14.黄泉の日
すごくすごく、個人的なお話ですが、4月3日に佐賀新聞に掲載された「記者日記」で、わたしが言いたかったもう一つのこと。
3年前の4月3日「祖父のノート」という記者日記を書いた。亡くなった祖父に習い、葬儀の日から日々をノートに綴るようになった。3日でちょうど7年目になる。それを日々の「記録」として綴ってきたが、ある文章を読んで、意識が変わった。
作家の岸田奈美さんが、「note」に公開している「わたしがほしかった、遺書のはなし」を読んだ。
「わたしがほしい遺書は、何気ない日常の、何気ない選択と、何気ない行動の記録だ。」
「願いではなく、その人が自由に生きた痕跡だ。」
その言葉にハッとした。私が日々を書き留めているあれは、遺書だ。
嬉しいこと、悲しいこと。生まれた日、将来の夢、亡くなった日。人の思いや記録が遺書なら、記事も誰かの遺書になり得るだろう。誰かの人生無しに、紙面は埋まらない。
2月に祖母が亡くなった。従兄と「ばーちゃんのこと、ほとんど知らんね」と話したのを覚えている。知りたいことは、知れなくなってから溢れてくるものだ。そんな人にとって記事が、故人を知るきっかけになることがあるかもしれない。
今年の4月3日は祖母の四十九日だった。世の中上手くできてんな。少なくとも、わたし目線で。
その日、何気なくTwitterに「4月3日という日は自分の中でも割と、特別なことが詰まっている日」と呟いた。そしたら友人から一言だけ「黄泉の日」とリプが来て驚いた。
葬儀のことも、四十九日のことも知らない彼の素晴らしいタイミングとセンスが気に入ったので、4月3日は私の中で「黄泉の日」とする。ただの語呂合わせだよ、と彼は言うが、わたしにはとても美しいものに思えた。
私にとってどんなに大切な日か。ここにも遺しておきたい。
下記、文中に出てきた記事のリンク