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続・母親のことを少し思い出してみる

人の平均年齢よりも若くして亡くなった母。果たして幸せだったのかな?とよく考える。(ずっとではないが)その答えはもちろん出ない。人様からは、それこそ命を賭けて自分が守って来た商売を子供4人が引継いで立派に守っているからきっと幸せだよと言っていただけます。そんな壮大というかロマン的なことでなく、美味しいものを食べて単純に美味しい!いい景色を見て綺麗!素晴らしい!とか。日常のどこにでも落ちているような小さな幸せを感じる余裕もなかったのではないか?

それほど晩年の母親は商売を回すことに傾倒し疾走していた。鬼気迫るとはこのような様なんだと思って接していた。人生の中で普通そうは巡り合わないであろう事態に幾度となく見舞われ、それを乗り越え続けるとああなってしまうのも仕方のないものだと思う。知る限りでも、地上げ屋との立ち退き闘争。和解後の20億円超の借金生活。阪神大震災で本店全壊および店舗数半減。メインバンクの破綻から整理回収機構への債権譲渡。つねにその渦の中心に身を置き、一切逃げることなく打開を図って来た姿勢に尊敬の念を抱き思い出しつつもどこかで少し逃げていれば、まだ一緒に美味しいものを食べて、微笑みあっていたのではないか?と少々の胸の奥に痛むものを感じてしまう。良いセコンドはボクサーが心残りなく戦かってリングを降りることを望むのではなく、身体無事でリングを降ろすことを優先するといいます。私がもう少し事を理解していれば・・・。まぁ湿っぽくなるのでこのあたりで。

母は心身ともに頑丈な人だった。初産である姉を3000g超で産んだのを皮切りに次の長男次男は双子。その総重量6000g超で一人目出産後の二人目出産までのピッチがなんと5分!末っ子の私に至っては4250gと当時の産院の重量記録を持っていたと聞きます。どのお産に関しても生まれる2日前まではフロアに立ち続けたと、今聞けば化け物と言われても過言ではないエピソードが満載。

父親のDVがひどく、商売上で意見が対立すれば殴る、蹴る、茶碗が飛ぶということは日常茶飯事だった。殴られて目の青あざを隠すために大きいティアドロップのサングラスを数個持っていたという笑えない話まである。そんな無茶な父に対しても商売でのポリシーは一歩も譲らなかった。よく母からこのような話を聞いたことがある。

「間違ってることがあって、それを言うてお父さんが怒ると分かっていても殴られる覚悟を持って私は言う。殴った後でちゃんと改めてくれるから。」だからあんたは早く死んだんやでと伝えられるものなら伝えてみたい。

新店舗を出せば、必ず切り込み隊長として乗り込み、店を軌道に乗せたら本体に帰ってフル回転。一癖も二癖もある職人連中から恐れられるほどのやり取り、(あの親父と相対していたら誰も怖くないわね)商売上の信用の重さを体をもって教えられたりもした。東京のお客様の通販でその日にどうしても届かなければならない商品が届かず、母親指名で私が送料より数倍高い新幹線に乗りお届けにあがったことあります。(東京滞在30分)通販事業の黎明期に銀行の支店長ととても到達不可能な売上を賭けて見事に達成したり、かっこいいと思いながら見ていたことすべてが今ではもう少し力を抜いてればと思ってしまう。それは自分の教訓として生きているのでそれはそれでいいのかもしれない。

思えば最期の結末も母らしかった。
整理回収機構との付き合いが終盤に差し掛かりひとつの手続きが終われば格段に楽になるという段階で胃癌が発覚。その頃に生涯最後の趣味である日本舞踊の師範試験を4か月後に控えており、それを諦めずに試験後に手術をするということを独断で決め、見事合格後に手術。そこも一本気な性格が仇となるエピソードの一つかな。
最期は痛みを緩和するため眠らされて約3か月。家族を集められて血圧がほぼない状態からも2日。時折苦悶の表情を浮かべる様を見て耳元で
「もういいよ。楽になっていいよ。」この言葉を自分がささやけた時に少しは良いセコンドになれたかなと思います。少し遅いけどね。

良いことも悪いことも母の教えは自分の血となり肉となってることを確認します。私も気付けばアラフィフ。無理なくあまり戦わず、道の草花を愛でる余裕を持ちながら生きて行こう。でも血は争えないから真っ向勝負挑んでしまうこともありそう。まぁその血の騒ぎすらも愛しいのですけどね。

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