徳之島の思い出【与論献奉】
19から始めた波乗り、40を過ぎて足が遠のくまでの20年間にサーフトリップというやつを何度か経験した。恥ずかしながら海外での波乗り経験は0なのだが日本国内の、有名なサーフスポットがある島々には何度か訪れ、色々な体験をさせてもらった。
だが残念なことに、この何回かの遠征でいい波に当たった経験がない。何故か島に限っては不思議なほどサイズに恵まれたことがなく、思い出の殆どが島で巡り合った他県のサーファーとの交流の記憶や、食べ物地酒等、食に関する思い出ばかりである。
最初に訪れた島は徳之島、次が種子島、そして八丈島にも東京の浜松町?からフェリーで渡った。種子島は単独で、徳之島と八丈島は地元の波乗り仲間とワイワイ押し寄せたのだが、やはり一番強烈に記憶に残る体験は、最初に訪れた徳之島への遠征である。
徳之島へはまだJRが日本国有鉄道と呼ばれた時代、東海道本線を乗り継ぎ名古屋から神戸まで半日近くの時間をかけ出向き、そこからさらに6000tクラスの小さなフェリーで38時間ほど船に揺られて辿り着いたというのがその波乗り旅行だった。部屋はエコノミークラスでもちろん雑魚寝、レストランは一応備わってはいたのだが営業しておらず、フェリーの中で食べた食事は、毎回幕の内弁当のただ一種類で、お風呂の記憶は全く残っていない。まあ運賃が電車代フェリー代含めて片道15000円程の格安運賃だったため文句を言っては罰が当たるのだろうが。
徳之島での宿は事前情報に基づきサーフポイントのすぐ近くの民宿をゲットしたためレンタカーを借りる必要もなく、少しした、観光での足には原付のレンタルバイクというのがありそれで十分事足りた。
徳之島の海は限りなく透明にしか見えない透明で、海面から海の深さが全く想像つかない驚きの美しさだった。そして夏真っ盛りのHIGHシーズンだったせいか、私たちの他にも東京からの1グループと京都のハチャメチャ3人組のグループ、地元のザ・朴訥ガキンチョサーファーの連中など最初はお互い牽制しあいながらもすぐに打ち解け、日中の波乗りと夜の毎夜の宴会に興じたのだった。
本当の意味での関西人のバイタリティーは、この時京都のアホンダラ3人衆から知らされることとなったのだが、この三人、私が言うのも変な話だが本当にぶっ飛んだ奴らで、実は3人衆も2+1名の現地で知り合った急増グループであったことを後で知らされた。
さらに奴らは有り金の多くを使い果たし、ローカルからの斡旋で土方のアルバイトにありついて帰りのフェリー代を捻出しようと働いていた。またガキンチョの愚痴から知らされたのだが最初泊まった宿からも追い出され、汚れをしらないローカルの家にその親に無断で夜な夜な忍び込み、夜露とハブの攻撃から身を守ったと聞かされた。
そんな思い出の中でも1番印象深いのは、そいつら全員と数名のうら若き?女性観光客、現地の中学校の保健体育の女性教諭ら総勢40名ほどの大所帯で執り行った大宴会パーチーの思い出である。もちろん金は観光客のみの会費制(京都の奴らは文無しだったため無銭参加)で賄ったのだが、食材はローカルガキンチョサーファーが先生や、自分らの親の手を借りて肉から魚から大盤振る舞いをしてくれた。
この地方にも与論献奉という風習があるのだが、これは最初に親を決め、現地の黒糖焼酎を、自己紹介をしながら∞ループで回し飲むという、大酒飲みにも過酷なアトラクションである。成人者のみによるじゃんけんで真っ先に負けたオイラは、最初の親を仰せつかり、京都のアホンダラの筆頭が調子に乗って生ビールの紙コップに、並々大瓶1本分程のアルコール度数30パーセント近い、奄美という名前の黒糖焼酎を注ぐもんだから、本当に酷い目に遭ってしまった。
注がれた焼酎を途中で残すなどというのは、ルール上も周りの雰囲気からも許されざる行為だったため、勢いに任せて一気飲みした次の瞬間、立ったまま真横にみんなの見守る中、今口にした焼酎をシンガポールのマーライオンの如き勢いで放水して、そのまま後ろに卒倒した。
私のそんな有様を見届けた他の連中は、その後今見たような無理はしまいと申し合わせて、ほどほどにその後の宴会を楽しんだと、翌朝目覚めた私は聞かされたのだった。
そして、そうでもない二日酔い状態で目覚めた私の目にまず飛び込んだのは、燃え燻ぶった前夜のキャンプファイヤーの残り火の上を、額に汗しながら踊り進む参加者の姿だった。私の目覚めを目ざとく見つけた京都の御一行は、二度寝の振りを決め込もうとした私の心中を察することもなく、両脇を抱えられて火あぶり会場へと連れだったのだった。
人よりも幾分長めの火渡りパフォーマンスを強要された私は、その後何日かに渡って火傷の苦しみと格闘せねばならなかったことは、一応奴らには秘密にしておいてやった。
夜の宴会は、その後も手を変え品を変え夜ごと続いた。ある夜はじゃんけんで負けた一人がうら若き乙女?が見守る中一糸まとわぬ姿になって海へダイブしたり、またある夜はアホンダラと連れだってうら若き乙女?が泊まるコテージに夜這いをかけて忍び込み玉砕したりと、ハチャメチャな時間を過ごした。まさに漫画のような出来事の連続だった。
帰りのフェリーでは、ドラマで見られるように残った関西の連中と、ガキンチョサーファーから紙テープによる手厚い別れのセレモニーを受け、船が埠頭を離れて暫くすると全員が港に飛び込んで海の中から手を振ってくれた。
その後も何年かに渡って年賀状でやり取りしたり、京都と名古屋にお互いが出向いて旧交を温め合ったのだが、いつの頃からか音信が不通になってしまった。だが、その時の思いでは今も時々思い返すし、この先一生忘れる事の無い思い出でもある。