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精神単科で5年働いて見てきた一部のすべて
終わった。
新卒で入った病院での就業が、今日で終わりました。精神科で働いている、と公言すると、必ずと言ってもいい程、
「大変そうだね。」
「なんで精神科にしたの?」
「こっちがやられたりしない?」
と聞かれる。
大変じゃない仕事はないと思ってはいるが、なんで精神科にしたか、については長くなってしまうので、ここでは割愛させて頂きますね。
是非今度会った時に聞いて下さい。よしよし、これであなたと会う口実ができましたね。笑
こっちがやられないか、という点においては、ナース服を着ればある程度守られる部分があるため割と大丈夫、と思ってはいたけども、でもやっぱり、思っていただけで、少しずつ溜まってはいたんだと思います。今日まで働いてきて、あまりにも衝撃的だった出来事を、3つほど、話させて下さい。
やっぱり精神単科で働いてる人って、そんなに多くはないと思うので、これは、なにか形にして残したいなと思ったのです。
※読み進めていって、しんどくなってしまったら、
すぐ、閉じて下さいね。
まずは、電気療法。
映画やドラマで観たことがある人はいるんじゃないでしょうか。そうです、あの、頭に何か機械のようなものをつけて、電気を流すってやつ。
あれを、まだ実際にやっている病院があるんですね。
そりゃあ世の中で何度も試されてきて、良くなった実例もあり、歴史的にダメなものではないのも分かっている。が。
人間に電気を流す、という光景を、この先見ることがあるのだろうか。
当然、かなりのリスクがあるため、本当に、最終手段として使われるのだけども、でも、冷静に考えると、あまりに怖すぎないか。
初めて"それ"を見るとき、科長に、「最初は結構衝撃的だと思うから、無理そうだったら目を逸らしていいからね。」と言われた。
"衝撃的"で"目を逸らしていいこと"を、人間にやっているのだ。
もちろん麻酔はするけども、身体は痙攣するし、
その日の身体管理は凄く細かく厳しくやらねばいけない。
それを受けた患者さんは、劇的に良くなる人もいるし、そうでない人もいる。
ただ、共通して分かるのは、患者さんが"それ"を受ける前の自分の状態を、覚えていないことだ。
だとしたら、それは同じ人間なのだろうか?
あんなに話さなかった、動かなかった人間が、
急に活発になったり話したりするようになる。
わたしはそれが怖かった。
そして、"それ"に慣れてしまうわたしが、怖かった。看護師として、補助はできるようにならなきゃいけないため、何度もその光景を目の当たりにすることになるが、目を逸らさずに、出来てしまうようになる、自分が、怖かった。
「あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
マハートマ・ガンディー
ガンディーの好きな言葉です。まさに、これでした。このままでは、まずい。慣れてしまった自分を、自分が許せなくなってしまう。そう思いました。
きっと精神科の世界では、今後もずっと、悩みながらも施行されていく療法ではあるけれど、いつか、"それ"に代わるものが、生まれればいいなと願っています。
次は、ある患者さんのお母さんの言葉です。
ひとり、色んな疾病が重なり、亡くなってしまった方がいました。入院した理由としては、統合失調症でした。
その方が亡くなったことをお母さんに伝えた時、お母さんはこう言いました。
「ああ、私より先に死んでくれて良かった。」
そう、安堵を含んだ音で言ったのです。耳を疑う言葉でした。その背景としては、
「だって私が先に死んでしまったら、この子を看てくれる人がいない。そうなったらこの子は生きていけない。だから私より先に死んでくれて、安心している。」とのことでした。
おかしい。おかしいだろう。そんな訳あるか。
死んで良かった、と思う命なんて、この世に絶対にないはずだ。なのに、そう思う人がいて、それを本当に安心した、というように語る人がいる。
その言葉を、言わざるを得ない環境だった。世の中だった。お母さんはそうだったのだと思います。
それだけ苦しんで、苦しんだからこそ、安心していた。おかしいよ。何度もそう思いました。
