
【スイクラ】真相√ 感想考察
共通・真相√について。最後まで楽しむことのできる、深くて美しい作品でした。
⚠️ネタバレを含みます。
【人畜無害の常識人】
♔ 真井知己 ♔

♡ルートテーマ:不思議の国のアリス、ヘンゼルとグレーテル、聖書、ギリシャ神話
♡スイーツ:ビスケット(柔和温順)
スイートクラウンは愛することと生きること、もっと言うと食物連鎖とアイデンティティの確立、自立するということ、そして近親相姦についての物語だったのではないかなと感じました。
【人畜無害の常識人】?
真井知己と樫野知也は、個人的には肉体は同じ別人であると捉えています。とは言っても、地続きの存在ではあるのですが……。5年前、白樫の森で記憶を失った時点で、知也は一度自我だけの存在になります。それまで柘榴ちゃんに求められる弟として生きてきた知也が、ゼロから一人で生きた未来。それが真井知己としての人生なのではないでしょうか。彼らを同一人物とするか否かは、何を持って人間を定義するかに依るので、人によると思います。
選択によって未来が変わる、という通説にあるように、一地点の分岐によって世界が多岐にわたっており、自身が居るのはそのどれかである、と定義するのなら、同一時空に存在するはずのない二人の人間、ifの存在としての知也が、知己であると考えられます。選択肢によってエンディングが変わる乙女ゲームだからこそ、今回はそのように考えました。
これは久瀬蒼馬と密原宗助について考えたとき、一度魂だけの存在となり肉体が別人になったとしても自意識や価値観は変わらない、と考えたため同一人物であると定義したので、その逆パターンなのですが、どちらも地続きな存在であることには変わりなく、難しいですね。
また、こちらはプレイヤーとしてある種第三者的な視点から見ている物語なのでそう考えられるだけで、実際に自分が柘榴ちゃんだったら……。やはり、目の前に死んでしまったかもしれない弟である可能性を持つ人が現れたら、縋ってしまうと思います。柘榴ちゃんにとっては、希望の体現者だったでしょう。
真井知己は己を律する人です。知己として柘榴ちゃんに惹かれていても、彼女のためなら自我を殺し、弟になりきることを選ぶ。それが自分の首を絞める行いだとしても。久瀬くんが生まれてきたときの価値観に通ずる気がして、何とも切ない愛し方です。
一方知也は、柘榴ちゃんに迫ります。自分は知己と同一人物だと主張する中で、「真井さんとしての記憶はあるけど僕は知也だよ」と「真井さんの家族は僕の家族じゃないから関係ない」は真井=自分であるという前節と矛盾してる、と遠回しに指摘されていますが、聞く耳を持たない。というのも、彼にとって樫野知也は、ある一つの目的のための存在に他ならないのです。
人間球体論
「そうして彼はどんどん歪んで行って……君的には『好ましくない感情』を君に向けるようになった」
「君が現実から目を逸らしたくなるような、そしてく記憶の改竄>を行ってまで彼との思い出を綺麗に消してしまうような」
「......いやあ、君にとっては『改訂』かも知れないが、彼にとっては『改悪』だったろうねえ」
樫野知也は、樫野柘榴の二人の弟。柘榴に求められるままに尽くし、柘榴に認められる存在として生きてきました。その結果、「好ましくない感情」を向けるようになってしまう。共通ルートのなかでプラトンの人間球体論について言及されていましたが、二人で一つだと主張する彼らはその考えを受け継いでいるように思えます。
けれど柘榴ちゃんは、知也から向けられる感情を受け入れられない。残酷な物語を勝手にいじくることの失礼さを、改悪と評していた道化師の伏線が回収されます。改悪を行っていたのは、他でもない柘榴ちゃん自身だったのです。
愛するということ
「僕は家族愛や友愛、隣人愛などの種類には言及していませんよ。あくまで男女の間の“愛”についてです」
「ならば行き着くところは全て一緒でしょう。
“特殊な状況”を除けばプラトニック・ラブなんて存在しない」(日之世)
「じゃあ...…プラトニックな愛はどういう時に
発生するの?」(真井)
「自己を犠牲にする時です」
「あんなものは存在してはならない。誰かの為の自己犠牲が、どんなに愚かしいことか。……ただの自己満足でしょう」(日之世)
スイートクラウンにおけるプラトニック・ラブは、自己犠牲による無償の愛。けれど自己犠牲を良しとはしません。それは、愛するものを残し、傷つけることだから。残された側の考えによって、自己犠牲へのアンサーを示します。
柘榴ちゃんも、密原も、日之世くんも。結局、生き残った側は苦しんでいるのです。
