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障害者の私が「パラリンピックだけ中止は、アリかな」と思う理由

 新型コロナの感染拡大が止まらない中で東京オリンピックが開始され、感染拡大がさらに深刻になる中で開催され続けています。そして昨日今日、パラリンピック中止の可能性が取りざたされるようになりました。

 私自身は中途障害者です。運動は得意ではないけれど体を動かすことは好き、健常者時代から下手の横好きでスポーツをいろいろとかじってきました。狭い障害者の世界ですから、「知り合い」「知り合いの知り合い」あたりにパラリンピアンが何人かいたりします。

 でも今回、パラリンピックが中止となったとしても、「やむを得ない」と思っています。生命や健康や安全に優先するスポーツイベントがあるわけはありません。

障害者多数の訪日に対応できるのか?

 新型コロナ感染症さえなければ、障害者多数を含む選手団や関係者、そして観客の訪日は、障害者をめぐる多様な理解を国内国外で深める好機だったと思います。しかし2021年7月が終わろうとする今、東京を含む関東地方は、過去に経験したことのない感染拡大と医療資源の逼迫に直面しています。そしてこれから、五輪を避けて東京を脱出した人々が、各地で感染を拡大させて東京より深刻な事態を招く可能性もあります。なにしろ、もともとの医療資源が東京に比べて少ないわけですから。
 さらに国外から障害者多数を含む来訪者がやってくると、不足している資源がさらに不足するのは明らかです。

そもそも障害者を前提としていない日本の医療

 医療は、「医療である以上は障害者のアクセスを拒まない」と考えられています。しかし日本の場合、そうではありません。

 2014年、日本は国連障害者権利条約を締結しています。9条「アクセス」には、障害によって何かにアクセスできないことは障害者差別であることが明記されています。この「アクセス」は、実際にそこに行けるという物理的なアクセスだけではなく、障害のない人と同様に情報が得られてコミュニケートできるということも含みます。日本は条約締結国として、他の障害者差別と同様に、アクセスにおける障害者差別もなくさなくてはなりません。

 でも2021年現在の日本では、入り口に段差があったり階段しかないビルの2Fにあったりする医院が、まだ珍しくありません。古い建物をいきなりアクセシブルにすることは極めて困難ですが、国の助成金で代替手段を確保させることくらいは可能でしょう。しかし、「それくらいは充分に行われている」とも言えません。というわけで、実質的に障害者のアクセスを阻む医療が少なからず存在します。

 急病や負傷で救急搬送を必要とする場面にも、同様の問題があります。たとえば日本の一般的な救急車は、車椅子族を前提としていないサイズです。救急隊員が「なんとかしたい」と思っても、患者を車椅子ごと乗せることはサイズ的に無理ゲーなのです。折りたたみできるタイプの車椅子なら問題なく乗せられますが、それは車椅子族にとって「当然の車椅子」ではありません。スーパーにさえ備え付けてある折りたたみ式(1945年フォールディングタイプ)の車椅子は、一日の多くの時間を車椅子とともに過ごす人間にとっては、身体を痛めつけて体力気力を奪う代物です。
 車椅子の重量が100kg程度、横幅や奥行きが一般的な車椅子と同程度なら、何人かの救急隊員が頑張って無理やり一緒に乗せることも可能かもしれません。でも、「なんとかなる」車椅子ばかりではないのです。車椅子族の「マイ車椅子」は、その人の身体や障害に合わせて作られたり調整されていたりします。狭すぎる救急車や、エレベータも車椅子昇降機もない鉄道の駅などに合わせて作られているわけではありません。身長や体重や顔の美醜や思想信条などを理由として救急搬送を拒まれることはありませんが、障害によって実質的に救急搬送が困難になることは、実際にあるわけです。

障害のある外国人訪日者には、無事の滞在と帰国さえ難しい

 外国人訪日者の中には、当然、日本語でのコミュニケーションが困難な人が含まれます。日本にそれなりの人数の話者がいる外国語(中国語・韓国語・英語・ポルトガル語など)を除くと、外国語に対応するだけでも困難でしょう。
 さらに、障害のある外国人訪日者に対しては、障害に対応した外国語コミュニケーションが必要になります。聴覚障害者に対する手話、盲ろう者に対する触手話、それらの各国バージョンとなると日本は「お手上げ」ですが、各国や選手団は異国での大舞台に備えて通訳を同行させます。パラリンピックへの参加と競技だけなら、同行した通訳さんで充分でしょう。

 でも現在の東京は、万が一の新型コロナ感染や発症を恐れなくてはならない状況です。いつもの通訳さんが救急車に同乗同行できなかったりすると? 入院時に付き添うわけにいかなかったりすると……?

