確かめるようにしてから、ドアを引いて出ていった。
「駄目?地獄?」
五島は口のなかで、噛みしめるように言い、それを喉の奥に流し込んだ。
孝司は黙っていた。
首を回すと、両肩を揺らしながら、遠ざかる美伽の後ろ姿が見えた。
店にいた時には見せなかった身体の動き方だ。
「俺、今夜、コンビニの深夜バイトの日だから。その前に少し寝ておきたいから、これで失礼します。ご馳走さまでした」
孝司は五島も榊原の顔も見ずに立ち上がった。
彼が言ったことは事実だったが、同時にこの場所にいることが孝司には途方もなく苦痛だった。孝司が出ていくのを誰も止めなかった。
孝司は駅に向かいながら、息苦しさを払うように深呼吸をした。
歩道の先に小さく美伽の姿が見えたが、彼女との距離が詰まらないように、彼女の歩くスピードに合せながら孝司はゆっくり歩いた。

 自分の部屋で、ごろんと仰向けになり、少しの時間でも睡眠をとろうと思ったが、孝司はなかなか眠ることができなかった。天井の木目をじっと見ていると、数時間前のレストランの光景が浮かんできた。
頭の上においていた携帯電話がなった。
「木梨くん、今どこにいるの?」
 美伽の声が聴こえてきた。随分遠くにいるような、ざらざらした小さい声だった。
「家ですけど…でもなぜ僕の携帯の番号を知っているんですか?」
「ごめんなさい。居酒屋に飲みにいったことあるでしょ。木梨くんがトイレにいった時、テーブルにおいてあったから見ちゃったの」
語尾が少し弾んでいた。
「さっきはごめんなさい。嫌な思いさせたでしょ」
「いえ、そんな…」
「ねえ、今出て来ることできない」
「どこにいるんですか?」
「近くよ。すごく近くにいるの」
「えっ…でも、これからバイトあるし…」
「そうか…でもさ…きょうのバイト代だしてあげるわ、わたしが」
「そんな…」
 孝司の気持ちはすぐに傾いたが、少し間をおいて美伽に返事をしようと思った。
美伽は、孝司の家のすぐ近くの駅前にいた。
孝司は、コンビニのオーナーに電話かけ、今夜のバイトは急に行けなくなったと伝えた。オーナーは代わりのバイトがいないからと渋い声をだした。
自宅の階段を下りてゆくと上ってくる兄の蓮二に出くわした。十二時近くになっていた。バイトかと訊かれたが、答えずに無言で孝司は外に出た。
 美伽は駅前交番の前の歩道の白いガードレールにもたれていた。
「何も言われなかったですか?」
孝司は交番のなかを首を傾けて見た後、覗くような格好で美伽に言った。
「何も訊ねられなかったわ。ここが一番安全だと思ってさ。職質しないのは職務怠慢よね」美伽は二コリと笑い、目を細めた。
「ねえ、ちょっと歩こうか」孝司は美伽が進む方向に合わせて無言でついて行った。
「驚いたでしょ」
 美伽の声は夏が終わり、しだいに透明になってゆく夜の空気のなかで澄みきったまま孝司の耳に入ってきた。
「よくわからなくて…」
「よくわからないか、そうだよね。あれじゃわかりようがないよね」
美伽は、笑い声を出しながら言った。
「あのさ、五島のことさ。どう思う」
美伽は五島を呼び捨てにした。
「どう思うと言われても…」
 少し沈黙ができた。孝司はその沈黙が快かった。自分のためにとっておいてくれた宝物のように思えた。
「あいつの家どんな家か知ってる?」
「いえ、そういう話は僕にはしないから。僕の方からも訊かないし…」
「あのさ、あいつ実家東京なんだけど、おやじ自己破産してんだよ」
「自己破産」
「そう、だからお金は当然ないわけ。だから大学の学費とかも本当は厳しくて、バイトなんかしなくちゃいけなんだけど、とにかく使うんだ。人にお金借りてね」
 孝司は、五島の球を打つ整然として落ち着いた、そして思慮深い表情や態度を思い浮かべていた。
「私さ、五島と付き合っていたんだけど、あいつお金を借りることには天才的で、同級生だとか、そのまた知り合いなんかに、どんどん借りるの。カモっていうのかな、そういう人見つけたら、まるごと食いつくすみたいな感じ…私がそうなんだけど」
美伽は暗闇のなかで歩きながら俯いた。
「何度言ってもわからないのよ。あの人。もう終わりだと思っても、何も言い出せなくてずるずると…」
 いつの間にか周囲に建物が途絶え、目の前にこんもりと森のような樹木の山が黒々とそびえるように迫っていた。美伽はその漆黒の塊を指差し、信号を渡り、その暗闇のなかに入っていった。左右が樹木の塊で覆われている砂利道をふたりは音をたてて歩いた。そこは池を配した公園で、その池をぐるりと道が囲んでいた。
「遅くなってもいいんですか。もう美伽さんが好きな山の手線の終電も終わっていますし……」
孝司は闇のなかでまったく見えない腕時計を見て言った。
美伽は声を出して笑い、孝司の顔を見た。
「ひとり暮らしだからね。何時だってかまわないわ」
美伽は砂利道の中から大きな小石を見つけ、靴の先で池に向けて蹴った。小石は池まで届かず、池の縁の短い草の途中で止まった。
「皿に汚ならしく散らかして食べ物は残すし、床にこぼしたものを平気で踏んだり、これから洗濯する洋服に唾吐いたり、部屋にいるゴキブリを足の裏で踏み潰して、そのままにしておいたり…」
孝司は足を止めた。美伽は彼が止まったことに気付かず、数歩歩いてから振り向いた。
「もうそろそろだって思ってたんだ。でも、ふたりの時、ちょっと注意すると、あいつすごい暴力ふるうんだ。米粒がついた靴下で私の顔を踏みつけたり、膝でお腹を蹴り上げたり…でも手は絶対使わないんだ……なぜだかわかる」
孝司は闇の中でかぶりをふった。
 美伽はもう一度小石を見つけて、今度は前よりも強く蹴った。小石はポチャンとかわいい音をたて池の中に沈んだ。
「ビリヤードに支障があっちゃいけないから。本人がそう言うのよ。怪我したらいけない。俺の手は黄金の手だからって」
 美伽が自分の頬をそっと触ったのがわかった。
「みんなの前で言ってやろう思って。そう思うと感情が沸蕩したみたいに熱くなっちゃって。もうぶちまけてしまうしかなくて…」
 美伽は見えない池の遠くを見ようとしていた。
「でも、なんかすっきりしちゃった」
美伽は肩のショルダーバッグを池の淵の草むらに投げるように置いた。
そして着ていたカーディガンをとり、ショルダーバッグの上に丁寧に折り畳んだ。そして、ブラウス、スカードも脱ぎ、下着だけになって、背後にいた孝司に向き直り、にこりと微笑んだ。
「泳ぎたくなっちゃったぁ」
 両肩をすぼめるようにした後、池の方に歩きながら下着を全部脱いでスカートの上に放り投げた。
深夜の空気がひんやりと肌を撫ぜた。
美伽の全裸は闇のなかで幻のように白く浮かんでいた。
 池に小走りで向かい、水面の温度を確かめるように足の裏からゆっくりと水の中に入った。下半身を沈め、首までつかると、両手を水中で動かし始めた。
美伽の身体が動き始めると、黒く塗られた泥のような池が波打ち始めた。波が大きくなり、静かな音に調和しながら漆黒の水面が揺れた。
孝司はその光景を見ながら、美伽の身体が水中に深く沈んでいくような錯覚に捉われた。実際は遠のいているだけなのに、存在がどんどん欠けて消滅していくような気がした。
 アフリカで消えた兄の泰造のことがふと浮かんだ。何か、どこか似ていると思った。
そして泰造に連れていってもらった井戸掘りを思いだしていた。あの時、泰造と一緒に働いていた人の声が甦った。美伽が池の遠くに小さくなっていく姿と、あの男の人の嗚咽が孝司のなかで重なった。
小さな点になっていく美伽の姿を見ながら、孝司は彼女がとても身近な存在に感じた。
でもそれは深夜の都内の闇のなかで、哀しく、心が痺れるような、切ない出来事にすぎなかった。

