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愛され恐怖症〜自分から不幸になる人の心理
ここ数日間、毎日のように考えが変わり、自分で自分に振り回されているような状態だった。
今日は比較的一定だったけど、夜になってお米がないことに気がつき、急に不安になった。日曜日までもたないかもしれない。しまった。もっと早くリーダーにお願いしておくんだった。
お米が通常より早くなくなってしまったのは、ここ(私がいる施設)から他の施設にお米を分けたから。そのとき、「もうすぐお米が届くと思う」と言われたので、「こちらに分けてください」とお願いしてみよう。
しかし、今日はもう遅い。明日の朝、LINEでお願いしてみよう……と言っても、この場合は電話のほうがいいのだろうか? 問題は、私がいる施設だけ他の施設と離れているということ。
近くの作業場に通っている人がいるので、その人に届けてもらえるようお願いすることはできるのだが、明日は金曜日。金曜の朝、伝えたのでは、時間的に余裕がなさすぎて、迷惑をかけてしまうかも……と考えてしまうと、またぐるぐる思考に陥ってしまう。
お米がないならパンやラーメンを買えばいいではないか?と言われそうだけど、お金もないのだ。もうそろそろ生活費を支給してほしいけど、以前「自分から生活費がほしいというのって、◯◯さんだけですよ」と言われてしまったので、言い出しづらくなってしまった(他の人たちが実際どうなのかは不明。リーダーのこの手の話は、信用しないほうがいい)
考えても仕方がないので、まずはLINE。すぐにお米がもらえないようだったら、どーしよーかな?って感じ。月曜日にお米をもらえたら、ありがたいかな。
昨日のことでも、よーくわかったのだが、私は本当に「お願い」ができない。自分でもびっくりするくらいできない。頭を下げられない。ちっぽけなプライドが高すぎるようだ。そもそも、「これはお願いしていいこと」という判断基準がわからない。というか、「判断基準」と言ってる時点で、すでにおかしい。別に普通にお願いすればいい話なのだが。
私の中には、まだまだ「私なんかにお願いされたら、きっと迷惑だろう」「私はみんなに嫌われてるからな」という思い込みがある。それは思い込みですよ!
もし、万が一、本当に嫌われていたとしても、嫌いだからって、助けないような人たちじゃないでしょ?とも思う。こういう思い込みは相手にも失礼だ。
実は親切にされることにも、かなり抵抗がある。プライドというより、今回の場合は「恥ずかしい」かもしれない。人に親切にされたり、好意を持たれたりするのが、異様に恥ずかしいのだ。親切はともかく、好意を持たれるのは恐怖に近いものがある。心のどこかで「私は変な人なので、あなたを傷つけてしまうと思います。だから近づかないでください!」と逃げたくなっている。好意が負担になる。
……などということを考えていたら、登録したばかりのプロファイラーTatさんからのメルマガが届いた。
タイトルは「自分から嫌われようとしてしまう『愛され恐怖症』」
………たぶん、私のことだな。
「愛され恐怖症」とは
・幼少期の思い込みやトラウマのせいで「こうに違いない!!」と思い込んでいること
・それに向かって自分から進んでしまうから起こってしまうこと
この思い込みは大変厄介で、「不幸な思い込みを自分で”再強化”してしまう」
ことがある。
不幸な結果に自分から近付いていき、最終的にその不幸な状況になると
「ほら見たことか!!」
「ほらね!やっぱり私は@@なんだ!!」
と、さらに強く思い込むようになってしまう……らしい。
心当たりがあり過ぎるわ。
対処法は、「思い込みを自覚すること」
「愛され恐怖症」は、長年抱えてきたものなので、「無意識」「条件反射」な思い込みになっているので、なかなか気づきにくい。
しかし、一度でも自覚してしまえば
・普段はこうやっちゃうけど、これ思い込みだよな…
・今回はいつもと違う行動をやってみようかな。何か変わるかもしれないし…
というように、「愛され恐怖症」が起こってしまっている自分の思い込み(原因が分かれば、自分で違う道を選ぶ実験ができる。
先ほども書いたけれど、私は心の奥底で「私なんかがお願いしたら、絶対に迷惑だと思われる」と勝手に判断している。これでも2年前よりは、かなり自己受容が進んだのだけど、自己否定はまだまだ根深い。
根っこのほうには、やっぱり「女性として魅力がない」というコンプレックスがあるのだろうな……その原因もわかっている。やっぱり親からの言葉。親からの言葉って、本当に怖い。わかっていても、とりのぞけない。
もう一つ、「また怒られるのはイヤだ」という決めつけもある。「大人にならなきゃ」という禁止令もある。
