ない仕事は、自分の好きを突き詰めまくる事
どうも。こんにちは。僕は、予備校時代にある先輩と出会ってからある人の存在を知りました。そうその人は、
みうらじゅん
予備校時代の先輩は、もう見た目も中身もみうらじゅんでした。ボブディランに傾倒し、ボブヘアーで黒の革ジャン。僕にとってかっこいい先輩でした。今、どこで何してんだろうな〜
そう、先輩からみうらじゅんを教えて貰って、みうらじゅんを知る為にこの本を買ったのが始まりです。(先輩と出会って、5年後とかにこの本買ったなw)
そのタイトルは、
「ない仕事」の作り方
文庫版はこちらですかね。
みうらじゅんってみなさんご存知ですか?「サブカルの帝王」や「サブカルキング」と世間で呼ばれているサブカルチャー(本人は"サブ"と思っていない)の発信者であります。主にゆるキャラやマイブームなどの言葉を作ったり、仏像や崖とか、海女とか陽に当たらないけどみうらじゅんが気になった事をはやらせたりしてます。肩書きは「イラストレーターなど」
そんなみうらじゅんの仕事術が書かれたこの本。読んだら「この考え方面白いな〜」って言う発見がたくさんあります!仕事だけでなく人生の生き方も書いているような代物。この人には、多分既成概念ってものがないのだろうな〜!面白さを世の中に感じ、それを発信する事が楽しいんだろうな〜と読んでて思いました。
まだないことを描く
太郎さんの名言にはもうひとつ、「なんだこれは!?」というものがあります。何もないところで発しても意味のない言葉です。しかし、自ら作品を作ってから、「なんだこれは!?」と自分で驚く。これが実は、「ない仕事」の本質なのではないかと、私は思います。自分で作り、自分でツッコミ、人が驚き振り返る。要するに、「ない仕事」とは、依頼もないのに勝手にやった仕事のことなのです。
(本書:p.125)
自作自演なのです。みうらじゅんは学生時代に、冊子を作って読者からの感想みたいなのも自分で書いていたらしく、この自己完結が面白いと思いました。僕は、ボケとツッコミどちらやりたい?って言われたらどちらもやりたい方です。なんならどっちもします笑
0→1って以外とシンプルなのかも知れません。
「私が」で考えない
私が何かをやるときの主語は、あくまで「私が」ではありません。「海女が」とか「仏像が」という観点から始めるのです。
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そもそも何かをプロデュースするという行為は、自分をなくしていくことです。自分のアイデアは対象物のためだけにあると思うべきなのです。
〜
「私はこういう仕事がしたい」という考えのうちは、逆になかなかその仕事は形になりません。
(本書:p.131 〜p.132)
とみうらじゅんはおっしゃってます。対象物の為だけに自分のアイデアがある。この考えは今の自分に足りてない考え方でした。デザインする上で、「かっこいいもの作るぞ!」って自分軸になっちゃって、デザインする対象物にどんな見せ方が使いやすくなるのかっていうのを忘れてました。。
仏像も各地方のヘンテコなお土産もあんなに世の中に広まって行ったのでしょう。だって対象の面白さが、どう広がっていくのが面白いのかを考えて、自分を洗脳して(お土産をコレクトしまくる、値段が高くても躊躇せずw)広めていく。これすごいと思います!
不自然に生きる
不自然なことをやり続けるためには「飽きないふりをする」ことも大切です。〜「もう飽きた」と言ってしまうのは「自然」です。人に「まだそれやってるの!?」と驚かれるほど続けなければ面白くなりません。
(本書:p.131 〜p.132)
大体、やっている事って飽きちゃいます。僕も週替わりでやっている事や研究している事がコロコロ変わります。みうらじゅんの視点は、「面白さ」であり、不自然に生きる=Be(成る)という事でしょうか。流行りに流されず、自分が面白いと感じた事をズッポリとやり続ける。そしたらクリエイティブな発送は生まれます。
ない仕事の上に、グラビアン魂では、「グラビアに男のヌードが写っていてもいいんじゃないか」と、岡本太郎さんのようなことを言って、数々の男性にパンツ一丁で登場してもらったり、「AV女優が服を着てもいいんじゃないか」と。着衣で出演依頼をしたり、さらに「なかったグラビア」を生み出し続けています。
(本書:p.131〜p.132)
グラビアという概念が不自然な見せ方をしている例ですよね、こういうの面白いと感じます。クリエイティブだなあ。
「空」に気づく
「そもそもなかった仕事」を「ある」ように見せるのは、それこそ般若心経の「空」の考え方です。
〜
そもそも違う目的で作られたものやことを、別の角度から見たり、無関係のものと組み合わせたりして、そこに何か新しいものがあるように見せるという手法。
(本書:p.143)
空とは、仏教の考え方ですね。
一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと。空は仏教全般に通じる基本的な教理である。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
みうらじゅんは、般若心経の全ての漢字を全国の看板を回って写真に納め、それを般若心経の順番に並べて展示したりしたらしいです。様々な看板の漢字を写真に一文字ずつ納める。それを一文字だけ見ても意味は無いが、その漢字が写っている写真を繋げたら般若心経に成る。文字じゃなく写真で般若心経を描くことでこの考えが浮かんだそうです。
結語
挙げた項目は、一部ですが、僕がグッときたポイントです。この本を読んである歌のある歌詞を思い出しました。
ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の歌詞
君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安いバーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう
にもあるように、何かに凝ってそれをしつこく続ける事が大切だな〜って思いました。こういう視点が今後大切になって行くと思います。凝れば凝るほど、ない仕事を作って行けると...