 深夜の池で美伽が泳いだ日、孝司は美伽のマンションに泊まった。
 アパートではなく、マンションと呼べる小綺麗な洒落た白い部屋だった。
美伽の実家は地方の資産家であったようだが、詳しいことは美伽は話そうとしなかった。
 孝司は美伽の言われるままに、美伽の身体に触れ、身体を重ねた。孝司は、いつ五島がドアを叩き、あるいは合鍵で部屋に入り、いきなり彼女と寝ている孝司を蹴り上げるのではないかとはらはらしていた。
気が付くと既に陽は高くのぼり、カーテンの隙間から強い日差しが忍び込んでいた。
 美伽はまだ泥のなかで身動きがとれない動物のように眠り込んでいた。孝司は美伽の顔に耳を当てた。
「生きてるよ」
目を閉じたまま美伽が言った。
 孝司は気の抜けたような目で美伽の顔を見つめた。
昨日公園の暗闇で光っていた目とは明らかに違っていた。孝司はもう一度、美伽の顔に自分の顔を寄せた。美伽は両目を閉じていた。彼女は優しく唇を半分開き孝司を誘うようにかすかに動かした。
 孝司がうとうとしている間に美伽は化粧を終え、身支度を済ませた。時間は身勝手にどんどん孝司と美伽の回りを過ぎていった。
孝司は横になりながら、ぼんやり窓の付近を見ていた。
出窓のスペースに毛糸で編んだスキー帽のようなものがちょこんとおいてあった。少し暗いクリーム色の中央にm&mと赤い毛糸で編み込んであった。左右にだらりと垂れた耳あては、犬のバセットハウンドを思わせた。
「もらったの、それ」
美伽は言った。
「榊原さんにもらったのよ。僕の心からのプレゼントです、とか言っちゃって」
孝司は起き上がった。垂れた耳あてが、どこが不格好だなと思った。
「榊原さん、編みものやるのよ。結講手先が器用みたい。作品はこんなもんだけどね。ビリヤードも下手だし」
孝司は榊原の白い手と昔の青春スターのような顔と前髪を思い浮かべていた。
「男ってさ、少しやさしくしたり、悪酔いして背中なんかさすったりするとすぐに誤解するのね。俺に気があるんじゃないかって。ほんとバカみたい」
美伽はティッシュで鼻をかんで、ゴミ箱に捨てるように言った。
「好きだとか、愛しているとか言うのね。これ渡す時。五島と付き合っているのを知っているのに。それから会うたびに、あいつ見た目より性格悪いとか、本当はひどい悪人なんだとか言って。そんなの私はどっぷり知っているのに。バカみたい」
「そうなんだ」
 孝司はそう言うとドアを眺めた。榊原か五島が今にも駆けこんできそうに思えたからだ。
 ふたりとも黙り込んだ。
もうとっくに正午を回っていた。
昨日の夕方、フランス料理を食べてから何も口にしていなかった。
でも孝司も美伽も空腹を感じていなかった。食欲がどういうものかを思いだせないほど身体がシャープに磨かれていた。
「きょうは大学どうするの」
「行かないわよ」
「そうだよね」
「あのさ…」
「えっ?」
「私のこと……どう思ってるの?」
「どうって?」
 美伽は黙って目を伏せた。
「バカみたいなこと訊くけど…どうなの」
「よくわからない」
「そうだよね…だから、そういうところが好きになったのかな、私」
 好き、孝司は呟いてみた。ほとんど声にならない薄いシミのような声だった。
「好きなんでしょ、私のこと」
「まあ…はっきりしないけど。多分好きだと思う」
「多分?」
「そう、多分」
美伽は微笑んだ。
孝司は美伽をかわいいと思った。
「かわいいと思う」
孝司はそのまま口に出して笑った。
「前からと言うか、子供の時から、好きとか、そういうことがわからないんだ。どういうことなのか。嫌いじゃないということは比較的わかるけど…」
美伽は覗き込んで孝司の顔を見ている。
「でも…」
「でも?」
「ビリヤードは放っておけない気がした。何と言うか、ビリヤードの規範みたいなものをもっと知りたいと思った」
「規範か、難しい言葉使うわね」
「感じたいんだと思う。多分」
「多分か」
美伽は、海岸で煙草を吸っているような遠くを見る目で、窓の外の空の向こうを追った。
「私の規範も知りたいでしょ?多分」
「うん、多分」
 秋らしくなった深い空を雲がゆっくりと、ふたりの気持ちに合せるように移動していた。
雲は好きも嫌いもなく、そのままのかたちで、何も言わず、何も言われないまま動いていた。このまま時間だけがふたりに関係なく過ぎていったら、どうなるのだろうかと美伽の顔を見ながら孝司は思った。

 その日から孝司は、週に一回、深夜バイトがない夜を選んで美伽のマンションに泊るようになった。
時間が経つにつれ、それが、二回になり三回になった。
孝司がずるずる彼女の部屋に居つくというより、美伽が望み、孝司がこまごまとした日常生活のことをするようになったからだ。
五島と美伽の関係は、あの日以来疎遠になったようだ。孝司は彼女に五島とのことについて訊くことはなかったし、彼女の口からも何もでてこなかった。
ただ一度だけ美伽が風呂にはいっている時、美伽の携帯がなり、着信表示に五島の名前が浮き出ていることがあった。
孝司はビリヤード研究会で五島と顔を合わせたし、プレイもすることがあったけれど、五島の様子は以前と何も変化がなかった。美伽と孝司の関係を知っているのかどうか。仮に知っていても態度を変えたり、感情を表するのは、五島のプライドが許さなかったのかもしれない。
孝司は自分からは何も周囲には言わなかった。
美伽もそうだった。
 コンビニの深夜バイトも、しだいに減り、自然と昼間の時間帯に変えるようになっていた。
孝司は洗濯をし、栄養のバランスと美伽の好きなものを考え合せメニューを一週間分つくり、買い物で野菜や肉や魚をあれこれ品定めして料理をつくるようになっていた。ハサミや糊やホッチキスなどテーブルにだしたものは必ずチェストの抽斗にしまい、掃除は欠かさず決められた時間に行った。
家事への関心と作業の精度は美伽よりも孝司の方がはるかに勝っていた。
孝司は家事の作業が特別苦にならなかったし、人に惑わされず、気を使うことなく、ひとりでぼんやり行うことを好んだ。
実家で暮らしていた時は、ほとんど何もやらなかったが、美伽のマンションで多くの時間を過ごしたことにより、自分がそういう作業に比較的向いていることがわかった。美伽のいない時間に家事をやることが、楽しい時間であることが自分でも不思議でならなかった。
 美伽は、孝司とこういう関係になる前かよりも大学の授業に集中しているように見えた。法文学部日本文学科の美伽は、三年になり、ゼミでも積極的に活動しているようだった。
 孝司は、ほとんど実家に寄りつくことがなくなり、父、久雄からの携帯電話への通話は、ほとんど無視し、兄の蓮二だけに時々連絡をし、家の状況を訊いて自分の様子も簡単に伝えた。
大学の授業は、卒業ができる最低限の出席日数と試験とレポート提出しかしないようになっていた。
美伽は日本文学科では、まともな会社に就職できないと言いだし、教職過程をとり、国語科の教員になることを目指しているようだった。美伽の生活や性格を見ていると、教員には向いていないと孝司には思えたが、存外、外での人との応対、話しの内容などは評判がよかったようだ。
美伽は異常な集中力を発揮し、教員免許を取得した後、難関の東京都公立教員採用試験に合格してしまった。
 孝司が三年、美伽が四年の夏が過ぎ、秋を迎えよとしていた。

