【流線形80】
埠頭を渡る風
青い帳が道の果てに続いてる 悲しい夜は私をとなりにのせて 街の灯りは遠くなびくほうき星 何も聞かずに私のそばにいて
流線形80 ユーミンの数多あるアルバムの中で、私の頭の中に真っ先に思い浮かぶのは、後にも先にもこの一枚であり続けるに違いない。1980年代のあの、忘れ得ぬ思い出の日々のBGM。
そんな中で出会った伯子さん お元気ですか?
伯子さんとの出会いは、とあるバイトの朝の朝礼から始まった。
「久住さんは、今日から佐藤さんに苗字が変わります」
歳の頃なら25~6だろうか?私の第一印象は大げさに聞こえるかもしれないが、ヘップバーンと大地真央を足して二で割り、少しお茶目にした感じのお姉さん。
そんな伯子さんに自分の容姿を省みることもなくひと目で釘付けになったのだが、私自身が彼女の眼鏡にかなう相手ではないことぐらいすぐに察しがついたため、それ以降伯子さんに対して特別な感情を持つことなどあってはならないと心に言い聞かせた。
当初、事情を知らなかった私は結婚でもされて、久住さんから佐藤さんへ名前が変わったものだとばかり思いこんでいたのだが、よくよく周りの反応を伺うと実はその反対で、離婚されたことにより旧姓の佐藤に名前が戻ったというのが真相のようだった。
今思い返すに彼女と出会ったこのバイトは、数え切れないバイト経験の中でも一二を争うお気に入りのバイトで、趣味と実益を兼ね備えた上実入りもよく、集まったバイト仲間も仕事上の付き合いだけにとどまらず、私たちバイトのお世話係だった社員の酒井さんを中心に、公私にわたって良好な人間関係が築き上げられていった。
大学も2度めの4回生を迎える羽目に陥った当時の私は、流石に5年も親のすねをかじる訳にもいかず、また幸か不幸か2単位足りないだけで5年目に突入したせいもあり、殆どというか全く大学へ通う事もなくバイト漬けの毎日が一年間に渡って続いた。
若さゆえなんだかんだと理由をこじ付け、金もないのに月に何度もそんなバイト仲間と飲み歩くうち、必然的にお互いの恋バナで盛り上がる夜は、各々一段とテンションが上がる飲み会になった。中でも置かれた境遇や考え方がよく似ており、遊び人丸出しの、義夫と名乗った二個下の男からは、尊敬されてかどうかは定かでないが、事あるごとに色々と絡んでこられる一時期があった。
「先輩、うちの会社の佐藤さんの事どう思います?むっちゃ可愛いっすよね!自分真剣に佐藤さんに惚れちゃいました。何とか先輩の力で取り持っていただくわけにはまいりませんかね?」
「義夫ちゃん、あんた佐藤さんいくつだとおもっとるんや?それに佐藤さんが俺らみたいなクソガキ相手にする訳ないだろう。無駄無駄、あとここだけの話だけど社員の中の何人かと、出入り業者の下請けの中にも、密かに伯子さんのこと狙ってる奴がいると聞いたことがあるぞ」
「一回でいいんです、自分一回佐藤さんと酒が飲めたらそれで満足です。何とか先輩の力で誘ってもらう訳にはいきませんか?」
柄にもない義夫の真剣な願いを、一笑に付して無視するわけにもいかなかった私は、世話係の酒井さんにも後押しをお願いして何とか、伯子さん、酒井さん、義夫、それに私の四人で、当時流行りだった、こ洒落たパブでの一席を設けることに成功した
思いの外天然ちゃんであるにもかかわらず、今でいうところのサブカルチャー的な話題にも他の二人よりも余程造詣の深かった伯子さんとの飲み会は、その本来の趣旨を忘れて、私自身にとっても大変楽しい一夜となった。
そして彼女の笑った時に見せる八重歯と、はにかんだような愛くるしい喋り口に、はっきり言ってしまえば「木乃伊取りが木乃伊になってしまった」ことを白状せねばなるまい。日増しに心の中での伯子さんの存在が大きくなるにつれ、もう私の気持ちの中に義夫の事など構ってはいられないという自分勝手な思いが生まれたことを今更否定するつもりもない。
或る夜の事、彼女の仕事終わりを見越して大胆な行動に出たことがあった。彼女の住まいが方向的には私の実家と同じ私鉄沿線上にあるというのは事前調査で情報を得ていたため、偶然を装って彼女と同じ車両の彼女の目には届かない場所に乗り込み、私が利用する最寄りの駅の数駅先の、彼女が降りたつ駅まで、ストーカー紛い?いや殆どストーカー行為以外の何者でもない尾行をしたことがあった この行動はその後、懇意にした仲間内から安全パトロールという呼び名で語られ、笑い話にされた記憶がある。
✱
その時駅に降り立った彼女の後姿を追った私は、彼女が改札を出て間もなくの道すがらに突然声をかけた。
「名古屋駅で偶然後ろ姿を見かけたもので佐藤さんの迷惑もかえりみずに追っかけてきちゃいました。車がこの近くの駅に停めてありますからすぐに取ってきます、お茶でもしませんか?」
心臓が口から飛び出すのではとの思いで意を決して、話しかけた私のことを気遣ってか、苦笑いを浮かべながらも了承してくれた彼女に、さらに一段と思いが深まった出来事だった。
それから先もたまにではあったが、彼女の帰りに時間を合わせ名古屋駅の地下街で夕食を食べたり、仲間内でクリスマスパーティーを催したり半年近くに渡って楽しい時か続いた。
しかし結局最後まで、彼女には指一本触れる勇気が得られなかった。ただ一度独り暮らしだった彼女が風邪をこじらせ会社を3~4日休んでいたある夜、教えてもらった彼女のアパートに押しかけ、彼女をおぶって病院の夜間外来を訪れた思い出がある。そんな心から彼女のことを心配した思いが通じたのか、少しの間だけ彼女の気持ちが私になびき始めたのでは?などというう浅はかな錯覚を覚えた時期があった。洋裁の得意だった彼女が私の為に作ってくれた黄色と紺色のレジメンタルタイは、今も我が家の箪笥の奥にしまってある。一時的に静岡の実家へ帰るという彼女の事を駅まで見送った日の夕焼け空の色は、今も心の片隅に燻ぶっている。
そんな彼女の誕生日に彼女が好きだという事で勢い勇んで買った一枚のLPレコード
それが、ユーミンの流線形80だった。
暫くの後、その会社の有志が集まり一度信州の妙高高原スキー場を訪れたことがあった。スキー旅行にはつきものの、当時のスキー場にありがちだったディスコを兼ね備えたようなパブで、偶然かけられた「ロッジで待つクリスマス」のメロディーは、甘酸っぱい思い出と共に今もなお心の底に残り続ける。
小さなつむじ風が尾根を駆け下りるたびに 縞模様広がる 月のゲレンデ夢を見るように 私はガラスにほほ寄せる ゲームにはしゃぐ人も炎を見てた人も いつか表に出て 熱のある日は部屋に戻された子供の私が甦り座ってる 君の君の声のこだま追いかけ 窓もドアも超えて心は滑る やがて響き渡る花火の音を ロッジで待つクリスマス
ユーミンの類まれなる言葉の一つ一つが紡ぎ出す歌詞は、誰の人生においても忘れられない思い出の1ページとなりうるのだろうか?
早40年近い歳月が過ぎ去った今、埠頭を渡る風に思いを馳せ、夜の街を飛ばす。