陰鬱は悪か?
インスタを見ていると、定期的に病んでいるストーリーが上がってる。
陳腐な言葉で、繰り返し繰り返し。
フォローしてるのが、100人ちょっとの俺でも思うんだから、もっとフォローしてる人はもう見飽きてるはずだ。
確かに今のご時世は中々に厳しく苦しい。
特にインスタを利用する年代の子には余りにも暗い世界に見えるだろう。
減っていく収入、退屈な娯楽、贅沢できない貧困。
何かしようとすれば叩かれ、何もしなければ社不と思われる。だからその中間をうまい具合の匙加減で調整し、ノーマルの顔して、アブノーマルを秘める。
アンバランスさに辟易してしまうだろう。
病んで当然とは思わないが、病むのは抗えない気もする。
私も数年前までは、毎晩「死」を考えていた。
いつの時代でも、陽が正義、陰が悪。
陽を極めれば、世界は明るく、明るい未来。
陰を極めれば、死。
だからなるべく、陽を取り繕って、幸せをひけらかす。そうして地獄のこの世で保ってる。
でも、果たして陰鬱は悪なのか?
俺は、決してそうは思わない。
ただ使い方だと思う。
陰鬱だってことを認めて伝えれば、そこには仲間がいて、分かり合えて、手を組んで、誰かを救うかもしれない。
陰鬱なりの、幸せがあるかもしれない。
ただ、陰鬱をそのまま提供してはいけないとも思う。
陰鬱をそのまま曝け出すのは、ジャガイモを生で食えって言ってるようなもんで、工夫が要る。
食べやすく、フライドポテトにしたらみんなが美味しく食べてくれる。
どっちもジャガイモなのに、なんならフライドポテトにすることで身体に良くないものが増えてるのに。
それなのにみんな同じジャガイモをここまでかっていうくらい違うものとして捉える。
つまり、陰鬱も伝え方や表現を変えれば、それをみんなが楽しんでくれたり喜んでくれたりするわけだ。
私の敬愛する芸人さんたちもそうだ。
自分に起こった悲劇を、上手く組み立てて、トーンや熱量を工夫して、面白く話す。
辛くて暗い内容は変わらないのに、工夫するだけで、それが面白い話に変換される。
不思議なもんだけど、それが事実なんだ。
ただ、「陰鬱を言語化できるのは、それなりに立ち直っているからだ」という意見も確かだ。
本当に辛い時には、何も言葉にできず、地獄のような時間が過ぎる。
その時に救うのは自分ではなく、人だ。
だから自分が陰鬱になりやすく悲劇的なら、少しでも調子が良い時に防空壕を作っておくことが大切だと思う。
それは、家族や友達でも良いし、居なければふらっと入ったバーのバーテンダーさんでもいい。
その時の陰鬱を、加工せずに直接食べてくれる人がいるのが唯一の救いだと思う。
話して話して、するといつの間にか、ちょっとだけ救われる。
SNSにアップするのが救いなら、それもそれでいいけど、俺は悪手だと思う。
反応がなければ、もっと自分を追い込んでしまうから。
そして、全く関係のない人に不快な思いをさせてしまう可能性があるから。
その点、一対一で話せば、相手が全く自分に興味がなくてもラリーができる。私の話を聞いてくれる人がいると勘違いができる。
話された方も、話してくれてありがとうという気持ちになれる。これは確かだ。俺がそうだから。
だから陰鬱は悪ではない。
しかし取り扱い方を間違えると、悪になってしまう。
が、今の自分の答えかも。
もっと言いたいことがあるんだけど、今の俺にはここまでが限界。
まだまだ未熟です。
とりあえず煙草を吸います。
夜中のコンビニの灯りのそばで吸う煙草も救いだよ。