 年が深まり、冬着るコートを早目にとってこようと孝司は自宅に向かった。
実家に帰るのは一ヶ月ぶりだった。
商店街を抜け、実家の写真館が見通せる道に出ると、家の前で父、久雄と母の咲子が並んで立っていた。
咲子は、久雄に隠れるように立っていた。
この人は、どうして存在感がないのだろうと孝司は思った。
影にさえなれない。それはとても罪深いことのように孝司には思えた。中途半端に薄っぺらであることは、からっぽであることより破綻しているように見えた。
何かに怯えるように笑いかけ、久雄の背後から顔を半分覗かせた。
 孝司は歩道をゆっくりと歩いた。久雄は孝司が近付いてくるまで表情を変えず、声も出さなかった。
「家に帰ってくる気持ちがまだあったのか」
「はい、当然です」
「当然?」
 ふたりは何かを待っているようだった。身体の前にふたつのスーツケースが並んでいた。
「よくもまあ、ここまでしらっとして帰ってこられるな。呆れてものも言えないぞ」
 久雄はなぜか口の両端を上げて笑っていた。冷たい冬の風が久雄の頬に当たっていた。
「母さんと、ちょっと海外旅行に行ってくるからな」
咲子は後ろでぴょこんと頭を下げた。
「初めての海外旅行だ。この年になって。旅行は母さんと熱海に行った時以来だからどのくらいになるかな」
「正月も向こうだからな。年末年始で安くはなかったけど、このくらいの贅沢はたまにはいいだろう」
「向こうて、どこに行くの」
「プーケットだ。海だよ」
 久雄は両手を広げて泳ぐような真似をした。おやじは泳げたのかなと孝司は思った。小さい時からプールにも海にも連れて行ってもらったことがなかったので、父親の水着姿さえ見たことがない。
「リゾート地っていうのかな。いいところらしい」
「写真館やおじいさんたちはどうするの?」
 緩んでいた久雄の顔が引き締まった。
「写真館は休業だ。年の暮れ、正月はひまだからな。じいさんの方は、蓮二に頼んだよ。おまえはあてにならないからな」
 引き締まっていた顔の両目が細くなり鋭さを増した。
「大学の方はどうなんだ。数学科だろ。卒業したらどうするんだ。それから、何とかいう女とは…」
久雄がそう言いかけた時、久雄の前にタクシーが止まった。
「まあ、俺たちが帰ってきてから話そう」
 ふたりはタクシーに乗り込んだ。運転手が小さなスーツケースをふたつ後ろのトランクに入れた。後部座席に座っていた久雄は窓を開けた。
成田空港までタクシーで行くことにしたと言ってそそくさと窓をしめた。どこか誇ったような笑顔がタクシーのなかにあった。
 それが、孝司が見た久雄の最後の顔だった。

 二〇〇四年十二月二十六日。インドネシア西部スマトラ島沖のインド洋で巨大地震が発生した。
 大津波は周辺国の海岸に押し寄せた。タイの観光地プーケットにも巨大津波が押し寄せ、沿岸地帯を呑み込んだ。
木梨久雄、咲子夫妻は、二十五日の夕方、プーケットのホテルにツアー客の一組として到着していた。津波が押し寄せた時、ふたりは海岸を散歩していたらしい。推測の域をでないのは、ホテルからでかける時に同じツアーで一緒だった老夫婦が久雄がガイドに告げたのをロビーで聴いていたからだ。
 久雄と咲子の遺体は発見されなかった。
 孝司は遺体がいつまでも発見されないことが頭をよぎると、ふたりが南の島でひっそりと暮らしているのではないかという幻想に捉われた。それはどこか必然的で、かつ計画的な妄想を孝司に惹起させた。
 大津波があってから一ヶ月ほどして孝司は蓮二に実家によばれた。
がらんとした一階のスタジオを覗いた。
壁ひとつ隔てて居間があり、一番奥に祖父母の作之助とトミ子の寝室があった。
孝司が祖父母の部屋の襖をひく。祖母のトミ子が蒲団をひいて寝ていた。
窓際に座卓がひとつ置いてあり、作之助が肘を突いていた。脚のひとつが短く、体重を移動させると座卓がぐらぐら揺れ、彼の上体も波打った。
具合がよろしくない。襖の外に立っている孝司に向かい、座りながら顔だけ向け、冷徹な視線で作之助は言った。
孝司は曖昧に、ひとつ頷いた。何も訊かずに孝司は襖を閉めようとした。
やんなっちまったな。作之助はよく通る低い声で言った。
その声は畳の上を這い、トミ子が寝ている蒲団の上を越え、孝司の足元から上ってきた。孝司は襖を閉めようとした。しかし、指の先が凍りついたように自由がきかない。襖の把手の窪みに思うように指がかからなかった。
「トミ子がこうなっちまったら、もうどうでもいいようなものだ」
孝司は身体の動きを止め、室内の作之助の表情を食い入るように見た。
トミ子は元来心臓に持病があった。
「あの馬鹿が。トミ子を殺すつもりか。いい歳して初めて海外旅行なんて行きやがって」
 言いようもない臭気が漂ってくるような気がした。
作之助は久雄がいなくなってしまったことに哀しみを感じず、落胆もせず、途方に暮れてもいなかった。
孝司はいうことがきかない指を襖にかけ、乱暴に引き、思いきり閉めた。
階段を上がり蓮二の部屋を覗くと、兄の蓮二が胡坐をかいて部屋の真ん中で煙草を吸っていた。
窓を開けていないので煙が籠って息苦しかった。
「もうそろそろ帰ってきてもいいんじゃないか。こんなことになったし、孝司も帰りやすくなっただろう」
「時々は帰ってきているよ」
孝司は珍しくあげ足をとった。
「そういうことじゃなくてさ…わかってるだろう、こうなって。じいさん、ばあさんがいて、写真館のこともある。これから、俺ひとりじゃどうにもならないよ」
 蓮二は煙草を思いきり吸い込み、天井にむかい、肺のなかに何も残すことなく、声をだしながら煙を吐いた。
孝司は立ち上がり窓を開けた。新鮮な空気が流れ込んできた。
「ばあさんいつから寝込んだの?」
「一週間前くらいかな。自分の息子が、ああなっちゃったんだからな」
 孝司はサッシに両手をおいて、身を乗り出して外の様子を見た。風景も匂いも聴こえてくる音も孝司が知っているものと何も変わらなかった。
「戻ってきてくれないかな」
 孝司は蓮二の問いかけに答えず、じっと外の風景を見ていた。生け垣の樹木は子供の頃よりいくぶん埃を被ったように見えた。
「俺、彼女と暮らしているし…ここにふたりで来るとしても、おそらく、ここには馴染めないと思うんだ。そういうタイプの女じゃないし…」
 蓮二は黙っていた。背後にいる蓮二の表情は孝司には見ることができない。
「まあな、まあ、そういうことだよな」
 どんと床に倒れ込む音がした、孝司は振り返ると、蓮二が仰向けに寝転がって、新しい煙草に火をつけようとしていた。
「兄さん、うまくいってるの?」
「何が?彼女?それとも市民生活について」
「まあ、全体的だけど…」
「どうなんだろうな…仕事はいいも悪いもないよ。バンを運転しているだけだからな。信号でちゃんと止まって、人なんか轢かないで、ほかの車にぶつからないように慎重に運転して、ほぼ時間通りにルートのポイントを回っていけばいいだけだから。真面目にやって何かあったら、俺の責任じゃないし。皆同情してくれるかもしれないしな…」
 蓮二は口から煙をだすついでに欠伸をした。
「まあ、写真館をどうするか、俺の方で考えるよ。あとは介護だな、介護」
 蓮二は起き上がり、頭を掻いた。
寝ぐせのように髪が、クルンと横向きに奇妙にカールしていた。
孝司は蓮二が何となく羨ましかった。
どの辺が、どう羨ましいのかわからなかったが、孝司のように美伽を抱え込んで、生活の隅々まで気を配り、アルバイトをし、ビリヤードをどうしても捨てきれず、大学の授業に出席し、どこか擦り切れ始めた気持ちを抱えながら生活するのとは、遠く離れた場所にいるように思えた。
孝司は階段を下り、ドアを開け歩道に出た。振り返ると住居用の玄関ドアと写真館のドアが並んでいた。
孝司はしばらくそのふたつのドアを見ながら後ろ向きに歩き始めた。

 蓮二は行方不明の両親の探索のために数回プーケットに行った。
家族のなかでは蓮二しか行く者がいなかったからだ。
入社一年目で、有給休暇を多く使うことに気が引けたが、最初の数か月は社内の同情もあり、比較的抵抗なく取得することができた。
ただ海の向こうの南の国の災害がしだいに人々の記憶から遠ざかり、風化の様相を見せると事態は変わり始めた。
海岸に打ち上げられた遺体。海面に浮遊している傷ついた身体。
樹木や建物の隙間に泥まみれで埋まっている人間らしい遺体を確認していったが久雄と咲子は発見することができなかった。

