「薄い拒絶感」が形になっている気がする「回収ボックス」を見て、ゴミのことを考えた。
街からゴミ箱がなくなっていった。
最初はテロ対策で、非常時対応といったことが言われていたはずだけど、それはゴミ箱にからんだ実際のそうした事件がなくても、そのまま非常時が日常になっていったように思えていた。
「薄い拒絶感」
そういう基準があいまいなまま、説明もなしに、変化していくのはあまりいいことではないと感じていた。
だけど、そんな個人的な気持ちとは全く関係なく、あちこちからゴミ箱がとにかくなくなっていって、だから、外出先でゴミが出ても、どこにも捨てられない気持ちになる。
そのうちに、それまで、それでも透明なビニールにするなどして、駅には比較的あったゴミ箱もなくなっていった。
さらには、ペットボトルや空き缶を回収するボックスまでが減ってきた上に、そこには金属のフタが設置されるようになった。
それは、ぱっと見には、もしかしたら捨ててはいけない場所なのか、と思ってしまうし、そのふたを片手で持ち上げて、残った片手でペットボトルを入れなくてはいけない手間もかかるし、そのふたは見た目以上に重かった。
そのウエルカムな気配からは遠いシステムには、「薄い拒絶感」まであった。
それは、考えすぎかもしれないけれど、なるべくなら入れてほしくない、といったメッセージがかたちになったように思えた。
なくなっていくゴミ箱
2000年代に入って、ゴミ箱がなくなっていった印象もあったのだけど、どうやら鉄道各社のほとんどがゴミ箱を撤去したのは、2020年代なので、ここ数年で一挙に姿を消していったことになる。
そんなに減っているのか、というのと、一社だけとはいえ、まだゴミ箱を設置している会社があったのか、という意外さの両方の気持ちがある。
そうした議論がされた記憶もないまま、ただゴミ箱が減っていく。
その変化に対して、一時期は、携帯もスマホも持たないので、ホームに設置された公衆電話を使うたびに、その周囲にビールや焼酎の空き缶が、電話の周囲だけではなく、その上にまで置かれていたことがあって、ちょっと嫌な気持ちはしていた。
そうしたこととは関係ないように、とにかく公衆電話は減っていき、ホームで見かけることもなくなり、同時に、これだけゴミ箱がなくなっていくのに、車内で空のペットボトルが転がっていることはたまにあっても、ほとんどゴミのポイ捨ては見当たらない。
それは、かなり不思議な気持ちにもなる。
ゴミのポイ捨てが少ない理由
こうした見方をする人がいて、それはある程度以上の説得力もある。
ただ、昭和の頃、電車の駅のホームで、大勢のサラリーマンがタバコを吸って、しかも吸い終わったら、線路に向かって、ポイ捨てする姿が当たり前のようにあったし、飲み終わった缶コーヒーなどを道路に捨てたりするのも自然だったから、元々のマナー意識が高い国民性とは思えない。
いつから、これだけポイ捨てが減ったのだろうか、と思っていた。
それは、確かに駅の光景だけを見ても、明らかに清潔になっているし、ゴミのポイ捨ても昭和の頃と比べたら少ないと思う。だから、ゴミ箱がこれだけ減っても対応できるのだろうかとも思っていた。
ただ、これは考えすぎかもしれないけれど、今の時代に露骨なポイ捨てを、公共の場所で行えば、動画で撮影されて、それをインターネット上で拡散されるリスクがあるのでは、とスマホを持っていない私のような人間すら思うし、何より、「人の目」がある場所では、ポイ捨てが少ないのかもしれない、と思った。
日本は相互監視社会とも言われていたのだけど、それが本当だったんだと思えたのが、コロナ禍が始まった頃だった。
自粛警察、と言われるような存在が本当にいることがわかった。
こうしたことがわかれば、「人の目」がある場所では、怖くてポイ捨てもできにくいのではないだろうか、とも思う。
旅の恥はかき捨て
「人の目」がないところでの振る舞いに関しては、昔から「旅の恥はかき捨て」という言葉があった。
そして、この記事は、「日本人のマナーは世界一」などと言われるようになった後の、2022年の5月の連休後の記事で、全国の観光地でのマナーの悪さをテーマにしているのだった。
さらに、この記事では、「旅の恥のかき捨て」について、このように分析している。
