日常に転がる物語
僕はジムに行ったことがない。なぜなら体重を経験上、自分で管理できると思っているからだ。また、筋肉を増強したいという思いもない。一度モテたいが故に、意図して食事量と自主トレーニングの量を増やしたことがある。結果、個人的適正体重からプラス5キロ増えたが、それ以上はなかなか行かず、何より身体が重くなったことで全身の感覚が鈍くなった気がした。だから、再び個人的適切体重に戻した。その際も、すぐに体重は戻った。そして、20代後半になっても、10代と変わらず体重の著しい変化がないことに気づき、おそらく自分はダイエット目的でジムに行かずに人生を終えるだろうと思った。
細谷功さんと佐渡島庸平さんの共著『言葉のズレと共感幻想』を読んだ。
本書10章『物語の近未来』を読み、ジムに行くごく一部の人は、途中からジムに行くことに囚われてしまっているのかもしれないと思った。
ここでの対象はジムでなく本だ。そして、僕自身、まさに本に囚われていたことを、つい最近認知した。最近というより一年くらい前からモヤッと見え始めていたものが、ゆるやかに実感に変わったといったほうが正しいかもしれない。
しかしながら、それを実感として得たのも、やはり本だった。アーシュラ・K. ル=グウィンの『ゲド戦記』である。
『ゲド戦記』では本よりも抽象的な「言葉」そのものに囚われていた気づきを得た。だが言葉を具体化すれば、それは本となる。あたりまえのことだ。それでいながら、僕はそのあたりまえに気づけなかった。子供の頃から好きだったがために、囚われの身になっていた。
本に囚われていたことを本から知った。
たぶん僕はまだ認知しただけで、囚われの状態だろう。ただ距離感のようなものは以前と比較し判別できるようになった気がする。
「物語は、わざわざ本で読まなくとも、よーく観察すれば日常に転がってるんだよ」
そんなことを『言葉のズレと共感幻想』は、投げかけてくれた気がする。
ここでの物語は、俗にいう出来事ベースのエンタメと別で、感情の機微を描く作品だ。本作でも「感情の流れ」に関して触れられているが、それは日常にたしかにありながら、微細な波である故に気づきづらい。例えば、先日こんな気づきがあった。
僕が定期的に足を運ぶ喫茶店がある。そこは初めて入ったときから居心地の良さを感じた。回数を重ねることで店に馴染んでいくことはあっても、一回目から好きになれる感覚はなかなか味わえない。僕にとって貴重な出会いだった。
先日行ったときは、ちょうど10回目くらいだろうか。店内に設置されたBOSEのスピーカーをみてふと思った。
「そういえばここでイヤホンしたこと一度もないよな」
僕はだいたい一人で外出する際に、イヤホンで音楽かラジオを聴いている。その事実に別段意識を向けたことはなかったが、喫茶店のスピーカーをみたことでハッと気づかされた。
「もしかしたら僕にとって居心地の良い空間は、イヤホンのいらない空間かもしれない」
そこからさらに問をたてた。
「じゃあなんで僕はこんなにもイヤホンで常日頃、音楽やラジオを聴いているのだろう……?」
僕なりにたてたそのときの仮説は、雑音から逃れ、さらには孤独から逃避するためだった。
そんないつもいつも音楽やラジオを欲してるわけじゃない。それほど娯楽に飢えてるわけでもない。ただ、自宅から離れれば離れるほど、耳に入る音が、複雑に入り混じるように感じ、それをストレスという幻想として解釈していた。するとコンビニのレジなどで発する「これください」といった僕自身の些細な一声が、それらの複雑に入り混じる音よりも浮いた音となりこだまする。そして孤独だと感じた。
だがそんなストレスや孤独という感覚は、所詮僕自身の感情から生み出した解釈にすぎない。幻想にすぎない。そう思った。
本書を読んだことで僕自身が何に囚われ、何に囚われてないか、以前よりメタ的に認知できた気がする。僕の大きな囚われは、おそらく本だろう。
これからも読みたい本は、読み続けていきたい。だが、本は諸刃の剣であって、魔法なんかではない。魔法かもしれないが、魔法だからこそ、それは幻想ともいえる。
今後、どんな名作と呼ばれるものでも村上春樹の『風の歌を聴け』に書いてあるように、スパゲティを茹でながら読むくらい、気楽な感覚で手にしようと思う。
また、イヤホンを雑音と孤独からの逃避手段にしないことも決めた。しばらくイヤホンで聴くのは、クラシックやジャズ等の「言葉」のない音楽のみにしてみようと思う。歌い手のいる曲は、メッセージ性を感じやすいため、いまの僕にとっては物理的距離を保ってくれるスピーカーが丁度いい気がする。
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