孝司は美伽が卒業した後も一緒に暮らしていた。
美伽は教員研修をうけ、都内の中学校の国語科の教師になった。朝早くマンションをでて、放課後のクラブ活動(どういうわけかバトミントンクラブの顧問になった)の面倒をみていた。
美伽はいつもいらいらしていた。
昼間の時間は、気にくわないことがあっても生徒や先輩の教師の前では爆発できないのだろう。夜遅く、脈絡もなく不都合さを脇において暴れ、冷蔵庫の野菜室に孝司がスーパーの安売り日にまとめて買ってきたトマトを白い壁にぶつけた。熟したトマトを選び、どうしてこんなところにトマトがあるのと叫びながら投げ続けた。トマトが壁に当たった時、見事な大きい音がしないと、わたしの言うことがどうしてきけないのと言って壁に駆け寄り、壁を拳骨で叩いた。
トマトのない日は、果物に目をつけた。熟した白桃だとか、バナナのような柔らかいものを好んだ。孝司はしだいにトマトや桃やバナナを買わなくなっていた。
そうなると彼女は豆腐を手にとった。
とにかく壁にぶちあたり、弾け、粉々になることを美伽は望んだ。壁は赤やただれた白や黒っぽい黄色の模様が自由気儘に彩色された。興奮状態の時に壁を拭くと美伽が怒り狂うので、昼間美伽がいない時に毎日少しずつわからないように色彩を薄めていった。
孝司は、この事態を憂慮はしていたが、彼女はまだ極限には達していないと思っていた。
美伽が柔らかいものを選択できる意識と判断がある以上、彼女の精神は均衡が保たれ、時期がくれば必ず矯正できると思っていた。
すべては、教育制度が悪い。そこで働く人たちが犠牲者なのだと孝司は思い込もうとした。
時間が解決してくれる。
彼は時が早く過ぎ去ってゆくことを期待した。
孝司は美伽の機嫌を損ねないように、毎日洗濯をした。(干した洗濯ものが醜くならないように全体のバランスを考慮し、下着、シャツ、靴下、タオルなどを整然とベランダに干した)
身体によく疲れがとれる食事を作るために、自転車に乗り、遠くの自然食品の店まで野菜や肉や調味料などを買いに出かけた。
掃除は朝、美伽が中学校に出かけた後、塵ひとつ残さないように気を配った。特にトイレと風呂場の清掃に気を使った。孝司は家事の合間に大学に通い、深夜バイトに行った。
「どうするの、卒業してから」
何もない日曜日、美伽はぼんやりと言った。
「数学科だからな…どうしようかな」
「大学に残ればいいじゃない」
「成績よくないし…本当のところ数学理論にそれほど魅力も感じないし…」
「公務員がいいんじゃない、性格的に」
孝司は黙り込んだ。
卒業の後のことは何も考えていなかった。
「公務員か…教師も公務員だよね」
「当然じゃない。バカみたい」
「先生なんか僕にできるかな…窮屈だしな、学校って」
「数学科って潰しがきかないから、しょうがないじゃないの。手当たりしだいにやるしかないわよ」
 春の爽やかな空気が少し開けた窓から忍び込んできた。
「そうだな、今から間に合うかな」
「とにかく、受けられるものは全部受けるのよ。関東は全部」
 美伽はそういうとパソコンを立ち上げた。
孝司は一応教職課程をとっていたものの、つてがなかったので公立しか教師になる道はなかった。
応募に間に合った関東三県の公立教員試験を受験し、すべて不合格になった。
秋も深まり間もなく久雄と咲子が行方不明になってから一年が経とうとしていた。
法律上、一年経てば死亡の推定が可能であると祖父の作之助が言いだした。行方不明だったし、葬式も挙げられなかったので、ふたりの葬式をだしたいと作之助が言いだしたのだ。そのためには、一応死亡として取り扱わなければと理屈を言った。大津波の日から、一年が経過し、作之助は裁判所に利害関係人としてふたりの死亡推定を申請した。
裁判所の決定が下りる前の二〇〇五年の大晦日にささやかな葬儀が自宅で行われた。
 作之助が喪主になった。
弔問客は商店街の魚屋、八百屋、どういうわけか幹線道路にあるホームセンターの店長もやってきて冬なのに額に汗を滲ませ、真白いハンカチを上着のポケットから取り出して拭っていた。それから町内会の会長と婦人会の世話役という人が出席した。全部で五人だった。
大晦日だった。
出席した人は皆、何でこんな日にわざわざやるのだという顔は決して見せなかったけれど、写真館の前をあわただしく行く過ぎる町内の人たちの表情には、はっきりとそれが表れていた。
祖母のトミ子は寝たきりになっていたので、家族で葬儀に出席したのは、喪主の作之助、蓮二、孝司だけだった。孝司は帰り際、蓮二にひと言声をかけて家をでた。
弔問客は五名だけだったが、慣れないためか妙に神経が疲れていた。
ぼんやりと駅までの道を歩いていた時、集団で歩いてきた子供たちの群れのひとりにぶつかった。
孝司の胸あたりに子供の肩が強く当たった。その男の子は顔をしかめたが、すぐに振り払うような表情を見せ、建物の中に駆けこんでいった。その建物の玄関付近は、小学校の高学年ほどの子供たちで溢れかえっていた。
孝司はその建物の電飾看板をなんとなく見上げた。
最近たまに新聞の折り込みチラシで見かける中学校受験の塾の建物だった。
自動ドアに貼られたポスターの左隅に講師募集の告知が記載されていた。孝司は自動ドアに近寄り、押し寄せる子供たちに嫌な顔をされながら、その告知を何度も読んだ。
マンションに帰ると台所で夕食の支度をしている間中、孝司の頭のなかに先ほどの募集告知が貼りついていた。
夕食が始まり、少し沈んでいる孝司に美伽が珍しく彼女のほうから声をかけた。
「ねえ、明日はお正月なのよ。少しは楽しそうな顔したら」
「もう、そんな年齢でもないんじゃない」
「そんなことないわよ。何歳になっても浮き浮きするじゃない」
 美伽は奇妙に高揚しているなと孝司は思った。
「それとさ、今夜大晦日だから、年越しそばじゃないの」
「年越しそばか。忘れてたよ。今日、両親のことがあったからすっかり忘れてた。でも正月用の食材は買ってあるよ。今夜仕込みをしようと思っている」
 言い終わってから孝司は俯き、鳥すき鍋のなかのネギと白濁した汁のなかで、けだるそうに横たわる白滝を見つめていた。
「あのう…僕さ、塾の講師に応募しようと思っているんだ」
美伽は一瞬箸がとまったが、表情は変えなかった。
「いいんじゃない。教員試験全部落ちたし。行くとこないし」
「受験用塾だから、夜の授業になると思うけど。昼間に家事しっかりできるし」
「そうね。応募する塾は大学受験用じゃないよね」
「中学受験。小学生を教えるんだ」
「そうだよね、ガキじゃないと高校生の数学じゃ難しくて教えられないよ、ほんとに」
「まあ…そんなこともないけど」
 美伽は、今夜はわけもなく機嫌がよかった。
こういう時には結講落とし穴や思いがけない躓きがあるものだと、四方八方に飛んでいく話題に孝司は気を配りながら大晦日の夜を慎重に過ごした。