「生きる上での人との適切な距離」では、ラズによって柘榴ちゃんが人を愛せない、人からの愛情も感じられない理由が顕になります。彼女は、『人を信用出来ない』のではなく、『人を信用する方法
が分からない』のです。
これは幼少期に育った環境に由来します。本来親から与えられるはずだった無償の愛が無く、彼女にとって弟と自分だけが世界だった。そしてその弟は、彼女に求めらる弟でした。そんな弟から向けられる感情が、自分と同じ類のものではないということに、彼女は向き合えません。恋愛も愛には変わりないのですが、それは信じられないのです。というか、自分自身すら信じられない。
劇のシーンでは、オフレンダたちがそんな彼女に無償の献身を捧げる様が印象的でした。
そんな彼女とは対象的に、樫野知也は弟であることから抜け出そうとします。それは知也としてアイデンティティを確立し、自立することであり柘榴ちゃんと二人で一つ、ではなくなるということです。柘榴ちゃんに求められる弟ではなく、一人の男の子として生き始めたのです。
廃忘する半身の憂い
美しくも切なくて、とても綺麗な曲。『廃忘する半身の憂い』とは、深愛エンドのことでした。
敢えて「廃忘」という単語が用いられているのは、ただ忘却するという意図ではなく、自立した知也に狼狽える柘榴ちゃん、という意味も含まれているのでしょうか。
「閉じ込められて、腐って濁った水の中で一生だろ?……そんなの嫌だよ」
スノードームの人形を大切にする柘榴ちゃんと、その不自由さを嘆く知也。知也の現状から動こうと藻掻く心情が伺えて、胸が締め付けられました。彼はスノードームの外に出たかったし、それを仕合せだと感じたのです。
けれど、それは柘榴ちゃんの望むところではない。
二度と離れないように閉じ込める必要も、動き回らないように足枷をつける必要も、
全ての心配をすることがなく。ずっと私の側に……そう、私は願っていた。
知也と私、二人だけの世界を。
歪愛エンドでは、柘榴ちゃんの願いが叶います。『夢にまで見たスノードームの世界で、彼と二人ずっと仕合わせに暮らしていける』。柘榴ちゃんだけが仕合せな、二人で一つのエンディング。
まさに歪愛の終焉です。
物語を通して、柘榴ちゃんは信じることにも愛することにも後ろ向きです。そもそもやり方がわからないのですから、それも仕方ありません。そんな彼女が唯一、心の底から願い、自身を捧げる行為が自喰と表現されるのは面白かったです。自己を犠牲にして、自分が満たされる。彼女らしい行動ですね。
「生きる」までの物語
「無理だよ……皆、知ってる……皆の顔、覚え
てるのに……喰べられない……」(柘榴)
「もし知らなかったら喰べられるでしょう?」(知也)
SweetClownでは、生きることは食べることであると示されました。上記のシーンは明らかに食物連鎖を隠喩しています。
作中で、生きているものは動いているもので、動かないものは死んでいる、という定義が明言されていました。八尋ちゃんのお墓や、スノードームの人形です。
序盤までの柘榴ちゃんも、思考を放棄して停滞し続けていました。スイートクラウン城は夜だけとなり、知也は5年前から知己となったため、知也としての時は止まっています。貴種流離譚としての竜宮城のような永遠性は、即ち時の止まった死者の世界(冥界)であることの現れなのです。
だからこそ「動き出す」=「生きる」までの物語が描かれました。「生きる」うえで不可欠な食物連鎖を受け入れるのが人間で、人ではないスイートクラウンはお菓子(生きていないもの)しか食べられません。
古橋√で示された、願いを叶えた人間を喰べるのではなく、魂を別の身体に入れて生まれ変わらせるという下りもここへ通じています。スイートクラウンが食すお菓子は、魂の入っていない抜け殻で、動かないものなのです。
樫野柘榴、という名前も、「樫野」はお菓子と白樫のダブルミーニングではなく、「仮死」の意味も込められていたのではないでしょうか。停滞を選び、動くことのない、仮死の柘榴ちゃん。これは、そんな彼女が動き出すまで、生きるまでの物語なのでした。
総評
とても面白いゲームでした。シナリオはいくつものモチーフが練り込まれ、何度も考察しながら楽しむことができます。
また、物語としての美しさだけでなく、一人一人のキャラクターの心情や価値観の違い、選択の多様さも興味深かったです。このキャラクターなら、あなた(プレイヤー)なら、何を持って愛とし、生きることを選ぶか、死者の世界で永遠を愉しむのか。
乙女ゲームとしてだけでなく、シナリオゲームとしてプレイした方にぜひ意見を聞きたくなる、緻密で素敵な作品でした。