祝福について【エルデンリング考察③】
エルデンリング本編のネタバレを含みます。御理解の上、お読みください。
「祝福」が指すものは2種類ある
ゲーム内で語られる祝福には、2種類ある。
狭間に居る者が瞳に宿す「祝福」(以降も祝福と呼称)と、
プレイヤーが休息地点として活用する篝火的な存在の「祝福」である。
この2つを区別するために、瞳に宿す「祝福」を以降も「祝福」と呼び、
篝火的な存在の「祝福」は以降「導きの祝福」と呼ぶこととする。
祝福無き褪せ人よ
また、プレイヤーたる褪せ人に与えられたものはかつて失った瞳の「祝福」そのものではなく、篝火的な祝福とそこから伸びる導きである。
褪せ人の眼の色はキャラメイクで自由にできること、ケネス・ハイトに褪せた瞳と見なされること、殆どの紹介映像で褪せ人に「祝福の導き」がもたらされると語られていることが、それを裏付ける。
その割にオープニングで思いっきり「失われた祝福」がもたらされたと語られているが、この祝福は「導きの祝福」である。
その証拠に、オープニングの褪せ人を描いた絵には何れも、小さな導きの祝福が描かれている。
人々の瞳に宿ったという祝福の効果
結論から言えば、祝福とは人を人たらしめるモノだと考える。
以降その根拠となる事象を列挙する。
人は五本指で、鳥は四本指である
五本指は、獣たちに贈られた知性の象徴であるという
祝福無き忌み子には、角や尾が生えてくる
亜人たちは獣と人の間の子のような見た目をしていて、その瞳は赤く光る瞳が赤く光ることから、亜人は祝福されていないと推測される。
亜人の知性は低く、卑しき者である
混種たちは、「穢れ者」で、生物の諸相が混じり合った身体を持つ
人造生命体である写し身の雫は何にでも変化できる
(アルバスやラティナなどの歩けないしろがねを第一世代だと仮定して)
歩行可能に進化したしろがね人第二世代は第一世代に比べ、人らしからざる姿をしている
黄金樹へ弓引く冒涜のライカードは人の姿を捨てた
ライカードが率いる火山館では異形の子らが生み出されていたこと
祝福を宿した者は、エルデンリングが砕けて正気を失った
祝福を失って尚狭間の地に有り続けた者の多くが人の姿を外れていること、冒涜を目指す火山館で異形の子らが生み出されていたことなどを元に、
黄金樹の祝福とは人を人の姿たらしめるモノだと推測する。
また、知性を増強し、獣性を抑え、理性をもたらす効果があり、
エルデンリングによってもたらされていたのだろう。
逆説的に考えれば、
祝福なしに人は人で有り続けられず、亜人や忌み子と化してしまう。
それは、狭間の世界の人が元々は獣で、
大いなる意志から贈られた知性によって人へと進化したからではないか。知ってるかい?人は皆、獣なんだぜ…
竜餐を為した者は、いつか人ではなくなる
竜餐を行うと眼が赤くなるが、
黄金の光を眼に宿す祝福が失われることを表現しているのではないか。
そう考えると、祝福とは人を人の姿たらしめるという仮説と合わせて、
竜餐を行い祝福を失った者の果てが土竜=人ならざる姿であることが説明できる。
「祝福」とは「火の封」だ
以降、過去作を元に考察を行う部分があります。
苦手な方はご注意ください。
前項で黄金樹の祝福とは人を人の姿たらしめるモノだと考察した。
だが、ダークソウルシリーズなどの旧作では
人らしさ=人間性によって人の形を外れた者が数多く登場した。
だとすれば、黄金樹に照らされ祝福を受けている狭間の地の住民は、
黄金所の祝福によって人の姿に固定されているのだと考えられる。
それは、過去作でダークリングに施された火の封と同じものであり、
神の枷と呼ばれたモノと同じ効果を施しているのではないか。
狭間を照らす光によって、人の本質たる闇=人間性が損なわれているのは、直感的にも筋が通る考えだと思う。
また、ダークソウル3で火の封へ抗う者は眼を覆うが、
同様にエルデンリングでも
祝福をもたらす黄金樹、大いなる意志へ抗う者は眼を隠す。
他にも、白い面で顔を隠したヴァレーや、永遠の都の夜巫女など、
顔を隠している者は多数確認できる。
これはBloodborneで上位者にならんとする者が瞳を求めたことと対照的だが、その話はまたいつか。
では、祝福なき者、人間性を持つ者は、
エルデンリングの世界で何を行ったのか……
考察④狂い火は罪の炎説へ続きます。
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