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閑話休題:突破力が出来たきっかけ

※今日はKOBE豚饅サミット®着想譚をお休みします。

先代社長の父は非常に厳しい人で公私ともいろいろな場面でよく鍛えらた。
鍛錬方針としてはある程度の道筋をつけると、現場に放り投げてあがかせて覚えさせるタイプであった。良く言えば放任主義。悪く言えば面倒くさがり(笑)

小さい頃、親から今日はプールに行くと言われたら他の家庭では子供は小躍りしたものであるが、うちは(少なくとも自分は)あまり嬉しくなかった。
というのもうちの父親とプールに行くと泳ぎを覚える前は、おそらく4歳頃、絶対足のつかない大人のプールの前で息の止め方だけレクチャーされて大人の力でプールの真ん中に放り投げられる。

前後不覚に陥りながらも水から顔を上げると3,4m先の父親が手を広げてここまで来いと叫んでいる。本能のまま手足をバタつかせてなんとか父親のところまで辿り着くとまた放り投げられる(苦笑)そのようにして我が家の男たちは泳ぎを習得する。泳ぎを習得したら次はストップウォッチで25mのタイムを計測する。今考えるとなんというスパルタ・・・。これがトラウマで水泳が嫌いになっても仕方ないと書いていて思う。幸い自分は人よりも水泳はちょっと得意であるが、きっとこれはレアなケースだろう。

このようなことが一事が万事で。ビジネスの面でもけっこう似たようなことがあった。私が自社に入社したのは平成9年。その前から会社はずっと苦しかった。その苦しい中でも出店オファーというものはけっこうあって、若い時からポジション的に交渉の場によく父親と同席していた。ある時甲子園にほど近い全国組織のスーパーからのオファーがあり、受ける方向で話しがすすんでいた。その当時の出店交渉はうちの物件の図面を引いていた建築の先生と父がコンビで交渉に臨むというのが当社のスタイルだった。

大体の図面が引き終わり売場のテナントレイアウトを詰める段階(ほぼ最終段階)の交渉の日。待ち合わせ最寄り駅に行くと建築の先生が1人。てっきり先生と行動をともにしていると思っていた父の姿はなく、逆に先生から
「社長は?」と聞かれて、「ご一緒やと思ってました」と返す。じきに約束のアポイントの時間が迫り先生と二人で交渉場所に向かう。内心めちゃめちゃ不安。

最終の詰め段階なので先方は建設の重役レベルが出て来ている。自分と言えば一応部長と肩書は付いてるものの20代半ばのペーペー。ほとんど先生に交渉を任せうなずきに徹している状態。その交渉では当社と他社3店舗のレイアウトを決めるという場面で、エスカレーターから視認性の一番良い場所のオファーを当初は受けていたはずなのにここでは少し違っていた。先生は明らかに交渉途中からいら立ちを見せていたが、私はその様子を伺いながら冷や汗をかき苦笑をするしかなかった。先方は折れることなく提示したプランで押して来た。先生は自分に決定権はないのでと私に決断を委ねた。結局私は向こうのプランで了承するという形を取った。その帰りの道すがら、先生はその以前に父と行った別の出店交渉での話をし始めた。

「姫路のお店出した時に今日と似たようなことがあってね。最初に言ってきた条件と全然違う条件を相手方が最終局面に言ってきたんだよ。そしたら僕と社長は顔を見合わせてね。社長が、ほなやんぴやっ!て席を立ったんだよ。そしたら先方が慌ててしもうてねぇ・・・。」

今なら解る。先生、その時の私にそれを期待するのは酷ってもんでしょう(笑)

ただ若い私は純粋に自分の力不足を痛感し反省した。アポイントの日にち間違いといううっかりミスで交渉場所に現れなかった父に報告した際にひどく叱責されたがそれも素直に受け入れた。理不尽な叱責を受け入れることが出来たのはこれが貴重な経験になると分かっていたからに他ならない。

他にはこんなこともあった。明石駅の商業施設にお店を構えていた時のエピソードだ。当店がその施設の販売促進委員会の理事に指名された時、本来なら社長が行くべしだろうが、物ぐさの父は私に一言「お前、行っとけ!」まったく心構えをしてなかった私は死角からいきなりバットで殴られた気分で明石に行くことになった。

そこで名刺交換をした方々は、老舗和菓子店の社長、誰もが知るナショナル洋菓子ブランドの取締役に明石、西神地区を中心に10店舗以上を運営する珈琲店のオーナーなど錚々たる顔ぶれで気後れしかしないメンツが揃って出迎えてくれた。もちろん参加メンバーで最年少である。

販売促進委員会の主な仕事とはこの商業施設が毎月家賃とは別に徴収する
販売促進費の予算決めとそれに基づいた企画立案である。ただしオブザーバーに広告代理店の人間が必ず出席しており、企画立案に至ってはほとんどこの代理店に丸投げの状態であった。ある時の会議で夏のクリアランスセールの方向性を話す時があった。企画内容までは覚えていないが、(おそらく10人並みの面白くない内容だったと・・・)広告予算が400万円ということは鮮明に覚えている。そのすべてを新聞折り込みチラシと山陽電車の吊り広告に使うということだった。

当時自社の通販の歳暮のフライヤー作成費用に数10万円を使うことに頭が禿げそうなくらい悩んだ挙句に泣く泣く支払っていた私からしたら、半期のクリアランスの広告予算に400万円。そしてその全てを不特定多数にばら撒くだけという猿でも考えつきそうな施策に驚愕したものです。しかし!さらに私を驚愕させたのはこの企画書にダメを出す人物が誰一人いなかったことでした!!
おそらくこの委員会の流れとしては季節ごとに馴染みの広告代理店が企画を出して、それをシャンシャンでその企画を通すということが慣例になっていたのだろう。そんな空気に強烈な違和感を感じはしたが、末席の自分が異議を唱えて空気を変えてもいいのだろうか?という強烈な同調圧力も同時に襲ってきた。議長である施設長がその空気を回収し、では「この企画で・・・」と言いかけたその時に抱えていた違和感に堪えられず、思わず挙手していた。

「少しよろしいでしょうか?」

驚いたように施設長が「どうしました?」と聞き返して来たので、

そのチラシはクーポン付きが慣例だったようなので、クーポンの回収率がどれほどあるのかということを聞いた。するとデータの持ち合わせがなく分らないとのこと。それもなかなかビックリだったが、行間からはあまり回収率はよくないことは感じ取れた。そして消費者の立場からすると興味がない折り込みチラシはすぐにゴミ箱に行ってしまうということを述べ、自社でそのように効果が測定できないようなチラシの撒き方を部下が提案してきたら自分なら一蹴すると断じた。そこから会議の空気が一変したのは言うまでもない。深く頷いていた面々が次々にチラシのダメを出しを始めた。その後の顛末は覚えていないが、自分が勇気を出して発言したことによって、明らかに経験値の高い人たちがいる場の空気を変えることが出来たことは凄く大きな成功体験となった。これも甲子園のスーパーで気後れして失敗したことを糧とした結果だったように思う。

この2つの体験からとりあえず発言をすることの重要性を学習した私は少しだけ人よりは突破力があるのかなと思っている。ただし突破したあとに結果を出していることではない。あくまでも既存のものに風穴までは開けることが出来るということだけである。本音を言えばこれからは結果を出す遂行能力が欲しい(笑)

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