 二〇〇六年、孝司は中学受験塾の講師に採用された。
大学はぎりぎりの単位で卒業することができた。
最初はアシスタントで、四、五年生の算数を中心に授業を持ち、講師のスケジュールに穴があいてしまう時に六年生をヘルプした。全国各地にネットワークを持つ進学塾であったので、授業マニュアルがあり、それに沿ってやれば特別進行に苦労することはなかった。
孝司は人前でしゃべることは不得手であったから、ひたすらマニュアルにしたがい余計なことは考えず、子供たちに受けを狙おうとはせず、機械のようにマニュアルに沿い授業を進めていた。
二ヶ月があっと言う間に過ぎた。
その日は朝から雨で梅雨に突入してしまったかと、がっかりしてしまうほど鬱陶しい降りだった。
五年生の算数の授業はいつもの通り波乱もなく、かといって盛り上がりもなく進んでいった。
外ではいつまでも、しとしとと雨が降っていた。どこかじりじりするような、何かが起きるような気分が蒸し暑さが増した空気のなかに潜んでいた。
 授業が進み、二十分ほど経過した時、いきなりそのことが起こった。
一番前の席に座っていた男の子が脇においていたカバンから石をひとつ取り出した。
拳大の大きさの石で、机においた時ゴツンと乱暴な音がしてクラスのほかの生徒は彼が座っているほうを見た。
その男の子は平然とその石を見つめていた。石はつやつやして電燈の光を受けて輝いている。凹凸があり、光が当たらない部分は、かえって深みをまして魅力的に見えた。
 その子の行為はそれでは終わらなかった。塾指定カバンから次々と石を取り出した。その形は様々で、机の上に両開きになった算数のテキストにその子なりの順番で石が九つ並べられた。
孝司はその様子を見入っていた。
教室はざわつき始めたが、孝司はそれを止めることができなかった。
こういう事態の対処について、算数の教科のマニュアルにはなかったし、孝司とその教室にいる大多数の生徒と同じ気持ちで、ただ茫然とその男の子を見つめていた。
 この少年は成績のよい生徒だった。中学受験塾は、それぞれ固有マニュアルでカリキュラムをつくり、小学校の授業とはかけ離れていることが多い。この少年はすぐにオリジナルの教材に適応し特異な能力を発揮していた。
「これは駅の公衆トイレにあったもの。障害者用のこうやって開けるドアの前にあったんだ」
隣に座る少年の顔が歪んだ。孝司はその小石が身を丸める猫のように見えた。
「急流にはないんだよね。これがね。少し下流の平らなところに行かないとこういう石は川原にはないんだ」
その少年は一番上の列の左から二番目の石を両手の掌の中に包み、卵を温めるように頬の近くに寄せて目を閉じた。
小石を温める少年の回りを、ぐるぐると回転する掘削機の回転音が渦巻いた。
その時、泰造が不意に頭のなかに十二年前の顔で現れた。
孝司はその姿をじっと見極めようとしたが、すうと泰造は教室のなかに消えていった。
 教室は、すっかり本来の小学五年生の雰囲気に戻り、思い思いのことに生徒たちは傾注していた。小石を並べていた少年は小石をペアにしてこつことぶつけ合った。
一定のリズムが孝司の胸の細い血菅に流れ込んだ。
生徒たちのざわめきのなかで、孝司の耳にビリヤードの球が弾け合う音が聴こえてきた。
教室のなかを見回し、教室のドアを開け、廊下の様子を見る。
孝司は目をつむりその音を聴き続けた。
 すでに少年は小石をぶつけることをやめていた。
孝司の耳の奥でビリヤードの球が跳ね返り、少年が小石をぶつけるのと同じ柔らかい音がいつまでも聴こえていた。

 翌日、孝司は主任講師の部屋に呼ばれた。昨日の教室の混乱状況についてであることは薄々推測がついた。
孝司は、生徒の前で殊更気をひく冗談を言ったり、大きな声で生徒たちを萎縮させたり、厳しい態度で接したりすることはなかった。
かといって奇妙に優しくすることもなかった。
ただ淡々とマニュアルに基づいて授業を進めていた。
彼のそんな凡庸さが生徒たちにかえって受けがよかった。塾の講師として生き残るため、年収を急カーブで上げるため、ほとんどの講師は無理をしていた。
その態度が生徒たちにはあざとく見えたらしい。孝司は順番が回ってきたプレイをきっちりと正確にこなしてゆくことしか頭になかった。
 まだ数カ月勤務の孝司の評判は、子供たちを通じて父兄の耳に入っていた。
 そういう講師が、まったく異次元な逸脱をとめることができなかった。その上、自分もその少年と同じように、何かに浸り始めてしまった事態に父兄からのクレームが数件届いた。
「その場にいたわけではないから、私から断定的なことは言えないが、生徒が家で、おもしろおかしく話したらしい。そんなわけで、私も黙っているわけにはいかなくてね」
「はい」
 孝司に異論はなかった。
「こういう塾は講師の評判が重要なんだよ。幸い君は入ったばかりだけど、生徒には評判がいい。でもね。こういうことは、すぐに生徒は話すからね、まず母親に。それもオーバーに話すんだよ」
主任講師は少し嫌な顔をした。
「だから君みたいな今までと違うタイプの講師がでてきた。それも受けがいい。君にはこれから期待しているんだよ」
「はい」
「変な子がひとりでもいると、伝染してしまう。会社も学校も、いろいろな集団も同じなんだ。今回の生徒は優秀で中学はトップ校狙いということになるんだが、なにせ、そういう踏み外したというか、何というか、そういう生徒がいると実際困るんだよね。母親は明日きてもらうことになった。少しじっくり話して、救いようがなかったら辞めてもらうしかない」
「踏み外した?」
 孝司は寝起きのようなぼんやりした頭で主任講師の言葉を聴いていたが、思わず彼の言葉をそのまま繰り返した。
 孝司はその少年がひとりで小石を拾い集めている姿を思い浮かべた。比較的幅が広い川のようで、川面がきらきらと穏やかに光っている。流れはゆっくりとして下流に近いようだ。
川原に葦のような細長い葉が群生している。
きらきら照りかえる川面に二本の人間の脚が刺さっている。時々上体を屈めて少年が浅い川の底を覗き、手を差し込み、気に入った底の石を拾い上げている。その子は間違いなくあの少年だった。
「そんなに変わったところはないようにも見えますが……」
「木梨くん、君の問題でもあるんだよ」
 主任講師は膝詰めをするように椅子を動かし孝司に少し近付いた。
その時、少年の後ろで輝く川面の向こうから音をたてて車が真直ぐ走ってきた。
乗用車のようなかしこまった音ではなく、吐きだすような音だった。
周囲に音を撒き散らしながらその車は時々大きな岩石に乗り上げながらやってきた。ルーフがない濃緑色だった。目を細めても運転手の顔はぼやけて見ることができない。
「問題?」
「そうですよ」
主任講師は立ち上がった。
群生する葦の一本が風に揺れたように見えた。
「まあ、注意深くやって欲しいと思います。何かと噂がたちやすい業界ですからね。競争も烈しい。子供が少なくなっているので奪い合いです。競合塾が噂を撒き散らすために送り込んだということも考えられますのでね。そういうことも調べなきゃいけない。可能性は結講高いと思います。わかりますよね。注意深くやって下さい」
「注意深く?」
「そうです、注意深くです」
 孝司にはよくわからなかった。自分には注意深く、細心に少年の石の動きを追い、そのぶつかり合う音を聴き、そこから何某かのものを嗅ぎ取ろうとすることはできるような気がした。
でもそれ以外のことはできそうもない。
少年が川原にあがり、膝頭から下をきちっとタオルで拭く。そして川底から拾ってきた石も同じタオルで拭いて光に当て、色の具合を変化させる。
座っている周辺の石にも目を向ける。
そのうちに石を叩き始める。
その音はいつの間にかビリヤードの球が弾ける音を連れて来る。そして、はるか遠い記憶、記憶として果たして存在しているのかも怪しい地面を掘削する哀しい音が背後で鳴り続けた。

 あの日から耳に入る音は選別を繰り返し、幼児が選り好みをするように、選択する音は極めて限定的になり、ある時は皆無になった。
孝司は、授業が終わり、少し更けた夜の教室でひとり頭を振って耳の奥に詰まっている何かを穿り出そうとした。
 年末がやってきた。
 冬の道は乾いていた。
靴が歩道に当たる音だけが奇妙に凛々しく空気のなかで存在感を持っていた。
マンションの階段を上がり、部屋の前に立ち、鍵を取り出そうとした時、部屋のなかで美伽の声がした。
緊張感が孝司の身体を走った。
美伽は誰かと話しをしている。破裂する感情が誰かに向かっている。
鍵を差し込んでそのままの姿勢でじっとしていた。そうしている姿が情けなく虚しく思えて孝司はドアを押して部屋に入った。
 美伽は驚いた表情をし、耳から携帯電話を外すと、そのままぽかんと孝司の顔を見ていた。
孝司は玄関の三和土で靴も脱がす、ぼんやりと立っていた。美伽は現実に引き戻されたように凍っていた表情を緩ませた。それは意識的に巻き戻したような不自然さを感じさせた。
「早かったね」
美伽は何か言うことを探すように孝司の目を見て言った。
そして布巾で机を拭いたり植木鉢に水をやった。
「あの、凄く大事な話しがあるんだけれど」
テレビのリモコンを美伽は消した。
「赤ちゃんができたの」
 孝司が、えっという顔をして美伽の顔を見つめていると、彼女が追いたてるように言った。
「子供。だから、ちょっと生活というか、これからのこと考えなきゃならないと思うの」
 美伽はどことなく沈んだ声で言った。
「子供ができると……」
「そう、籍を入れてちゃんとした方がいいと思うんだ」
「結婚ということか……」
 孝司は先ほどから玄関に続く居間の端っこで立ちながら、美伽の話を聴いていた。
「手順としては」
「そんなの簡単よ。婚姻届だせばいいんだから」
「そんな簡単なことだけで、結婚ということが…」
「だってそういうことしかないじゃない」
「両親に挨拶にいくとか、式をあげるとか、旅行の計画を立てて…」
「何言ってんのよ。もうとっくに大きく外れてるじゃない。今更そんなことどうでもいいのよ。それに学校はそんなに休めないし、今が大事な時期だからさ」
 美伽の実家は地方都市の、その地域では飛び抜けた資産家だった。不動産業を柱とし、それに関連する事業を手広く経営していた。父親の仕送りは今でも定期的に銀行に入金されているようだったが、孝司には金額はわからない。父親からの仕送りがなければ、こんな高額な賃貸物件に棲むことはとてもできない。
「身体の具合は大丈夫なの」
「今のところは問題ない」
「そうか、よかった」
と言いながら、孝司は実家のことに思いを巡らしていた。
こういうことでよいのか。両親はすでにいないけれど、祖父母も兄もいることだし、報告は当然として、なにがしかのことを行った方がよいのではないか。
「私、寝るわ、あした早いし」
孝司がぼんやりしていると美伽は奥の寝室に向かった。
 夜はどんどん更けてゆく。
孝司を置き去りにするように、彼の思考を無視するように勝手に時は刻んでいく。
もう少しゆっくり進んで欲しいと孝司は願った。
頭のぜんまいの巻き方がよくわからない。このままゆくと動力が孝司自身を壊してしまいそうな気がした。様式の是非とかいうことではなく、何か得体の知れない中心軸の回転に振り回されているような戸惑いだった。
 その時、肩を後ろから叩かれた。
「何回も呼んだじゃない。聴こえないの。喉乾いたからコップに水入れてもってきてって何回も大きな声で言ったじゃない。私、お腹に赤ちゃんいるのよ。わかってるでしょ」
 孝司は両手で両耳を触ってみた。確かに、最近塾で生徒たちの声が遠くで小さく聴こえていた。ほかの講師に呼び止められても、聴こえないために無視するような態度をしてしまうことも多かった。孝司は耳を澄ましてみた。
「私、赤ちゃんがいるんだから、大切にしてよ」
 美伽の声が遠くの方から聴こえた。

