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書くことは”力”だ

ベッドと身体が融合して起きられない。
引き剥がすとまるで他の星にいるように体が重くて仕方ない。
気を抜けば身体が崩れてしまいそうだ。

精神疾病の経験のある人はよく知る朝の風景だと思う。言葉にならない悲しみに心も身体も支配されて、ただベッドの中で泣くしかできない日だってあるだろう。

薬の力を頼ってもいい。
ビール1杯に頼ってもいい。

でも、孤立無援だとしたら。何が私たちを救ってくれるだろう?


最近は児童虐待のニュースがよくテレビで流れるようになった。件数も増えているけれど、それは発覚されるようになったからで、今の大人たちの多くは親や教師から暴力を受けた経験のある人が多いのかもしれない。

ただ、それを”虐待”とは知らなかっただけで。ふとした瞬間に気づく人たちもいるだろう。気づいてしまってから、何か苦いものを噛み締めながらテレビのチャンネルを変えてしまう。

映画で描かれているほど子どもへの暴力は単純じゃない。
そこには”愛”が語られ、”正義”や”他人”が語られる。加害者は暴力を正当化し、被害者は暴力を受け入れることを正当化させられる。物理的な暴力でなくとも、精神的な暴力、言葉による暴力なら尚のこと、その支配関係は不透明で心を蝕むだろう。

子どもの頃に”叱られた”ことを思い出すと胸がキュッとなる。
亡くなった子どもたちの顔写真を見る度に、凄惨な話を聞く度に息が詰まる。

柔らかく小さな細い身体で子どもは親が与えるもの全てを受け止める。愛情も憎悪も。躾けられればなおのこと、応えるしかなくて、応えるほどに暴力はエスカレートしていく。

ある事件で亡くなった子は、手記のように多くの文字を書き残していた。自分の体調を記録したり、言葉を書き残したり。文字を通じてSOSを送っていた。
別の生き方ができていれば、この子は人生をかけてどれほどの言葉を紡いだだろうと考えてしまう。彼女の言葉も彼女の書く少し不器用な文字も私の中には刻まれて、私は彼女の未来を想像する。


その未来を生きる私。時々、ベッドから抜け出すのもしんどい大人です。
涙を拭っても止まらない。それでも日課にしている体重計に乗る。表示される数字を見て、昨日どんな風に生きたのか思い出して頷いて体重計をおりる。歯磨きをしながら、腫れ上がった目と鈍い頭痛に「もう泣くのはやめよう」と反省する。
そして、パソコンを開いて真っ白なスクリーンに向かって言葉を紡ぐ。自分の中にまだ炎が宿っていることを知るために。自分を奮い立たせるために、湧き出るものを打ち出していく。

亡くなった彼女と全く同じことをしている、と気づいた。

彼女は戦っていたんだ。圧倒的な力に支配されながら、彼女の小さな領域を守っていた。学校。自分の体。思考。生き残ろうとする意志。


・日々の中で記録をとる
・思っていることを書き出してみる
・ルーティーンをつくる

この第1セットをクリアできたら、次の第2セットだ。

・本を読む

第2セットはたったこれだけ。本は一方向的なものだ。私に力がなくても、姿の見えない誰かが私個人に語りかけてくれている。親密で、だけど親密でない、関係性のない関係性に安堵できる時間だ。
没頭してしまえば、私という個人から抜け出せる。内容はなんだっていい。あえて自分の苦しみと向き合う内容でも、現実から離れたファンタジーだってなんでもいい。求めるままに活字を眺め、その向こうに没入すればいい。

・好きなことをする
(好きだ、楽しいと感じる)

元気じゃないとできない第3セット。元気だと何よりも優先できる「好きなこと」「楽しいこと」も、心がしんどいとできない。これをクリアできれば、自分を守る防御壁もずいぶん低くなっているはず。