そんな世の中にも腹が立ったし、じゃあこれからどうやったらその世の中を変えていけるのだろう、などを考えることもできなかった。
お母さんには、頭を下げることしかできなかった。
亡くなった彼に、どのように手を合わせたらいいかが分からなかった。
あの日のことは、今でも、鮮明に思い出せます。
そして、衝撃的なことと言えば、きっと精神科では稀ではないであろう、自殺です。
立て続けに起こったことがあり、しかもそれが、みんな、20歳を迎えていませんでした。
なぜこのタイミングで?ここまで共に伴走してきたのに?私たちのしてきたことは無意味だったのか?あの時、あれを言わなければ。こうしていれば。
みんながみんな、自分を責め、一方で、誰も悪くない、どれかひとつをクリアしていたとしても、きっと防げてはいなかった。と、慰め合った。
それでも、誰も悪くない、は、みんな悪い、と同義語でもありました。
Dr.は、「僕の力不足で、すみませんでした。」と言った。違う。それは違うだろう。悔しかった。全員で、もう少し、違う未来を作れたかもしれなかった。
5年間も精神科で働いていたら、もう並大抵のことじゃ心は揺らいだりしないぞ、と思っていましたが、全然そんなことありませんでした。
この出来事以後、好きだった映画も本も音楽も全然摂取できなくなり、友人たちとの予定も、ぜんぶ、断ってしまいました。
(この時期、遊ぶ予定を立てていたのに、ドタキャンしても嫌な顔せず受け入れてくれた友人各位、本当にありがとうございました。)
もちろん周りの患者さんはそんなことを知らずに過ごしているため、ふと、名前が出てきたり、ふと、あの時した会話が頭をよぎったりして、その度に、もう居ないんだ、ということを実感させられました。
なんでみんな、何事もなかったかのように仕事しているんだろう。なんでもっと、泣き叫んだりしないんだろう。なんで、私は平気です、て顔して働いているんだろう。なんで、なんで。
そう思っていましたが、私だって、その一員でした。
「こういうことが立て続けに起こっているけど、大丈夫?」と、上司に聞かれても、大丈夫です、と言うしかありませんでした。
誰かが居なくなってしまっても、今入院してる人たちからしたらそんなの知ったこっちゃないだろうし、日々は、生活は、続きます。
医療者は、続いている人たちの、ケアをしていかねばならない。それでさえ手一杯だからです。
そうやって、言い聞かせていたのかもしれない。
もう、疲れちゃったなーーーと、思ってしまいました。
生死がすぐ側にある環境も、思ってもないことを言わなきゃいけないことも、日々が、続いていくことも、病院には、出来ることの限界があるかもしれない、ということも。
精神単科看護師、というものは、本当に日々頭を悩ませ、他者にとっての当たり前を突き付けられ、どうしたら、その人が、その人らしく生活していくことができるか。社会で生きていくことができるか。
7歩進めたかと思いきや8歩下がるみたいなことの連続で。そういうことを患者さんと医療者と共に考えながら働くことは、とても楽しくて、やりがいがあって、私の性格に合っていて、エッセンシャルワーカーで、お給料もちゃんとしている。まさに、天職と言っても良かったのではないかと思います。
私のインスタのストーリーのひとりごとを、楽しみにしてくれている人たちが居たことも、すごくすごく、ありがたいことです。いくらか、精神科の世界を知ってもらうことが出来ていたでしょうか。
3月からは、映画の美術制作の仕事に携わります。
趣味を、仕事にしたらどうなるのか。
これは社会実験でもあり、自分への挑戦でもあります。楽しみですねえ。
一方で、月に1回程、レスパイト(休息目的)で子どもを預かっている会社で、看護師として、働かせてももらいます。病院には限界がある、と思っていた最中だったので、地域を看れることは、これもまたきっと、何か糧になるのではないかと思っています。
今度会った時は、新しい仕事の話を、是非、聞いて下さいね。私はあなたの話も、沢山聞きたい。
とっても長い文章を読んで頂き、ありがとうございました。
精神科医療に興味がある方、是非、一歩、足を踏み込んでみて下さいね。怖がらないで下さい。遠ざけないで下さい。そこに居るのは、私たちと何ら変わらない人々です。