Tatさんのホームページ↓
交流分析における「人間関係」に関する禁止令のうち
①他人に近づくな (傷つきたくないから人と関わらない)
②グループに属するな(孤独でいなければならない)
⑤愛着を感じるな(誰も自分を愛してくれない)
⑥他人と深く関わるな(他人と関わってはいけない)
この4つに完全に当てはまる。
対処法はやっぱり「自覚」と「変わる勇気」のようだ。
②にはびっくりした。というのも、ちょうど今日、ふとわかったからだ。私がここ(施設)になじめないというか、なんか私は違うのではないか?と感じているのは、むしろ「私はここにふさわしくない」とどこかで思っているからだ。
ここは外見的にきれいな人が多い。そして、みなさん仕事ができて頭がよく、人見知りな人もそれなりに交流していて、会話もソツがないように(私には)見える。
それにくらべて、私ときたら、若くもないし、きれいでもないし(しかし、自分の顔は好きになってきた)、頭もよくないし、仕事は何をやっても失敗続きだし(なんであんなに失敗するのか、自分でもよくわからない)、性格は悪いし、話もできないし……とどこかで思っているのだ。そして、ついでに言えば、「わかってるから許してください」という甘えもある。それもわかっているから、ゆる(以下略)……
「自分には精神的に問題がない→だからここにいなくてもいい」
と思っている部分もあるけど、「私は不細工なダメ人間である→外見的にきれいで、頭がよくて仕事ができて、未来に向かって進んでいる人たちの中にいる資格はない」と、どこかで思っている。「あなたみたいな人が来るところじゃないよ」と言われているような気がしている(思い込みです!)
だから、昨日のように仲間と会うと、防衛的になり強気になってしまう。
話が少し脱線してしまったけれど、私の中には「グループに属するな」という禁止令があるのかもしれない。
Tatさんの記事を読んで、少し救われた。
そして、「ああ、私はやさしくされたいんだなあ」と思った。以前も書いたけど、ここのカウンセリングは決してやさしくない。本当に頭の中が「???」でいっぱいになり、「自分ってダメなやつなんだなあ」と落ち込む(ことも最近はなくなってきたか。もう慣れてきた)
どうにも、自分で考えていた以上に、深刻な愛情不足状態にあったらしい。どのへんがポイントだったのかも、なんとなくわかっている。客観的にみたら、「そりゃ、他人が信頼できなくなっても仕方ないでしょ」とため息がでる。結構、大変だったな、私。むしろ、その状態でよく普通のふりができたな、私。
しかも、妙に気が強いから、その後も強気で押し切って、ここまできてしまった。強気で塗り固めてしまった。もっと弱気だったら(いや、私の強気は弱気の裏返しなんだが)、途中で崩れていたと思う
……なんか書いていて、「このまま強気で押し切る人生もありだな」と思ってしまった。それもそれでいいじゃないか。
どこかで読んだけど、誰かにやさしくされたいときは、自分への愛情が足りていないときなのだそうだ。まずは自分に愛情を注ぐことが必要らしい。
確かに私は、まだまだ自分を認めきれていない。どんな自分でもいい。許す。認める。受け入れる。愛する。そこからはじめよう。
他人のことは、それからだ(笑)
「本当に自分のことしか考えていない人なんですね」と言われた。別に傷つきもしない。たぶん傷ついたのだろうけど、傷ついていないふりをするために、「自分のことしか考えていない人」として、ここにいる。完全防備である(笑)。自覚はあるけど、鉄壁のブロックなので、本人にもどうしようもない。
そう思ったら、笑えてきた。
だったら、他人のことなんて、本当にどうでもいいじゃないか。私は何のために相手に気を遣っているのだ? あえて傷つける必要はないけれど、気を遣う必要なんかないじゃないか。そもそも自分のことしか考えていない人間ならば。
自分に愛情を注ぐ。
少し人の輪の中に入ってみる。だけど、長年ひとりが身についているので、無理はしない。根本的には、やっぱり一人が好きだから。
心のブロックは無理してはずさない。本当の本当に自分が愛情に飢えていて、やさしくしてほしいことがわかった。だから自分まで自分に負担を強いるようなことはしたくない。自分で自分を癒しながら、少しずつ外に出ていこう。
で、「自分にやさしく」
「お米と生活費ください! お願いします!!」と頭を下げること。
「お米がなくなりそうです。お願いします」と連絡だけして、「武士はくわねど高楊枝」を決め込む。どちらが「自分にやさしい」決断か? 自分でもわからないので、LINEだけして、なりゆきまかせ。
自分で自分の人生がおもしろくなってきた(笑)。笑いに変えようという防衛なのかもしれない。