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「早めに無茶をさせて、慣れさせて向上させる」という「思想」は、まだ健在なのだろうか。

 少し前まで、小さい頃から、多少は苦痛でも、大人と同じ課題をさせて、早く慣れたほうがいい、という「思想」は、とても強かったと思う。

 それは、スポーツなど体を使う分野では、特に強く言われていたようで、例えば、野球は、早めに硬球を使ったほうがいい、ということで、小さい頃から使わせる、ということは珍しくなかった印象がある。

 一種の「英才教育」という発想なのかもしれないけれど、より辛い思いをしたほうが強くなれる、といった「思想」がベースにあるようにも思う。

サッカーボールの弾む角度

 このあたりの「なにしろ早く始めるのが正解」という「思想」に関しては、自分自身も、とらわれていた部分があったのだけど、それに対して、かなり疑いを持つようになったのは、サッカーボールの弾む角度に関して、本当の情報を知ってからだった。

 今では、状況が違っているのだけど、以前、サッカーボールは、子供用はゴム製。大人用で公式は革製だった。公式は、硬くて重くて、特に雨が降ると、とんでもなく重量が増した。

 大きさも、公式は、ゴム製に比べると大きめで、子供にとっては、とても扱いづらかった。

 それでも、子供の頃から、公式の革製のサッカーボールを使ったほうがいい、という主張はあって、その根拠の一つが「サッカーボールの弾む角度の違い」だった。

 かなり昔、サッカー専門誌の記事か何かで読んだのは、ゴム性と革製の違いは、重さや硬さといった表面的なものだけでなく、機能が違う、という文章だった。

 その記事によると、ゴム製は、弾む前の角度と、弾む後の角度が変わってくるが、革製は、その角度が一致する。だから、その感覚を覚えるためには、小さい頃から、革製を使うべきだ、という主張だった。

 その記事をしばらく覚えていて、サッカーの取材を仕事としてするようになって、技術的な面や戦術的なことを重視する雑誌でも原稿を書くようになり、その時に、強豪で指導者も充実していた大学チームの教授に、ふと、その話を聞いた。

 すぐに答えは返ってきた。

 それは間違っています。小さい子供が自分が持て余すような大きくて硬いボールを使うよりも、もし弾む角度が違っているとしても、ゴムでも、なんでも、自分が扱いやすいボールの方が、技術を習得しやすいはずです。

 それは、聞いてみると、当たり前のことでもあるのだけど、それ以来、何よりも「適合」の重要性。つまりは「マッチング」の大事さ、をより意識するようになったし、それまでの自分が、「早めに苦労した方が、より成長しやすい」という幻想にしばられていたことにも気がついた。

 体に合わないことを続ければ、場合によっては、ケガをしてしまう。小さい頃から、大人の道具と同じものを使って、その後に成功した人物がいたとしても、それは典型的な「成功者バイアス」で、その方法自体が、万人に当てはまることではない。

 そのことは、もしかしたら、2020年台の今の方が、常識になっているかもしれない。そうであれば、その方が健全だと思う。


難しい課題

 知力に関することでも、早めに難しい課題に取り組んだ方がいい、といった「思想」は、昔の方が、勢いがあったと思う。

 確かに、本当に優秀な人間であれば、自分の年齢の基準よりも、かなり年上の課題であっても、普通に取り組めて、それが苦痛にならないのだろうけど、私も含めて、平凡な能力しかない人間にとっては、そのことは、ただの苦行でしかないはずだ。


 中学生の頃、A君という同級生がいた。
 1年生の時、同じクラスになって、時々しゃべるくらいで、特に仲がいいわけでもなかったのだけど、その後、学年が上がり、違うクラスになってからも、廊下などで会うと、少し話をすることがあった。
 
 その話題の多くは、なぜか、勉強に関してだった。どうして、その話になるのかは分からなかったし、それほど楽しいというわけでもなかったけれど、かといって無視したりするのも変だから、顔を合わせると、しゃべっていた。

 基本的には、A君は、とても真面目な人だった、という印象が強い。

大学への数学

 ある時、ゴソゴソ、という感じで、厚い参考書のような本を目の前に出された。
 そのタイトルは「大学への数学」だった。

「これ、知ってる?」

 そう言われても、「知らない」と答えるしかない。

「そうなんだ。最近、これで勉強してるんだ」。

「へえー、すごいね」。

 そんな、絵に描いたような気の抜けた会話が続く。

 早めに立ち去ろうとしたら、引き止めるような声がする。

「これ、使わないの?」。

 そんなことを問われたので、そんなに気持ちが乗らないけれど、答えるしかない。

「俺たち、中学生じゃん。その本は、大学への、だから、たぶん、高校生とかが使うんじゃないの?そんなに先の勉強しても、たぶん、わかんないから。使わないと思う」。

 そんなような答えを返したら、A君は、「ふーん」という感じで、去っていった。

 表情によって、A君が、どんな気持ちだったのか。もっとよく見て、考えたら、分かったかもしれなかったけれど、その時は、そこまでの関心を持てなかった。

 もしかしたら、A君も、「早めに、自分にとって難しい課題に取り組めば、より速く成長できる」というような「思想」を信じていたのかもしれない。

 高校は違ったので、その後、A君がどんな大人になったのかは、知らないままだ。


(今でも、「大学への数学」という雑誌があるのを知りました。これが、私が中学生の時に見たものと同じかどうかは分かりませんが、勝手になつかしさを覚えました)。


楽しいこと

 サッカーの神様と言われるような人物が、こんな話をしていたのを聞いたことがある。

 日本で言えば、中学生くらいのとき、プロの下部組織のチームで、毎日のように練習をしていた。それは、自宅からは、バスを乗り継いで、かなりの時間がかかる場所だった。だけど、そこに行くのが楽しみで仕方がなかった。それは、練習がとても楽しくて、好きだったから。

 当たり前だけど、練習が苦行になってしまったら、楽しくなくなる。気がついたら、熱中していて、しかも体力も使って、というようなことだったら、おそらくは、うまくなるのも早い。

 そんな人間にとって自然なことが、世界のトップクラスの方が常識になっている。

 どんなことでも楽しく取り組めるように工夫をすること。おそらく、それだけが大人にできることかもしれない。だけど、それは、難しい課題に強制的に取り組ませるよりも、とても頭を使うし、手間もかかることなのは間違いない。

 だから、難しい課題に、とにかく取り組ませて、そこから生き残ってくる人だけを、評価する。という方法は、古い、というよりは、指導(という言葉が適切かどうかは分からないが)する側にとって「楽」だから、採用されてきたのではないか、ということに気づいていく。

 気づいたといっても、私自身は、誰かのために、何かに楽しく取り組めるような環境を、すぐに作れるわけではない。だけど、楽しく取り組める環境を作ることの重要性に、理解が及んでしまったら、大人としては、そのことを、少しでも意識する責任はあるのかもしれない。


 まずは、何かをするときに、自分が楽しく取り組めるかどうかに対して、もう少し繊細に考えるようにするところから、できるかどうかは別として、始めてみたいと思います。



(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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おちまこと
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