亡き姉からの【エール】ショート・ショート
まさに間一髪の出来事だった。もう二分出発が早ければ、目の前に広がる多重衝突事故の当事者の一人に名を連ねていたことだろう。
運が良かったの一言で片づけるのは簡単だが、私のこれまでの人生において、今回のように九死に一生を得た出来事は一度や二度ではない。
歴史に名を留めたほどの大惨事の先の震災の時も、実を言えば最も被害の大きかった東北地方最大の都市の海岸線の街でまさにあの時間に、仕事に当たっていたはずだった。
嘘のような本当の話というのは、こういうことを言うのだろう。三月十一日の前日のことだから三月十日か?偶然示し合わせたかのように母方の祖父が亡くなったことで、私の代わりに出張に出向いた部下は呆気なくこの世から姿を消し、その亡骸は未だ発見されない。
表向きには会社の誰一人として、そんな私を咎める言葉を投げかける者はいなかったのだが、前途洋々だった彼に比べ、役立たずの私の事を心の中で「お前が死ねばよかったのに」と思う者は、少なからずいたことだろう。
来年には早十年の歳月が過ぎ去ろうとしている今、私の籍はまだその会社にある。自分には責任のない事だと心に言い聞かせ、周囲の雑音には無視を決め込む術を身に付け、今もその会社に踏みとどまっている。
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小さい時、原因不明の病で突然右耳の聴力を失い、日々の生活にも支障をきたし、大勢の中で一人一人の会話の内容が上手く聞き取れなくなってから、それまで考えたこともなかった対人関係上の意思疎通がままならなくなり、コミュニケーション能力が低下した。そしてそれ以降の私は周りから「人付き合いの悪い奴」とのレッテルを貼られ距離を置かれた。
だがいつの日からか窮地に立たされる時、小さな女の子の声で「大丈夫?私の話を聞いて!」 聞こえないはずの方の耳の奥で、微かな声がささやくのだった。
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ある夜のこと、何をやってもうまくいかず夜ごと飲み歩いていた場末の安酒場で、偶然隣り合わせたさもその筋のものといった身なりの男と、些細なことから言いあいになった。
世間一般からは、チンピラと呼ばれるのであろうその男は、組関係のトラブルか何かで気が立ってでもいたのか、怒りのはけ口にする相手を物色する理由からその酒場を訪れ、偶然居合わせた私がその格好の餌食にされたという訳だ。
男は、相手に対する威嚇のつもりで胸ポケットに拳銃を忍ばせていたが、思いもよらぬ私の激昂に気おされでもしたのか、おもむろに胸ポケットからそのリボルバーを取り出し、震える手で銃口を私に向けた。
「冗談だと思うなよ、俺はもうどうなったって構やーしねえ、マジではじくぞこの腐れ外道が…」
勢いに任せて男がまさに引き金を引こうとした矢先、またはっきりと聞き取れる女の子の声が耳の奥で囁いた。
「落ち着きな…その拳銃安全装置が掛かったままだからいくら引き金を引いても、今のままでは使い物にならないよ。 いい?そのまま相手から絶対に目をそらさずゆっくりと拳銃を取り上げな、さあ勇気をもって」
言われるがままの行動しか選択の余地がなかった私は、その声に後押しされて驚くほど冷静に、拳銃を男の手から奪い取ることが叶った。呆気に取られたその男は、予期せぬ私の行動に気後れして、後ずさりしながら店の入り口までたどり着くと、突然踵を返して一目散に店を飛び出していった。
それ以来、事あるごとに私のトラブルに対して、見るに見かねて手を差し伸べてくれるそんな声に、恐怖や違和感を感じなくなった。逆に友人や身内の声のような不思議な安堵感のようなやすらぎがその声の中にはあった。
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実は私が生まれた時、二卵性の双子で、元気であれば姉になるはずの兄弟がいたことを母から聞かされたことがあった。そしてどちらか一方の命を犠牲にしなければ母子ともに命にかかわるという究極の選択の結果、この世に生を享け、生きながらえてこられたのがこの私だった。
そしてその後も何度も出くわした不思議な出来事に、いつの頃からか少女の声の主が、この世に生を享けられなかった姉の声では?という疑問が生じ、そしてそれはある時を境に確信に変わった。
恨まれて当然の姉に、幾度となく助けられて現在の私がある。言い換えればその声は、天国の姉からのエールのようにも聞き取れる。
両親や廻りからの愛を、微塵も受け取ることが出来なかった姉が私に対して、自分の事や私たちの両親の事をもっと大切にしろ!と訴えかける
亡き姉からのエール のように
了