コンセプトはあっても言わない
(もしくは、コンセプトで語られるのは、別の物語)
結局のところ、求められるのはアイキャッチであって、うんちくではない。
おしゃべりが得意な人は、話術で商売する方がよっぽど効率的である。
抽象的な形や素材の美しさを建築やデザインに明け渡してしまい、アートに求められるのは、純粋な美しさというよりなむしろある種の「違和感」なのかもしれない。美味しいものばかり食べている人がたどり着く癖のある味であり、美しいものばかり見て疲れた人が探す心地よい不気味さである。
批判を恐れず、権威に屈せず、自分の思ったことを言うのは難しい。
そもそも、そんなこと誰にも求められていない。
普段我々は、和を尊び、事勿れをモットーに、忖度とシガレットトークを日々の業務としてこなし、傷つけず、傷つけられず、皆んなに「でくのぼー」と呼ばれるような、立派な人になるように日々心がけている。
現実逃避を求め、変え難い現実や、受け入れ難い真実から逃れるために、ファンタジーに癒しを求める。
名作と呼ばれる本を読んでも、心に残るのは一部分だけだったりする。
人は聞きたいことしか情報として認識しない。
それ以外は防衛本能によるATフィールドの影響によりノイズと判断され、自動的に遮断され、心に届くことはない。
だからこそ、人は自分の心に響く表現を「自分で」見つける必要がある。
自分で見つけてもらう為に、作家は一言で言えてしまうテーマを何百ページにも及ぶ小説にする。
鑑賞者が何かを見つけるためには時間が必要になる。
ビデオアートやアートツーリズムの成功はこの時間の使い方によるものが大きい。
そこで鑑賞者が見つけるものは作家が意図したテーマではないかも知れない。
しかし、それが様々な解釈を生み、作品に意味を与える。
良い作品は公案のように、様々な解釈を許容し、探すものに答えを与える。
速読をする人たちは、多くの本を飛ばし読みすることで、あらすじ以外に何かを見つけることができるのだろうか?
安易な答えを求められ、情報として消費されることに、どのような意味があるのだろうか?
だから、若い作家の皆さん。
コンセプトはあっても安易に言ってはいけない。