 孝司が割り振られた塾の教室は、彼の実家の近くにあったので、立ち寄って入籍の報告をしようと思ったけれど、どうしても足が向かなかった。
せめて兄の蓮二だけでもと思ったが、ずるずると時間が経った。
夏休みは最後にさしかかろうとしていた。孝司は、夏期講習の午前中の五年生クラスを担当し、週三回、六年生の受験特別講座の夜間クラスを受け持っていた。
午前クラスが終わり、一端マンションに戻って、掃除、洗濯をし、ベランダの日陰においてある植木鉢に水をやろうと思った。
できれば数時間睡眠をとりたかった。
 美伽は昨日から一週間の予定で帰省していた。体調もよく、何の苦もなく羽田に向かった。マンションのエレベーターを下り、廊下を曲がり、部屋のドアが見えた瞬間、ドアの前にひとりの男の子が尻をついて座っているのが見えた。
 あれっと、孝司はその少年を見て驚きが口をついてでた。その少年は、孝司の姿にちょこんと顔を上げた。
「君、確か、名前なんだったけな」
「鈴木です。鈴木賢太です」
「そうだった」
あの時、机に小石を九つ並べた生徒だった。その翌日から姿を消し、教室に現れることはなかった。
「元気だった?それにしてもよく僕の棲んでいる場所がわかったね?」
「つけたんです。刑事みたいに」
「つけた?」
「こないだ塾の外で待っていて、先生の後をつけて棲んでるところ見つけたんです」
 賢太は立ち上がった。ほかの塾のカバンをかけていた。
「別の塾の夏期講習に行ってるんだ」
「ママがうるさくて。でもほとんど行ってない。家をでて行くふりをして、外でぶらぶらしているんです」
「部屋で少し休んでゆくか?」
「いえ…先生にお願いがあるんです」
「えっ?」
「木梨先生しかいないと思って。もうひとりで行くの、つまらないし、先生ならきっと僕のことわかってもらえるんじゃないかと思って」
賢太は歩きだした。孝司は無言でついてゆく。
 ターミナル駅に着き、私鉄に乗り換え、そしてまた車両が少ない郊外電車に乗り換えた。
駅のホームから鉄橋とバイパスが見通せた。
その下に悠然と川幅が広い川がゆったりと流れている。駅舎をでると高架線に沿った道を歩き、信号を横切り、土手を登る階段の下に着いた。
賢太は飛び跳ねるように階段を勢いよく登った、
 土手に上がると広い川原と澄んだ川面が見えた。
賢太は土手を駆け下りた。
勢いがついた身体はブレーキがきかず、大きな岩を駆けあがり、そして、乗り越えたところでようやく止まった。
賢太はかけていた塾のバッグを放り投げた。バッグから塾の夏期講習テキストが顔を覗かせた。
賢太はバッグのことは気にかけず川に向かい、今度はゆっくり慎重な足取りで歩いた。川が近付くにつれ、石がしだいに小さく平らになっていった。孝司は土手から下りたあたりで立ち止まって賢太の様子を見ていた。
 電車が鉄橋をわたるリズムを刻む音とトラックや乗用車がバイパスを気持ちよくスピードを上げる音だけが聴こえていた。
川原には確認できる人影はいない。
空は夏を充分に出しきった後の穏やかな水色をしていた。いつ秋がきてもよい落ち着いた色が広がっている。晩夏の午後の光はやさしく川原に降り注ぎ、賢太の身体は空気のなかに溶け込んでいた。
 この世界に孝司と賢太しかいないような錯覚に捉われる。孝司は足もとに気を配りながら賢太に近付いていった。
 賢太は時々腰を折り、石の表情や性格を吟味するように手にとり顔の近くまで持ってきた。
彼のお気に入りは不揃いの小石のようだった。
形状や色艶や感触ではなく、その石の背負ってきた宿命と会話を交わし、彼の波長が合うものだけを拾い集めているように見えた。
彼は時々微笑んだり、少ししかめっつらのような難しい顔をした。そのひとつひとつの表情の断片が孝司にはとれも優雅で尊いものに見えた。
賢太は顔を孝司の方に向けると、右手で宙をかいて孝司を呼んだ。
顔は笑っていた。それから靴を脱ぎ、靴下を靴に押し込んだ。両手を真横にし、バランスを保ちながら賢太は川に向かった。
賢太の先の川面はきらきらと照り返り、彼を呼んでいるように見えた。賢太は川のなかに入ると足元の小石に手をやり、拾い上げながら会話をしていた。

 美伽のお腹は日に日に膨らんでくる。
なかでひっそりスイカを栽培しているように丸みを帯びている。
孝司は美伽のお腹が大きくなるにつれ、あの少年のことを思う。
あの少年。
鈴木賢太。
あの晩夏の午後、川原で彼と会って以来会っていない。
 もう一度美伽のお腹を見る。どんどん溜めこんで、どこまでゆけば満足するのかというほど膨らんでいる。
美伽はぎりぎりまで働くらしい。
年が明け、冬の寒さにお腹も冷凍化しそうな季節がやってきた。そろそろ産休に入るだろう。
もう九ヶ月は迎えている。
美伽は今まで以上に感情を踏み外すことが多くなった。
トマトや豆腐だけではない。動きにくくなった身体で、部屋で手の届くものを何でも壁に叩きつけた。そして、今まで壁だけに向かっていたが孝司にも投げるようになった。
中学校での教師間のいがみ合い。生徒の指導。妊婦としての体調。計り知れない精神的な苛立ち。
そのすべてが美伽にかかっていることを思うと、孝司はあえて自らを壁になろうと思った。
 冬の寒い朝。
あと二日で産休に入ろうとするその日、一時限目の授業で廊下を歩いていた美伽は急に苦しみだし、冷たいリノリュームの光る黒い廊下に倒れ込んだ。
突き出た丸いお腹を抱え、美伽の意識は遠のいていった。
美伽は破水し、救急で運びこまれた病院で、二十時間を経過の後、仮死状態の子供を出産した。
美伽も生まれてきた子も疲れ果てていた。
美伽はきばって顔面から首筋、胸にかけて血管が紫色に浮き上がっていた。生まれてきた男の子はしばらく呼吸をせず、鯛のように逆さにぶら下げられ、口から嫌というほど水を流し込まれ、やっと呼吸が戻り覚醒した。
男児誕生。
それは、人間の誕生ではなく、鮮やかなピンクの寒椿の花びらが、はからずも、はらりと散ってしまうように孝司には思えた。子供がこの世に誕生するのは、こんなにぎこちないものなのかと思った。そう感じるのは自分の子であったからかもしれない。あってはならない思いが気持ちの隅っこに残滓のようにあるのはどうしてだろう。その思いはずっとその男の子を育ててゆく間続いてゆくのだろうか。
紫色だった子は白いタオルにくるまれ、息を規則正しくするようになった。顔の皮膚が赤くなっていっていく。血菅のなかを血液が確実に流れようとしている。
 分娩室で助産婦から渡された子を両腕で孝司は支えた。小動物のようで、軽く、情けないほど皺々の顔をしていた。
あなたのお子さんですよ、と言われると、その暗示のような言葉にいくぶんの親近感をこの子に感じてしまうのが不思議だった。
 美伽はじっと両目を閉じていた。ちらりと目蓋を上げて、子供を下から見たがすぐに目を閉じた。
疲労が極限に達している。
孝司が分娩室をでようと美伽に背を向けると、美伽の声が背中を押した。
「しっかりやってよ」
孝司は顔だけ美伽の寝ている方に回し、曖昧に頷いた。
分娩室をでると両肩を上下させ、大きく息を吐いた。

