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バンバンバン谷口相生市長
パワハラの無い社会をめざした稲村和美・前尼崎市長の支持を表明した
兵庫県相生市の谷口芳紀(たにぐち・よしき)市長(75)の行為が、
「威嚇」「パワハラ」「後ろの女性がビクついている」などとSNS上で拡散され、特大のブーメラン。
稲村氏落選の主因とも言われて(稲村陣営)おり問題視されている。
「悪いやつを兵庫県から追い出して、新しい風を入れる人は誰や言うたら、稲村や!!」と述べ、前にあった机をバン!
とたたいた。その上で「私は少なくとも(斎藤氏は)県知事として、資格がないのではないかとも思っておりますわ」と述べ、再び机をバン!
横にいた別の市長は苦笑いの反応
谷口氏はさらに「何が悪い!」などと述べ、再度、机をバン!
相生市の秘書広報係によると、18日までに苦情の電話が約200件寄せられたという。内容は「普段からああいう態度なのか」「パワハラではないのか」というもので、この振る舞いについての谷口氏からの説明や対応は考えていないという。ド根性大根気分か?
相生市という人口約2.8万人の小さな自治体である相生市は市長のなり手がいない
1942年(昭和17年)10月1日 市制施行して相生市となる。
相生市相生の集落の一帯を、通称「おお=O」と呼ぶ。
1970年(昭和45年)40,657人
2020年(令和2年) 28,355人
非課税世帯が全体の約4割
姫路市への通勤率は14.9%、たつの市への通勤率は10.7%である(いずれも平成22年国勢調査)。
フェス
ペーロン祭:初夏5月に行う花火と長崎発祥のドラゴン船の競争を模倣したまつりがある。
相生市議会
輝相会 8
公明党 2
緑風クラブ 2
会派無所属 2
兵庫県議会
富山恵二
故・河本敏夫(政治家、元通商産業大臣)の出身地である。
実際は無関係とされるが、山陽新幹線「相生駅」は不要な政治駅と揶揄される。のぞみも停車する姫路駅から7分で到着する距離にある。(相生駅には緊急以外ではのぞみは停車しません)
谷口市長
2000年に相生市長に就任、以降、6回連続で無投票当選
谷口氏は、県内市長で最も高額所得を得ている。
谷口市長の年額給与は1169万円とされていますが、実際は4100万円を超える高額所得者。
神戸市長は、約1898万円です。
相生市市長 在職期間1年につき100分の406の割合で退職金が計算されます。
いつまで在職するか分かりませんが、退職手当は大金になることは間違いない。
さらに、市長等が退職した場合に、その者が特に市に功労があつたと認められる場合は、市議会の議決を経て特別に手当を加給することができる。(4条)
谷口相生市長は辞める時も「億り人」ですね。
NHKから国民を守る党の立花孝志党首はXに「相生市谷口市長に関するパワハラ以外のスキャンダル情報が来ました!」「真実ならば市長失職で、相生市で市長選挙が行われます!」と喜色満面で投稿。
立花氏は、稲村支持市長会22人全員に対して、市長選があれば対立候補を擁立すると言っている。
谷口市長は、失職してもおくりびと
既に高齢なので再選はないでしょう。
相生市の歴史
明治期までは瀬戸内海に面した典型的な漁村であった。
明治末期、漁船を作る程度の小さな造船所ができた。
住民らは「わしらのドック」と呼び、誇りにした。
故・唐端 清太郎(からはた せいたろう)
相生村(現・相生市)長、同町長、赤穂郡会議員、兵庫県会議員、同議長、同郡部会議長を歴任し、兵庫県水産組合連合会評議員、赤穂郡水産組合長、同漁業組合連合会理事長となる。また、神港肥料(株)社長、播磨船渠、神戸海陸運輸各(株)取締役を務めた。
大正4(1915)年、相生町長唐端清太郎は鈴木商店を訪ね「会社の買収と工場の拡張」を申し入れ、金子は川崎造船所の社長松方幸次郎等の意見を聞いて播磨造船の買収を決断する。大正5(1916)年4月、鈴木商店は播磨造船の事業を継承して「株式会社播磨造船所」を設立、膨大な資本を相生に投下し造船所の拡張を行った。
鈴木商店は海面を埋立て、造船工場・機械工場・発電所等を建設、播磨造船所は4船台を有する大造船所に成長する。工員は、買収直前大正5(1916)年3月の252名から大正8(1919)年12月には6,372名に増加し、町内各地に大規模な社宅街が建設された。
大正7(1918)年に入ると、播磨造船所は第8與禰丸・八重丸・與禰丸といった1万重量トン級の大型貨物船を相次いで建造した。
大正7(1918)年、播磨造船所と鳥羽造船所は帝国汽船に合併され、帝国汽船播磨造船工場、鳥羽造船工場となる。さらに、大正10(1921)年、両造船工場は神戸製鋼所に合併され、神戸製鋼所播磨造船工場、鳥羽造船工場となる。
鈴木商店経営破綻後の昭和4(1929)年、神戸製鋼所は播磨造船工場を分離独立させ、新生播磨造船所として再出発する。
以来、造船業は相生の看板産業として発達し、昭和30年代に年間の進水量で世界首位に立った。
播磨造船所、石川島播磨重工業など造船会社名は変遷を繰り返し、現在はジャパン マリンユナイテッド子会社のJMUアムテックがドックを構える。
第二次世界大戦後、大型船の新造が禁止され、一旦は町の灯が消えかかった
1951年10月18日の捕鯨船団の母船「図南(となん)丸」の進水式をきっかけに再び造船の町として歩み始めた。図南丸は、戦争末期、米軍の爆撃を受け、南太平洋の海底40メートルに沈没。眠っていたものを播磨造船所が引き揚げに成功し、ドックでの改修を担ったものであった。沈没した第三図南丸には完全な図面が残っておらず、実測で図面をそろえるなどした上、連日2000人超が昼夜を問わぬ突貫工事に従事し、クレーンの争奪戦が起こるほど現場は熱気にあふれていたという。
播磨造船所の年間売り上げの約半分を要したこの大事業での技術力は、国内外で高く評価され、「図南丸」と改名され、1970年まで日本の捕鯨を支えた。
JMUアムテック社の縮小化のために過疎化が進む。
相生湾坪根、鰯浜沖では、カキの養殖が盛んである。