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「雨の一日」が楽しくなる条件

 一日、雨の天気予報が出ている。

 その予報の正しさを証明するかのように部屋の中にいても雨の音が聞こえてくる。

 正確に言えば、空から水滴が落下してきて、それが地面に当たったり、この部屋の中だと、人間が建てた建築物など人工的な物体に衝突したときに発生する音を雨音として認識しているに過ぎないから、周りに何もないような草原などで雨が降ったら、もっと静かなのだと思う。

 ただ、それが雨音というには、別の音が混じり過ぎているとはいっても、雨が降っている音が響いていると、その音に遮られ、場合によっては囲まれて、包まれているような気持ちになれれば、ずっと音が響いていることで、逆にいつもよりも静かな時間が続いているような気持ちにさえなる。


大雨ではないこと

 これは幸運な場合だと思うのだけど、雨が降っていて、災害につながるような大雨でないことが、雨の一日が楽しくなる最初の条件だと思う。

 天気予報を見て、そのことを確認し、さらには雨の音が一定の音量でおさまっていて、激しくなりすぎないと、雨の日として、普段と違う一日として楽しめる可能性が出てくる。

 特に近年は雨の降り方が激しくなり、長年、安心だった近所の川の堤防が、危うくなった時があったので、そのことは以前よりも気にかかるようになった。

出かけなくても大丈夫なこと

 雨が降っていて、なんとなく憂うつになるのは、出かけなくてはいけないときで、しかも、歩く時間が多いときは、単純にちょっと嫌になる。

 それは、どんなときでも外出し、歩く必要がある人から考えたら、とても甘えたことかもしれないけれど、でも、雨の日に歩くのは、特に仕事や用事など、「しなくてはいけないこと」の場合は、荷物も持っているし、カサもささなくてはいけないし、靴から水が入ってきて、靴下が濡れたりする。
 
 あの独特のぐちょぐちょした感触は、用事がなくて、子どもだった頃は楽しめたかもしれないけれど、いつの頃からか憂うつになった。

 雨は水分なので、カサだけでは全部防げるわけもなくて、肩のあたりが濡れたりすると、少し気温が低いと、そこから体温が下がってしまうと思うと微妙に気持ちも重くなる。

 荷物の重さも、これも濡れることを気にするから、いつもよりも重さが気にかかってしまうせいか、重くなっているような気がする。

 雨の日の外出は、こんなふうにいろいろと微妙に嫌なことが多いので、出かけなくても大丈夫だったら、家にいることが楽しめる可能性が高まる。

雨の午前中

 起きると、雨が降っている。

 妻に、おはよう、というと、おはようと言ってくれる。

 調子は、どう?と聞くと、大丈夫、元気だよ、とかえってくるので、それで安心もする。

 空は灰色で、雨が強いほど、空の色はかなり安定していて、あちこちにムラが少なくなっている。

 天気予報でも一日雨で、カサのマークが並んでいる。

 考えたら、雪のときは雪だるまのマークだし、晴れているときは太陽だし、曇っているときは雲の絵だから、天候を構成する要素と、かなり直接的に関係があるけれど、雨のときだけ、雨を防ぐ道具が、その象徴になっているのは、改めて、ちょっと不思議だった。国によってはカサをほとんど使わないとも聞いたことがあるから、そうした場所では違うマークで雨をあらわしているような気がする。

 朝食は食べなくなって20年くらいが経つ。

 いろいろとあって、減量しようと思って、カロリー計算をするようになり、例えばコンビニなどへ行って棚から商品を選ぶ時、食品の場合は、ほぼ必ずその中で最もカロリーが高いものを手にとっているのを、袋の裏のカロリーを見るようになって気がついた。

 それは、おそらく体重が重めな人に共通する能力だと思うのだけど、その正確さに、ちょっと驚いた記憶がある。

 そして、1ヶ月で1キロに届かないくらいの体重を少しずつ落とすように摂取カロリーを減らし、筋トレのメニューも増やし、少しずつ負荷も増やすようにして、2年半で20キロくらいを減量できた。

 それから、大幅なリバウンドもなく、なるべく栄養バランスに気をつけて、朝は牛乳などは飲むけれど、食事はせずに、一日2食を10年以上続けている。

 出かけなくても大丈夫な日は、こうしてノート型のコンピュータを前に作業をしていることが多い。

 そばで妻が読書をしていたり、テレビドラマを見ていたりする。

 隣にいてくれた方が、なんとなく私の気持ちも安定するし、テレビがついていても、作業をしていても、それほど気にならないし、単純作業に近いときは、逆に助かる。

 雨が降ってるね。

 時々、妻と話す。

 最近、咲いている花のことを教えてくれると、その名前をそのときは覚えて、でも、しばらく経つと忘れたりする。

 近所の話や、テレビで見たこと。そんなことも伝えてくれるけれど、自分が知らないことが圧倒的に多いのに改めて気づく。

 時々、作業の手を止めないと、理解が難しい視点を妻は提示してくれて、それを確認しないといけなくなるのだけど、だけど、その新鮮さについては、妻にとっては自然だから、何を不思議がられているのかは、わかってくれないと思う。

 雨の音はずっとしている。

 そうしているうちに、昼が近づき、妻はその支度のために台所へ向かう。

 一人になった私は、またこうして文章を打ち込んだりを続けている。

 洗濯機を回したときは、食事ができる10分前くらいに1階へ降りて、干すね、と妻に声をかけて、洗濯物を干すけれど、今日は、洗濯をしていないので、申し訳ないのだけど、12時ギリギリまで自分の作業を続けている。