 美伽は産休期間が終わり中学校に復帰した。
 孝司は完全に夜のクラスにシフトし、昼間子供の世話をすることにした。
赤ちゃんはまだ首がすわらず、孝司はその不安定な小さい身体をどのように扱ってよいかわからなかった。
病院の指導にしたがいながら、インターネットの検索で育児の方法を調べた。授乳は、美伽の母乳を小分けにし、冷凍したものを湯せんで解凍して飲ませた。オムツの取り換えは数回やれば慣れてしまったが、一番困ったのは泣いた時だった。何で泣いているのか原因がわからない。授乳やオムツの交換の後は、たぶん眠いのだろうと思い、部屋のなかをあやしながら歩き、それでも泣きやまない時は近くの小さな公園で外の空気に触れさせて気分が変わるのを待った。
体温は定期的に測った。子供は時々風邪をひいて高熱をだした。孝司はおたおたし、小児科に駆け込み、ぐったりしている息子の顔を心配しながら見つめていた。
 夜のクラスの開始時刻と美伽の帰宅時間に違いがでるので、数時間、駅の近くの無認可の保育所に預けることにした。
孝司は初めて行った時、建て付けの悪いドアをあけるとすぐに目の前に、ごろごろと幼い子供が転がっていた。そのほとんどが乳幼児だった。畑に野菜が栽培されているように、薄暗く、湿った部屋に子供たちが寝かされ、ごろごろと勝手に動いていた。
付き添いの女性の顔は部屋が暗いのでよく見えない。年齢も顔つきもわからない。
孝司はその部屋の様子を見た時、子供を抱きかかえたまま、後退りをした。こんなところに子供を預けてはいけない。それも自分の子供は生後二カ月を過ぎたばかりだ。
後退りをした時声をかけられた。
木梨さんですよね、
お待ちしておりました。
孝司はその言葉に従うしかない。彼には選択肢はないのだ。
 子供ができてから、昼間の育児と家事が重なって、夜のクラスの授業中時々、ぽっかり空いた穴に落ちていくような睡魔に襲われた。子供たちに練習問題をさせている待ち時間に、その睡魔の穴は口を開けて孝司を誘い込んだ。帰りの電車のなかでも、わずか数分で寝込んでしまい、下車駅を寝すごすこともたびたびだった。
 美伽は孝司とどちらが精神的、肉体的に疲労が蓄積しているかを主張したがった。家で子供の世話をしている孝司の方がはるかに負担は少ないと主張した。
一対一である。
それも自分の息子である。
私は何十人もの赤の他人である生徒たちの面倒をみて、はかり知れない責任を負わされている。そして出産までの十ヶ月間、男にはわからない想像の域をはるかに越える負担を味わい、苦痛により気絶した状態で子供を出産し、産後の肥立ちも悪かった。
もうそれは総合的にみて、時間的にも精神的にも苦痛ははるかに私の方が大きくうけているから、今、この夜の時間、塾から孝司が帰ってきた以降も、彼が子供をみるべきだと主張した。
 孝司は美伽の話しを聴きながら、大筋その通りだと思った。
枝葉で引っかかるところはあったが、それは彼女の前では、つまらない愚痴のひとつにすぎなかった。
 美伽が主張する負担の論理に孝司は従った。
正直、乳児がいる部屋でトマトを投げたり、机をひっくり返したり、スーパーのチラシを部屋中何十枚も撒き散らしたりする光景が発生する確率は低減しなければならない。
 美伽は子供の泣き声がうるさい。寝られない。疲れがとれない。明日の学校はどうするのよと言い、孝司と息子とは一緒の部屋で寝ようとはしなかった。
 孝司と子供は一緒の蒲団で寝た。
子供をつぶさないように、いつも息子の位置を蒲団のなかで確かめていた。そういう状態で蒲団に入っていると眠りも浅く、孝司は一日中睡眠不足に陥っていた。深夜、子供が泣きだせば、美伽が絞っておいた冷凍の母乳を解凍し、子供に飲ませた。泣きやまない時はいつもの近くの公園に子供を抱っこし、泣きやむまで公園のなかをぐるぐるといつまでも歩き続けた。
 非日常が日常になり、孝司は塾の講師を続け、子供は孝司の苦を気に留めることなく大きくなる。孝司は、とにかく時間が解決してくれると思っていた。もう少し、もう少しと思っていた。何がもう少しなのか実際はよくわからなかったけれど。限界を越えたマラソンランナーのように孝司は走っていた。
 子供が生まれて一年が過ぎ、子供は歩き始めた。
孝司は朝起きて美伽の朝食を作り、それから夕方まで子供の面倒をみた。
 
季節は夏を通り過ぎ、少し暑さも落ち着こうとしていた日曜日の夜、美伽の携帯電話が鳴った。
美伽は珍しく、一才六ヶ月になった息子と風呂に入っていた。携帯は五回鳴り、きれた。一分後にまた鳴り、同じように五回できれた。
 孝司は生き物を見るように携帯電話を見た。
そして今度は主張するように何回も鳴り続けた。孝司は美伽の携帯を気にすることはなかったが、回数のしつこさに取り、着信の表示を見た。
『五島』画面にその文字が表示されていた。
風呂場から子供と美伽の声が聴こえていた。孝司は着信画面を見ながら、遠い記憶が甦った。
携帯の音はとまった。静けさが、じんと部屋にしみわたった。
風呂場の声は間歇的に聴こえていた。
 キーンという五島独特の切れのよい球を突く音が孝司の耳を突きさす。
そして、冷静な、一ミリも動かい五島の顔の皮膚が孝司を不安にさせる。どのくらい経ったのだろう。なぜ、今五島は美伽に電話をかけているのだろう五島は今何をしているのだろう。
電話だぞ、孝司は風呂場に向けて声を張り上げた。彼には珍しいことだった。
孝司が珍しく声を荒げたので、美伽は風呂場のドアを押して顔をのぞかせた。
「ねえ、どうしたの。だいじょうぶ。心配ないからね」
美伽は少し呆気にとられながら、目の焦点が合わないままに孝司に言った。
孝司は強く美伽を不安にさせたかった。彼には珍しい感情が噴火しようとしていた。
 五島から美伽の携帯に電話があった夜以降も孝司の日課に変化はなかった。
変わりようがなかったのだ。
朝、家族の食事を作り、美伽が学校に出かけた後、歩き始め、喋り始めた息子を椅子に固定して朝食を食べさせる。
部屋の掃除をする。風呂場、トイレ、台所などの水回りはカビが生えないように特に念入りに磨きあげる。バスタブは垢をシャワーできれいに落とし、栓から顔をだしている髪の毛をとり、まるめてティッシュにくるむ。前日の夕食とその日の朝食の洗いものを少量の洗剤を使用し丁寧に洗う。それが終わると、コーヒーをわかし、少し休憩する。
時間はもう正午に近くなる。騒ぎ始める息子を外で遊ばせるため、いつもの近くの公園に行く。息子は、砂場遊びをしたがるが、決してさせない。
遊び疲れ始めた頃、息子を抱っこ紐に乗せ、近くのスーパーに買い物に行く。
時刻は一時に近くなっている。スーパーで買いそろえることができなかったものを商店街の個人商店で購入する。この頃になると抱っこ紐が肩に強く食い込み痺れ始める。
やっとマンションに帰ることができるのは二時を過ぎている。起き出した息子に遅い昼食を与え、孝司もカップラーメンとかコンビニのおにぎりとか簡単なものを胃のなかに入れる。
三時を過ぎた頃、買ってきた食材で夕食の仕込みをする。四時半近くになると、息子を保育所に預ける支度と孝司が塾にゆく用意を同時にしなければならない。
少し時間に余裕がある時は、その日の夜クラスの予習をするが、ほとんどその時間がとれないのが普通だ。そして、マンションに鍵をかけて駅の近くの保育所に向かう。
 孝司の日課は変わらない。
変わりようがない。
変わらない日課に彼は何の不満もない。

