1995.1.17 あの日から30年
「昨日のことのように思い出す」
あの日から30年経過した今も
そんな表現を使ってしまいます。
言い換えれば無二な体験、記憶。
あの日を経験した神戸、淡路、阪神間の
方たちに共通する痛みがそう言わせるの
かもしれません。
メモリアルな今日は当時の記憶と
これまでの道程に思いを馳せる方が多い
でしょう。
私もその一人で、
自身の備忘録として本日の記事を利用
したいと思います。
1995年1月17日午前5時46分
それは突然に地の底から現れて、
すべてを奪い去り、多くの悲しみの種を
兵庫県南部にまき散らして行きました。
当時の私は大学生で兵庫区の実家暮らし。
後期試験の真っただ中、
17日は及第点を取ることが難しい科目の
試験があったので、
明け方まで詰め込んで、
ようやく仮眠を取った刹那に被災しました。
それまでの人生で有感地震というものを
経験したことがなかったので、
この衝撃が地震であると認識するのに
しばしの時間を要しました。
幸い家屋の倒壊もなく、
家族全員が無事だったので、
もっぱら私の心配は今日の試験はあるのか?
学校までの電車は走ってるのか?
という些末なことでした。
※当然、行われませんでした。
実家まわりは電気の復旧がその日のうち
になされたので、
テレビをつけた時に変わり果てた街の様子を
映すヘリコプターからの画像を見て、
冷や汗が一気に吹き出たことが思い出されます。
(今も嫌な汗が首の裏辺りをつたいます)
末っ子だった加減で、
家業に入るなど考えたこともなかった
私の人生が一転した瞬間でした。
その当時の店、会社の様子は⇩の記事にて
それまでもいろいろなトラブルを
抱えていた我が家でしたが、
あの大震災は間違いなく後にも先にも決して
経験することのない強い衝撃をもって
叩き潰されるような事象でした。
その稀有な体験から語れることが
あるとするならば、
人はあり得ないくらいに打ちのめされると
逆に前を向くことしか出来なくなるという
ことです。
腹を括ってしまえば、
いろいろ失いはしましたが、
命があるということに深い感謝の念が
芽生えます。
月並みですが、
当たり前のことなど何一つない。
全てのことが有り難い。
今では忘れかけている概念ですが、
この30年を機に今一度自分に
問いかけてみようと思います。
ここから本当にがむしゃらに働いた、
生きたという数年間を
過ごさせてもらいました。
そんな私に転機が16年後に訪れます。
2011年3月11日 東日本大震災発生
テレビの地震速報で三陸沖を震源とした
マグニチュード9.0の大地震が、
東北地方を中心とした東日本に多くの
被害をもたらしたというニュースが流れました。
その第一報に触れた時の感想は
直下型だった阪神とは違うから、
あの時ほどの被害は出ないであろうと、
どこか他人事のように捉えていました。
しかしご存知の通り、
被害の甚大さは阪神淡路大震災を凌駕する
規模の大災害でした。
メディアを通して被害状況を見るに付け、
心が痛み、胸が張り裂けるような思いが
甦ります。
むしろ自分が直接被災していた方が
楽だったのではないか?
そんな思いすら抱いていました。
時はKOBE豚饅サミットの結成前、
被災経験のあるサミット発起人たちで
東北のために豚饅を通して支援をする。
と、いうことが決まるのは必然だったように
思います。
翌年の2012年1月17日に
東日本大震災で最も被害が甚大だった都市の
ひとつである宮城県名取市に
KOBE豚饅サミット実行委員会で赴き、
被災された方々に温かい豚饅の炊き出しを
させていただきました。
東日本大震災発生から
まだ1年足らずのタイミングです。
画像以外にも手つかずの瓦礫の山なども
散在していました。
当然、現地で被災された方を少しでも
元気づけられたらいいな。
そんな思いでこの事業に臨んだ次第でした。
しかし、炊き出しを通してそんな
上からな思いは浅はかだと思い知りました。
いまだ復興途上。
しかも被災して1年足らずの方たちの元気と、
逆に我々を気遣ってくれる優しさに
こちらが元気をいただく始末。
中央で握手をしているのは老祥記の曹社長(左)
と、あちらで全てをアテンドしていいただいた
名取市福祉協議会の佐々木理事長(右)
この佐々木理事長にいただいた言葉で
一生忘れることが出来ない言葉があります。
それは帰りの空港へ理事長自らハンドルを握り
仰った言葉です。
空港が見えて来たタイミングの信号待ちの際、
理事長が助手席の私に問いかけて来ました。
「安藤さん、こんなことを言ったら不謹慎かもしれませんけど聞いてもらえますか?」
「はい。理事長なんですか?」
「私ね。この震災(東日本)があってよかったと思ってるんです。」
字面だけ見ると衝撃の一言ですが、
雰囲気でそのままの意味でないことは解ります。
つづけて理事長は、
「だって、震災がなかったら僕たち会えなかったじゃない。」
感動しながら私も返答しました。
「理事長、それは阪神大震災だって同じですよ。阪神がなければきっと僕はここに来ることはなかったですから。阪神だってあってよかったと僕も思います。」
私は自分が被災した経験において
涙を流した記憶はありません。
でもこの理事長とのやり取りでは涙を
止めることが出来ませんでした。
涙を通り越して嗚咽でしたね。
それはまるで17年前に心に刺さったトゲが
抜けたような感覚でした。
気づいてなかったけど自分は
深く傷付いてたんだ。
同時にここまでずっと被災者側だったんだ。
と目を開いた瞬間でした。
ひとしきり涙を流し終わると、
清々しい気分で空港に到着。
ここを一つの区切りとして決意したことは、
これから自分は支援者になる。
と、いうことでした。
今後も日本各地で災害が頻発することは
容易に想像されます。
その時に部外者には決してならずに
出来る範囲にはなりますが、
行動をし、思いを寄せることが出来る人間に
なりたい。
それが30年前にあの震災を経験した私の
使命だと感じてます。