
他者を信じるということ〜恐れ・回避型の愛着スタイルだった
現在ワケあって、シェアハウス的な施設で療養中…というか、自己改革中です。
前回noteデビューの記事で、「私は一人が好き」「自分を変えるのに疲れた」と書きました。
その後も色々あり、カウンセラーを兼ねているリーダーから
「自分の現実に向き合っていない」
「自分ひとりではどうしようもない状態になっていることを認められていない。まだひとりでどうにかしようと思っている。どうにかなると思っている」
「人を信じて、助けを求めることができない」
と言われました。
本当に困るのが、言われた内容には「そうなんだろうな」と納得できるんだけど、最後の「人を信じて、助けを求めることができない」こと。
わたし、そこまで助けが必要な状況なのだろうか? ひとりでやれと言われたら、やるんですけど?
となり、結局、「ひとりでもなんとかなると思っている」→「今まで、それをやってきて、どうにもならなかったから、ここ(施設)にいるんでしょう?」と言われることの繰り返し。
この会話は延々繰り返しているので、疲れました。
確かに助けてもらったほうが、楽にはなるんだけど、とにかく他人に自分をゆだねるのが怖いのです。
でも、この会話は延々繰り返しているので、疲れました(繰り返し)。とにかく「正解」と思われる「答え」を返さなければと思い、「助けてください」と言ったわけなんですが、全く心がこもっていない。相手が望んでいると私が感じた答えを言っているだけ。
リーダーもわかっていて、「やっぱりね(わかっていない)」な感じに。
だけど、嫌なんだよなあ。他人に自分をまかせるのが……というか、これも私の受け取り方なのかもしれないけど、リーダーの「自分の考え方でうまくいかなかったことを認めて、他人にゆだねなさい」的な言い方にものすごーく抵抗を感じる。
シンプルに考えると、リーダーは「自分ひとりで頑張ろうとしないで、助けを求めたら、もっと楽に生きられるじゃない?」と提案してくれているわけなんだけど。
受け入れたくない気持ちの奥底には、「恐れ」がある。
なんかひどいことされるんじゃないか?的な。結局、他人を信頼できないでいる。
しかし、残念なことに……といいますか、リーダーは唯一、私が信頼している人だったりします。安心してなんでも話せる人ではないけれど、アダルトチルドレンの私が、「この人には何を言っても大丈夫だろう」と感じている人。
2年間、施設にいて、いろいろありましたが、「受け止めてもらっている」感はとてもある(共同生活している仲間に対しても、少しずつそういう感覚が芽生えつつある)
そして、自分も「よい方向に変わってきている」という感覚を得ている(先日の「もう変わろうとすることに疲れた」を含めて)
ということは、恐れず、信じていいのではないだろうか? その結果どうなろうか、受け入れるしかないわけだけど、彼が「利用者の回復」を願っているのは、確かだと思う。
とにかく、現実的に施設を出ることは不可能なのだから(いろいろな理由があります。いずれ書いていきます)
こう書くと、とてもシンプルだ。
捨てるのは、自我とプライド、「ひとりでもやれる」という過信なのかも?
残念ながら、私はまだ腑に落ちていない。その場を丸くおさめるために「リーダーを信じておまかせします。ここにいさせてください」とは言ったけれど。
だけど、言ってしまったのだから、あとは何を言われても受け入れるしかない……というのも、私の受け取り方が歪んでいるのだろうか?
ほかの利用者さんは、なぜ、彼の言うことを素直に受け入れられるのだろうか?
私は「自分の人生は自分で決めたい」という気持ちを捨てきれないまま、施設にいるという中途半端な立ち位置。
よくよく考えると、ものすごくイヤなことをされるわけではない。ハードな作業にまわされる可能性もあるけど(そういう人もいる)。
一番イヤなのは、ほかの利用者との共同作業だったりする。
協力とかめんどうくさい。
ひとりでやりたい。
うーん。組む相手にもよるかな。
ものすごーく、イヤな気分になる(相手もそうなのかもしれない)
ごめんなさい。
正直吐き気が…。
まあ、「信じておまかせします」と頭を下げたので、あとはなりゆき。いろいろ考えても仕方がない。
リーダーとの話を終えたあと、ふと「愛着障害」について調べてみたくなり、検索してみた。
わたし、完全に「恐れ・回避型」です。
人との深い関係を求めていないわけじゃない。だけど、傷つくのが怖い。
「安心できる居場所づくり」がたいせつらしい。わたしは、それを自分の中に求めたい。その上で、人との境界線を意識し、協力し合える関係を構築していければいいと思う。