・好きな人、大事な人(あるいは動物でもキャラでもよし)について考える

生きるためには、生き残ろうとする”強さ”が必要だ。でも、それだけではいずれ挫けてしまう。残念ながら、まだこの社会は思っているよりもずっとずっと理不尽で辛く苦しいことで溢れているからだ。”愛”はファンタジーに限ったものじゃない。親や誰かに愛されなくても、自分への忍耐力、律する心と思考があれば、誰かを愛することはできる。愛することは”力”だ。
友人でも動物でもいい。大切な存在を持つことは、生きる力になる。たとえ思いが返ってこなくても気にしなくていい。「愛する」ことができる大人なんて早々いないのだから。利己的な人間が多いなか、あなたは確かな「愛」を知っている。それだけで十分すごいことなのだ。

・他人と話す
・他人に向けて笑う

心が満ちたら出かけよう。友人や好きな人と会い、他愛のない話をして笑おう。あなたの心が満ちているなら、楽しい時間になり、その時間はあなたの生きるエネルギーになる。


子どもの頃、学校が大好きだった。放課後も遊びまわった。泥をかぶって猛烈に叱られ、理由も忘れるほどどうでもいいことで体を打ちのめされた。ひどい時には裸で外に出されたこともあった。
それでも学校は楽しかった。知らないことを勉強し、友だちがいて、正当な評価を受けられる場だった。いじめはあったけれど、立ち向かうことはできた。自分と同じくらいの体で支配関係がないのだから、恐るものはなにもなかった。親=命を握る者に比べれば、何もこわくなかった。

私が生き残ったのは、親が手加減を知っていたから。学校や習い事といった親のいないコミュニティを持てたから。親の過剰な躾に気づいても周囲は助けてくれなかったけれど、介入されればきっと事態はもっと悪化すると察して、私はいつでも笑顔で幸福な子どもを演じ、自分自身でも「なんて幸せな子だろう」と魔法をかけていた。


その魔法は今でも効いている。
薬を飲むと具合が悪くなるので頼らない。酒は1日1杯、多くても2杯。基本的には楽しい酒しか飲まない。精神疾病で人生の6年も無駄にしたから、今はもう苦しい時でも3日過ぎたら”諦める”。全てを手放す。苦痛の種も手放すと同時に人間もやめる。風呂に入らず、食事をせず、仕事の〆切の余裕があるのを確認してから通知を全て切って外の世界との関わりを絶ち、ゲームに浸る。笑ったりイライラしたり、スカッとする。
時間がくれば、人間に戻る。

生き残った私たちは幸福な人間だ。
幸福な人間には義務がある。それは他者を幸せにするということ。自分を律し、弱い者に辛抱強くつき合い、その人が幸せになってくれるのを待つ義務だ。暴力?どんな形であれ、どんな理由があれ正当化は絶対に認められない、ただのひどく迷惑な禁ずるべき”エゴ”だ。そんなエゴを振りかざす獣がいれば、相手にしてはいけないのだ。突き放し、逃げる。相手が人間になれるまで相手にしちゃいけない。

私は、獣なのか、人間なのか。
愛する人と向き合う時、いつでも自問自答する。負の感情に負けそうになった時、人間の境界線を踏み越えまいと踏ん張る。その先に昔の母がいる。ワンオペで夫の浮気や周囲の人間関係に絶えず神経を使い、心から信頼できる友人も家族もいなかった母がいる。


私は「家族神話」が大嫌いだ。
「血の繋がり」という言葉も嫌いだ。

私たちは、家族を選べる時代に生きている。幸福に生きるために選びとる自由も権利も私たちにはあるのだ。たとえ子どもでも。

子どもは無力じゃない。亡くなった彼女は確かに自分を守ろうと必死に生きていた。言葉を持ち、自分を奮い立たせる力を持っていたんだ。
無力だったのは、彼女の周りにいる大人たちだ。命を奪った大人も助けられなかった大人も、みんな、無力だ。


誰かを幸せにできる人間になりたい。
だから、私は辛く悲しいことがあっても生きていける人間になろう。
悲しんでいる人を包み込める力を持てるように、日々、自分と向き合って生きよう。

そう私自身に宣誓する。
その言葉が、今日を生きる私の力になる。

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