この記事が書かれた時期は、コロナ禍で海外からの観光客が訪れていない頃だった。
この提案は、コロナ「5類移行」後の今も、それほど生かされていないまま、2022年頃から、鉄道各社からゴミ箱が消えていった。そして、ゴミの問題は、本質的には、ほとんど解決されていないようだ。
みんながしていること
日本人はマナーがいいからゴミはポイ捨てしない。
という見方がある一方で、
日本人は「人の目」があるところではマナーがいいが、それがないところでは「旅の恥はかき捨て」になる。
という視点もあった。
個人的には、後者の視点の方により強い説得力を感じたが、そうなると、ホームでタバコを吸って、ポイ捨てする光景については、「人の目」があることを考えると、少し混乱するが、その現象も「みんながしていた」と考えれば、それほど不思議ではない。
昭和の時代の駅のホームでは、タバコを吸って、線路に捨てる人が多かった。
みんながしていれば、それが(本来は間違っていたとしても)「常識」になってしまうから、「人の目」は気にならない。隣の人も同じ行動をしているし、それに、通勤電車で一緒になる人は、別に知り合いでもなければ、同じ会社の人でもないことが多かったはずだ。
もし、近所の知っている人が、同じ電車に乗って、同じような場所へ通勤していた場合は、もしかしたら、あの時代でも、タバコを吸ってポイ捨てをしていなかったのではないだろうか。
もしくは、一緒にポイ捨てしていたかもしれない。(とも思ってしまうから、想像が徹底していないのだろう)
21世紀の現在では駅のホームでタバコを吸う人はいなくなった。いたとしても喫煙所という定められた場所になる。
それに、ゴミが出たとしても、ポイ捨てをしなくなったのは、周りの人たちが、そういうことをしなくなったから、自分もしない人が増えたのだろう。さらに、自粛警察に見られるように、人のマナーに対して注がれる視線は厳しくなっているので、それが抑止力になっているのだろう。もし、ポイ捨てする姿を、動画で撮影されてインターネット上に出回ってしまえば、それでこうむる被害はとんでもなく大きくなる。
そう思えば、ゴミ箱がなくなっても、ポイ捨ては思った以上に増えないのも、理解できる。その上で「人の目」がないところでは、ポイ捨てが減らないのもわかるような気がする。
ゴミ処理システムの再構築
でも、通常の生活で、駅にゴミ箱がないのは、やっぱり困る。
海外から来た人だけではなくて、困っていても、あえて主張しない日本在住の人も思ったよりも多い気がする。
だけど、ゴミ箱を設置し、溜まったゴミを速やかに回収し処理する。それを日常的に繰り返すことを考えたら、誰がそれをするかは問題になる。鉄道各社のスタッフがそれを行うとすれば負担が大きすぎるだろうし、街や観光地などでは、誰がその役割を担うのか、などと思えば、いったんなくなったゴミ箱は戻ってきそうにない。
では、どうすればいいのか。
「旅の恥はかき捨て」の記事の中で、観光地の有料化という話が出ていた。富士登山に料金が掛かるようになったのは、直接のポイ捨て対策ではないかもしれないが、こうした問題に対する、一つの具体化かもしれない。
でも、ゴミ箱の設置と、管理は、やはり会社を作って、その上で日常的な業務として行ってもらうしかないのだと思う。
その資金をどこから集めるのか。
飲料や、食物、ゴミになる包装物などがあるものに関して、最初から「ゴミ処理料」として、薄く広く、購入者に負担してもらい、その代わりに鉄道や屋外でのゴミ箱を復活させる。
そのためにはゴミ処理会社のようなものが新しく必要になるが、そのことで雇用も創出できるのだし、最初にテロ対策として、ゴミ箱撤去を働きかけたのは、公的な機関であるのだから、ゴミ箱復活のために、そうしたマネージメントの後押しもすべきではないか、と思うは、無理があることだろうか。
回収ボックスにさえ「薄い拒絶感」がある現代では、そのくらいのことをしていかないと、誰かの心がけや善意では変わっていかないと思う。
何しろ、この記事のシリーズでも触れたけれど、私自身は、日本は「冷たい社会」だと思うからだ。
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