好きを選ぶということ

最近やっと、人の見た目の違いとか、それが表す個性と呼ばれるものを認識できるようになってきた。
それまでどう見分けていたの?と言われると辛いところではあるのだけど、曖昧な事柄を言語化できるのは嬉しいことに他ならないので、今まで何となく感じていた「恥ずかしさ」や「寄る辺のない焦り」みたいなものが何に対する気持ちであるのかが分かったりする世界に楽しさを覚えている。

とはいえ、そうなると気になるのは「自分を構成しているもの」に対する見られ方である。自分が人を見るように、人は自分を見ているわけなので、私は今まで気を遣わなかった部分に対して知らぬうちにどれだけの恥をかいたことであろうかと、想像しただけで死にたくなるような心地にもなった。どうにか持ち直した。
だって今から変えても咎められやしない事だしね。

ただ一つだけ、何とも言えないことがある。今まで比較的「自分にとって快適であること」を優先して選択してきたものが、周りから抱かれる印象によるメリット・デメリットを考えて見た時に、おおよそ褒められるものでは無い、ということについて、その快適さを犠牲にしてまで私は着飾るべきなのか?という所。

何が難しいって、快適さ重視になる理由がどうしても身体的な事情であったり、もしくは他人の性的な目線からの防衛意識であったりして、自分がどうにかしようとして変えられる条件ではない場合に「見栄えが良いからこれをアイデンティティとする」というだけで乗り換えられるものでは無いという現実がそこにある。

決して特別美人だとか、性的な身体の造形であるとか、そういう自負がある訳では無いけれど、少なくとも避けられるデメリットは避けたいわけです。似合う服と思う好きな服を着れるなら着たい。でもそれによって凄い肩が凝るとか、体が締め付けられるとか、なんだか他人から性的な消費をされるとか、今までそういう苦い経験をした上で「素敵な服」を着る自分をアイデンティティに出来るか?と言われると、正直いっその事死にたいような心地になってしまうのだ。

まあ多分、世の中の人はそこまで細かいことを悩んだりせずに、直感的にイイモノを身につける選択を躊躇なくするのだろう。そこに至るまでの審美眼はきっと、息を吸うように学んでいるのだ。

私はまだ、自分の好きな物に対して胸を張って、それをアイデンティティとして背負える覚悟がつかないままだ。没個性のど真ん中に居るような気分だし、その癖ダサさの自負はあるから僻みだってずっと抱えている。好きな物を集めるだけの自由な資産も無いのに、雰囲気で手を出して破産するのが怖い。

好きを選択するのが当たり前に肯定される世界が、もう少しだけフラットな「好き」も許してくれたら、自分のような半端者の気持ちも報われるのだろうか。

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