別れが、ひとりじゃないことを教えてくれた
先日、墓参りに行った。僕の父方のお墓は、盛岡のお寺にある。最後に行ったのは、約2年前。その2年前の墓参りに至っては、5年ぶりとかだったはずだ。なぜそのときは、5年ぶりに行こうと思ったかというと、記憶が正しければだが、祖父の死を人伝に聞いたからであった。それで行っておかなければならないような気がして、初めてひとりで岩手へ足を運んだ。つまり、2年前に祖父は他界したことになる。
2年前、祖父の死を知ったのは、実際に祖父が亡くなってから、いくらか時間を経ていた。その事実を聞かされた僕は、不思議な感覚を味わった。僕は、祖父が未だに生きていると思っていた。しかし、実際は亡くなっていた。その誤解は、言い換えるなら「信じていた」とも言えるかもしれない。だから、いざその事実を耳にしても、実際立ち会っていないためか、ほとんど実感が湧かなかった。けれども、2年前に墓参り行くと、たしかにそこに名前は刻まれてあった。名前だけでなく、日付もしっかりと。そして、その日付は、僕が最後に見舞いに行ってから、割とすぐだったいうこともわかった。
最後に老人ホームで会った祖父は、かなり認知症が進行しているのがわかった。また、老人ホームに入所するきっかけは、脳梗塞による(左半身か右半身どちらか忘れたが)麻痺だった。発せられる言葉も、僕にはうまく聞き取れなかった。まず僕を孫と認識できていたかも定かでない。ただ覚えているのは、最後に老人ホームの職員に撮ってもらった写真だ。その写真はもう手元にない。それでも、祖父がピースして微笑んでいた姿は、未だに記憶として残っている。
そのときから、約2年ぶりの岩手だった。お寺は盛岡駅からバスで約15分の山の麓にある。墓はすぐに見つかった。2年間、色々あったといえばあったし、なかったといえばない。しかしながら、今回が、岩手と墓と祖父とを、最も身近に感じられた。
墓参りのついでに、お寺で観ておきたいものがあった。五百羅漢である。五百羅漢とは、煩悩を払って修行の最高位に達した仏陀の弟子500人を指し、その功徳を授けられた像のことらしい。拝観料は300円と手頃な値段だった。
いざ目にした500の仏像は、皆それぞれ異なる笑みを浮かべていた。そして思った。「この中におじいちゃんも居そうだな」と。最後に老人ホームで撮ったフィルムの中の笑みが、500分の1の確率で見つけらそうな気がした。宝くじに当たる確率より、雷に当たる確率より、ずっと高い。それでいながら、いつまでも合掌していたくなるほど、尊く感じられた。
祖父とはもう会えない。けれども、さっきも述べたが、今回の墓参りが祖父を最も身近に感じられた。長い別れが、ひとりでないことを教えてくれた。
それは「しょうたろう」という名前の自覚に加え、「うちざわ」という苗字の自覚も強固になった証のように思う。他人といるときでも、ひとりでいるときでも、僕は「しょうたろうという名前」でなく「しょうたろう」という存在なんだという自覚が前々からあった。しかしながら、上の名前に関しては「うちざわという苗字」である認識が強かった。ここに生まれたからには仕方ない、法律上としての認識が。それが、たぶんだがここ数年で、徐々に徐々に「僕はうちざわ」なんだという、苗字が自身の存在そのものであるような感覚へと変化していった。
それはやはり、感謝によるものであると思う。岩手のお墓には、祖父の名前以外にも、うちざわの血を継いだ人の名が数名あったが、ある人は25歳で、またある人は5歳で他界していた。僕自身はすでに、この二人の年齢を超えている。そう考えると、僕が今日まで生きてこれたのは、本当に運に恵まれていただけなのだという実感が湧いた。時代によっては、もっと若くして亡くなっていたかもしれない。
すると、頭の中で、生まれてきたことに対する使命を探している僕がいることに気づいた。それは、僕個人としての使命というより、僕の生まれる前から存在していた「うちざわ」としての使命だ。僕ひとりで出来ることなど、たかが知れている。そのことは、ここ数年で痛いほど味わった。それは決して悲観的になったわけでなく、他者と支え合いながら生きていくことの悦びを知ったという意味でだ。
これからは、おそらく出会いの数より、別れの数のほうが増えていくだろう。その形もきっと色々ある。しかしながら、祖父の死でいうなら、僕は、祖父が亡くなってからしばらくは祖父が生きていると信じていた。また、お墓にその名を見つけてから、より祖父の存在を身近に感じるようになった。だとしたら、別れはあって然るべきだろう。いまの僕はそのように考えている。
そして、その場所に立って矢印を出会いに向けてみたらどうか。いまの自分にできることで、目の前の他者と接していくしかない。そう思った。
別れによって、よりつながりを強く感じられるような生き方をするには、どうすればいいのか? その道を探求していくことが、僕自身の使命な気がしている。