 秋が深まると、塾の雰囲気は一変する。
 志望校判定模擬試験とか、志望校父兄面談などが、連続的に実施されるからだ。
まだ来年まで随分あるよと顔にだしていた六年生の一部の生徒もお尻に火がついたように、そわそわと行動が落ち着かなくなり、姿勢は猫背になり、顔は暗くなっていく。
塾にいる時間が、価値を生むことだと自分に思いこませる。それが実は無価値であることが多いと気付いていても自分に暗示をかける。
「そこのところは、順番に、ゆっくりと考えなければいけないよ。図に書いてもいいよ。そうでないと…」
孝司は言葉をけしてしまう。経験の浅い塾講師でもしだいに習得するステップを確実に上がる。
「この問題ができれば、B校では八〇%の合格判定になりますよ」
 孝司は特別言いたくもないことを役割として言わなければならない。極力感情の起伏を示さず、言葉に濁りを交えず、慎重に言葉を選ぼうとする。生徒のなかには拝むように孝司の顔を見入る生徒がいた。
「先生その計算間違っているんじゃない」
二列目の右から三番目の生徒が、孝司が書き残したホワトボードを指差しなら言った。その生徒はこの塾の六年生の算数の成績ではトップクラスの男の子だった。少し離れたところから聴こえるような小さくて、細い声だったが、確実に孝司の耳に入った。
ホワイトボードの計算式を上から順に見直してゆくと確かに孝司の計算は間違っていた。
しょうがないな、とろい先公は。孝司の両方の耳から、その生徒の言葉が入ってきた。
生徒の蔑視や落胆などの感情は削ぎ落とされ、単なる事実だけが、ドライな数字だけが並ぶ通信簿のように孝司の耳に侵入した。
そうか、やっぱりしょうがないんだ。
もたもたしているから、どうしようもないんだ。
ひどく納得した気持ちになり、計算間違いを指摘してくれた生徒に、ごめんね、先生間違いました、と言おうと口を開こうとした。
確かに口は開いていた。右の掌で確認したのだから。
ごめんね、と言おうとしていたのをごめんなさいと言い直そうとした。その方が丁寧さが増して素直に喉を通過して声がでると思ったからだ。ごめんなさい。でも自分の耳にその言葉は入ってこなかった。
生徒たちは自分の声が聴こえているのだろうか。もう一度、ゆっくり、麦踏みをするようにしっかりと、ごめんなさい、先生が間違っていました。
 聴こえない。
徐々に聴きとりにくくなった耳の器官の機能が完全に消滅しまったのだろうか。孝司は両手で両耳を触る。クラスの生徒たちはぽかんとした顔を一斉に孝司に向けていた。
「先生、何やってるの、早く授業進めて下さい」
間違いを指摘した生徒の隣の女子生徒が大声で言った。
聴力は正常だ。
少なくとも生徒の落胆や要求は聴こえる。
おそらく鳥の鳴き声や雑踏のざわめきも聴こえるだろう。
美伽の絶叫も。

 夜の時間帯もしばらくマンションで過ごすことになった。
 孝司は声が出なくなってから病院の指導もあり、しばらく塾を休むことになった。塾側は、残念です。お大事に。しばらく様子をみた方がよいですねと孝司の具合を心配する素振りをみせた。
でも実際は声が出ない塾講師なんて、物真似をしないオウム、鼠に興味を示さない猫より始末が悪いと思っていたに違いない。
これから山場を迎えようとしているのに迷惑かけやがってと思っているのだ。競争相手を蹴落して栄光をつかむ受験業界に情けや、思いやりや、施しなんていうものはない。
 夜、美伽がいる時でも息子を膝の上に置いていた。机の上に置いてあった孝司の携帯が鳴った。震えながら、音を出し、それが孝司の神経を逆撫でた。
美伽は座ったままで腕を目一杯伸ばし携帯をとり耳にあてた。
「はい…」
「そうです」
しばらく相手の声に聴き入っている。
少し難しそうな顔をするが、すぐにいつもの顔に戻る。
「出ないんですよ。声が出ないんです」
美伽は沈黙した。
「わかりました。伝えます」
 美伽は携帯のスイッチを切り、もう一度腕を伸ばし、机の上に携帯を投げた。
美伽は深呼吸をひとつした後に言った。
「おばあちゃん、亡くなったって」
おばあちゃん。
孝司は声に出ない言葉を口の形をつくりながら言った。孝司は、膝の上でごろごろする息子を見た。彼の顔を見ていると、五島の顔が陽炎のようにゆらゆらと立ち昇る。誰からの電話だったの。紙に書くのが煩わしいので、孝司は、口をゆっくり言葉のかたちにして美伽に向けた。美伽はそのかたちを見ながら孝司の言葉を理解した。
「兄って言ってたよ。れんじって言ってたかな。そんな名前だったな。明日、通夜だって」美伽は会ったことも話を聴いたこともない祖母の死を無関心な口ぶりで言った。

 孝司は通夜の開始時刻よりかなり早く実家に着いた。
伝える言葉を書くために、分厚いメモ帳にボールペンを挟んで礼服のポケットに入れていた。
写真館のスタジオの奥の祖父母の部屋にトミ子は寝かされていた。作之助はいつもの座卓の脇で胡坐をかいて座っていた。俯いていた作之助は、孝司が襖を開けて部屋に入ると顔をあげた。顔のパーツが統一をなくし、それぞれがばらばらになり力を失い、どこに行ってよいかわからず彷徨っているように見えた。左の瞳は灰色にくすみ、右の瞳は濃緑色で、ばらばらの方向を向いていた。鼻先は右によれ、山脈の尾根のような曲線を描いていた。唇の左右はバランスをなくし、下唇は歯茎が見えるほど顎の方に垂れていた。左右の頬は対称でなく、髪は無意味に逆立っていた。
彼の姿は亡くなったトミ子より死者に近かった。
 孝司が作之助に近付こうとすると、背後の襖が静かに開き蓮二が入ってきた。
「孝司、あの人だよな、初めて話したよ」
孝司は振り向く。
開けた襖の廊下の窓から陽光が蓮二を背後から照らしていた。蓮二の表情は逆光で翳になり暗く沈んでいた。そうか、おまえ声出なくなったんだなという顔つきになり、申し訳なさそうな素振りを見せた。
孝司は礼服のポケットからメモ帳とボールペンを取り出そうとしたが、蓮二の少し気まずそうな態度に途中でやめた。
蓮二はそれ以上美伽については何も触れようとしなかった。蒲団に寝かされているトミ子と作之助をうっちゃって、蓮二は孝司の声のこと、病院の診断の結果、身の回りのことなどを訊きたかったようだが、八つ裂きにあった作之助の顔の造作を見ていると、とてもそんなことを蓮二は話題にすることはできなかった。
「ずっと寝こんでいたんだけど、最近は心臓の調子もよくなり、起き上がって、少し歩くこともあったんだけど……」
蓮二は作之助の顔をちらちら見ながら、小鳥が餌をついばむようにびくびくしながら言った。
「突然だった。時計が止まるみたいに……心臓がカチッといきなり止まったんだ」
 仏像のように固まった作之助から吐息のような声が漏れた。ハミングのようにも聴こえた。
作之助がこんなに現実離れした高い声が出るのを孝司も蓮二も知らなかった。その固く結んだ唇が開き洩れた声は糸が舞うように、ゆっくりとぐろを巻きながら部屋のなかを彷徨った。
孝司は久しぶりに蓮二と会い、硬くなっていた心の端の部分が溶けてゆくように思えた。トミ子の死も作之助の崩壊もどこか遠い別世界のことのように思える。部屋のなかを渦
巻いていた高いハミングの声がしだいに強さを増し、艶をまし、音程は低い音域に移動し、孝司と蓮二の身体に絡みついた。
次の瞬間、濁流が押し寄せるような轟音が押し寄せ、ふたりの耳は抵抗する暇もなく打ちのめされた。作之助の両目から涙が大河となって流れ出し、慟哭の低い声が部屋のなかに鳴り響いた。


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