 当然起こりうるシチュエーションです。でも、日本政府や日本の五輪関係者が「なんでも対応できます!」という状態で準備しているとは思えません。その上に、たとえば車椅子利用者に対しては、「マイ下半身と一緒に救急車に乗れない」という事態が起こりえます。1945年、戦争のせいで多数の戦争障害者が生まれた状況をビジネスチャンスと捉えた業者の発明だった、大量生産できて折りたたみできる車椅子を未だに「標準」扱いしている日本のレベルが、そんな形で問われてしまうのです。パラリンピック開催の前に解決されているべき問題でしたが、解決されないまま今日が来てしまっています。

 ともあれこの状況下で、安心できる滞在と競技参加、そして無事の帰国を約束できますか? 無理でしょう。

パラリンピック中止となったら選手の気持ちは?

 どうしても気になるのは、せっかくパラリンピック代表に選ばれたのに大会が中止になってしまう選手の心情です。そこは私も大いに気になるところではあります。それで人生が変わってしまう選手もいるでしょう。1980年モスクワ五輪が中止された時のように。

 でも、2020年だった予定が1年延期されただけで参加を断念しなくてはならなかった選手は、日本にも国外にもいます。選手として活躍できる年齢になっている方々は、どうしようもない不可抗力の事情があることくらい承知でしょう。「自分のパラリンピック参加は、誰の生命よりも人生よりも尊い」と心の底から思っている選手は、たぶんいないだろうと信じたいです。

日本に結果として「障害者差別」の汚点ができる可能性は?

 いざ「オリンピックは実施、パラリンピックは中止」となると、日本政府やIOCには「明白な障害者差別をした」という実績ができてしまいます。 もちろん、パラリンピック中止となると、障害のあるアスリートにとっては、実際に差別となります。責任ある方々や組織には、「なぜオリンピックだけ良くてパラリンピックは悪いんだ」という怒りは覚悟していただく必要があるでしょう。

 日本の根深い障害者差別、解消のために取れる方策をほぼ取っていない日本政府のこれまでを考えると、「パラリンピックだけ中止」で何か変わるのかという気もします。国内外の認識は、日本で障害者差別が解消されていないことに関する「ダメダメダメダメダメ」という評価が、「ダメダメダメダメダメダメ」になる程度。大して変わらないでしょう。IOCも、あらゆる人々が幸せに生きることを志向している組織と考えられているわけではありませんから、大した傷はつかないでしょう。
 私は「元がひどいから、大した汚点になりませんよ。その点は安心してください」と申し上げたいです。そして、メンツやカネに左右されない、生命と健康最優先の現実的な判断をしてほしいです。

 そもそも、パラリンピックを中止したら障害者差別になってしまうのは、オリンピックを開催してしまっているからです。せめて「オリンピック閉会式は中止」というわけにはいかないのでしょうか。そうすれば、「オリンピックを途中で中止したから、その流れでパラリンピックも」という最低限の言い訳は立ちます。

 とは言いつつ、たとえば私が国際的に日本の障害者差別の状況を訴える時、「2021年、パラリンピックだけ中止されたし(中止論が出たし)」といった事実は、日本の障害者差別の実態を訴えるために使わせていただくでしょう。

そもそも2020東京五輪を当てにしたもろもろが間違っていたのでは?

 東京が五輪誘致活動を続けていたおかげで、公共交通機関のバリアフリー化は、それなりに進みました。「2020年五輪」「2020年パラリンピック」という大義名分がなければ、ここまで進むことはなかったでしょう。そういう大義名分がないと、「なぜ障害者のためにだけ」という反発に抵抗しきれなかったでしょう。

 五輪のための施設などを整備するにあたっては、障害者の意見が幅広く取り入れられました。事実として、五輪は障害者の社会参加を進め、障害者の地位を高めています。「どこの、どの障害者?」という問題はありますけど、「障害者でも○○できる」という実績には、それなりの価値はあります。

 でも五輪がなくても、「公共」と名のつくものは障害者差別をしないように変化してこなくてはなりませんでした。五輪がなくても、障害者は社会の一員として当然のこととして社会に参加し、社会のさまざまな場で障害のない人々と同様に価値ある存在として居場所を確保し、少数者ですから多数決では絶対的に負けるという状況下で、自分および自分と似たところのある少数者の権利を主張することを通じて社会の全員を幸せにしつづけるものと認められているべきでした。

 「国や産業界や有力政党が積極的になり、巨大なお金を動かしているから、そこに乗っかって障害者を少しは幸せに」という路線、意図的にトリクルダウンに乗る路線を、私は全面否定するわけではありません。でも新自由主義政策が続く中で、日本の障害者は自覚なく「これしかない」と思い込むようになってはいないでしょうか。

 私自身は、巨大な予算が動く巨大イベントがなくても、当然のこととして誰もが生きていける社会を目指し、そのために地道にできることをしていたいと思っています。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。