昔から我が家は騒がしい
商売人の家に生まれ、物心ついた時には両親はいつも仕事場にいた。
それが当たり前で育ったので特段寂しいと感じてはいなかったと思う。自宅とお店が同じということもあったかもしれない。
最初の記憶の時点でも住み込みの従業さんたちはいたし、核家族化が著しい今の日本では考えられないくらいの大所帯の中で生活をしていたと思う。
兄弟は一番上の姉が7歳違い、兄二人は一卵性の双子で6歳違い。
年の離れた末っ子として伸び伸び育てられた。なので多少わがままではあるが性格はまあまあいい方だと自負している。
父、健次は長男長子の生まれ持ってのリーダー気質。性格面は超頑固でいわゆる昭和の親父。母親が商売上で気に入らない態度を取るとガンガンDVを仕掛けるし、宵越しの金は持たないようなタイプ。根はいい人なのだが、かなりの軍隊気質がたまに傷。
母、勝江は気立てが良くて働き者。商売人の嫁の鑑のような人だった。苦しい時が多かった中でも当店の飛躍の礎はこの人の活躍によるところが大きい。後年は親父すら凌駕する商売の鬼になるだけれど。ここでは多くは語るまい。
もともと祖母が始めた商売なので叔父と叔母も当然のように家業を手伝っていた。ちなみに当店の豚まんを創始したのは後に叔母と結婚して義理の叔父となる職人さんだ。
当店がまだ兵庫区の荒田町の店と現本店の2店舗だったころの記憶を呼び起こすとまぁ騒がしい。家族だけでも人が多いのに従業員をはじめ親父の飲み友達もよく家に来て飲んでいた。(その従業員や飲み友達がいろいろとトラブルをまき散らすこと多々)
ほとんど全員が喫煙者だったのでリビングは毎晩、換気の悪い七輪の焼肉屋みたいな光景だったことが思い出される。小さい時からこのような雑菌性が強い環境で育ったため、精神的タフさはここで培われたように思う。
集まりくる人々が騒がしいだけでなく、商売の出入りも非常に激しくその部分も含めてソフトハード両面で非常に騒がしく今の商売もその名残を色濃く残しているように思う。
自分の記憶にある荒田一貫楼は出前がメインの店で全盛期の出前の件数が多い時で一日400件を数えた言う。それを住み込みの従業員さんたちが岡持ち担いで自転車で次から次へと運んで行く。達人レベルになると3~4件のオーダーを掛け持ちで運んで行く。おそらく岡持ちの重さは10㎏を越えている。それを片手で持って自転車を運転するのだから曲芸に近いレベルである。
昭和50年代これから世の中がますます良くなっていく予感を子供ながらに感じる活気のある回想風景である。
ただしこの出前商売であるが、普通の飲食店が待ちの商売というのに対して飛び道具的な要素があり売上を通常より見込める半面、リスクとしては従事者の交通事故などが付き物でよく母親が事故った従業員の付き添い等で病院に詰めていたことも思い出される。究極はヤクザの親分の奥さんをうちの従業員が自転車ではねてケガをさせた(しかも女性の大事な部分を・・・)などという破天荒エピソードもある。
さらっと数個のエピソードをあげつらうだけでも騒がしさがお分かりいただけるだろう。いや、まだまだこんなものは序の口でこれからまだまだ騒がしくなる当店の歴史をまとめていきたいと思う。