雨の日の午後

 昼食を準備してくれて、台所へ向かって、一緒に運ぶこともあれば、気がついたら昼になって作業を続けている私に、昼食を持ってきてくれることもある。

 全部、任せて申し訳ないのだけど、でも、そのおかげでおいしく、楽しく食事ができる。

 何かを話したり、録画していたドラマなどを見て、食事をしたりもする。

 なんの変哲もないのだけど、穏やかに楽しい時間が流れる。

 食事が終わり、食休みもすると、妻が少しずつ眠くなってきて、だから、昼寝をするために部屋を移り、少しマッサージをして寝かせてから、私は食器を洗い始める。

 平日だと、ラジオを聴きながら、洗っている。

 同じ番組を聞くことが多いのは、いつも変わらないことがあった方が、なんとなく気持ちがいいからかもしれない。

 その作業が終わってから、筋トレをする。

 この習慣も10年以上になる。だから、筋トレをしないと、ちょっと落ち着かなくなっている部分があるから、微妙にマッチョな人になっているのかもしれないと思う。

 妻が昼寝から起きてきて、妻は自分の作業をする。

 私も自分の作業をする。

 その前に、今日のおやつの時刻をだいたい決める。

 午後4時くらいとか、午後3時半とか。

 そこまでがんばる。

 時によっては、午後は妻が筋トレに取り組むので、そばで時間や回数を数えたりする。苦しいー、もうだめだー、と言いながらも、なんとか頑張るので、応援もする。

雨の日の夕方

 午後遅く、時刻的には夕方になる頃に、妻と一緒におやつの時間になる。

 そのためにスーパーでできるだけ安売りだけど美味しそうで食べたことがないようなものを買ったり、時々妻が作ってくれるお菓子や、今は値上がりも激しいのでアイスは1リットル単位で買うようになったりして、そうしたものを組み合わせて妻が用意してくれる。

 それと、妻と私は違う種類のインスタントコーヒーを飲みながら、そして、また録画したテレビ番組を見る。ドラマだったり、バラエティーだったり、時々、ドキュメンタリー的なものを見たりしながら、関係ある話や関係ない話をする。集中が必要なときは、再生するのを止めて、しっかり話をしたりする。

 同じようだけど、でも少しずつ違って、ただその差は穏やかだから、気持ちは少し嬉しい感じで流れていく。

 その時間が過ぎたら、また作業をして、それが夕食まで続く。

雨の日の夜

 だいたい、午後7時には夕食になる。

 毎日、少しずつ違って、おいしいメニューを妻は作ってくれる。

 ありがたい。

 食べるときだけテレビをつけなかったり、でもスイッチを入れたりして、やっぱりまた何かを見て、いろいろと話をする。

 午前中や、昼食時や、おやつの時とも、同じ時間のようで、少し違う流れになっている。

 そうやって、また妻は食後に少し眠って、その間に私は食器を洗って、さらに筋トレをして、妻は午後10時過ぎに眠るので、それまで、またテレビを見たり、話をしたりして、時間が流れる。

 ずっと雨が降っていて、夜になって、また降り方が激しくなってくる。

 家にいるだけで一日が過ぎる。

 はしゃぐような感じではないけれど、静かに楽しい時間だった。

 寝る前に、この前、展覧会で知った本を少し読む。

「雨の一日」が楽しくなる条件

 人によるけれど、外へ全く出なくても、「雨の一日」は穏やかに過ぎた。

 それは、災害級の大雨でなかったり、少なくとも来月くらいまでは生活に困らなそうだったり、今日出かけないと困る、といったことがなく、家の中でできることをしていれば、なんとかなる、という状況だから、ある意味で恵まれているのかもしれない。

 さらに、その「雨の一日」が楽しくなる条件を考えると、何かやるべきことがあること。だけど、食事をしたり、おやつを食べたり、本を読んだり、ラジオを聴いたり、録画したテレビ番組を見たりする時間もあること。

 一人で過ごして、そうしてやることがあると、集中してできるだろうし、好きなことを見たり聴いたりする時間があれば、それも楽しそうだけど、時々、一人で家にいて過ごすときは、静か過ぎると思うし、時間の流れ方が、独特の遅さになる。

 自然に流れていく、というよりも、何かしら自分が押していく感じがないと時間が進まないような気持ちになることがあって、それが微妙な疲れを感じさせる。

 それよりも、個人的には、妻と一緒にいられる「雨の一日」であれば、それなりに楽しくなることに、改めて気がついた。

 考えたら、当たり前の話だけれど、誰と一緒にいるか、で時間の感じ方は全く違う。

 だから、同じ空間にずっといても、大丈夫、というか、刺激的とは違うのだけど、静かに楽しい気持ちになれるような人がいて、その人と一緒にいることが、基本的には「雨の一日」を楽しく過ごせるための条件だと思う。

 とても平凡な答えに過ぎないのはわかっているが、現時点で、そういうふうに雨の日も過ごせるというのは、幸運なのだと思った。

 ずっと雨は降っていて、止まないのでは、と思うこともあるけれど、そのときは次の日は雨が上がっていた。

 ずっと雨が降っていた次の日は、きれいに晴れる時が多いような印象があるのだけど、その日は、微妙な曇りのままで、もしかしたら、これが梅雨、ということかもしれない、とも思った。




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おちまこと
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