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波乗り

今は知らないが、私が波乗りをしていたころ、曲がりなりにも自分の事がサーファーだと認識する人間は、サーフィンという言葉を使うことに少なからぬ抵抗を感じていたという人が殆どだと思う。だとすれば当時のそんなサーファーが、サーフィンというスポーツをどう呼んでいたかといえば「波乗り」、ずばりその一言であろう。

サザンの歌にも同じような題名の歌があった事が思い返されるが、波乗りというスポーツ(ライフスタイルという呼び方をした方がいいのかもしれない)は、その難しさ危険性、言いすぎかもしれないが自然と対峙する数多あるスポーツの中で、究極に位置する一つなのかもしれないという思いが強い。

波乗りは、個々人のライディングのスタイルが如実に現れる。岸から沖でいい波を拾う熟練したサーファーを目にするとき、その人の顔の判別などつくわけないのだが、その人が描くマニューバー(サーファーが一本の波を自分のものにしたときに描くライン?軌跡)やライディングスタイルを見れば仮にそれがプロサーファーのそれでなくとも名のあるトップアマであれば一目瞭然にわかるスポーツでもある。そして波乗りに心血を注ぐビギナーにとってそんな先輩サーファーは常に、憧れであり目標でもあった。

伊良湖に内藤直樹と呼ばれるトップアマがいた。敢えていたと書かせてもらったのは内藤さんご自身が近年他界されたからである。内藤さんはまごうことなく中部地方の波乗りをけん引されたレジェンドの一人だった。

サーフィンというスポーツは、押して知るべしなのだがプロサーファーと呼ばれる何らかの形でサーフィンを生業としている人たちと、あくまでもアマチュアサーファーとしてサーフィンというスポーツを純粋に楽しむ人の二つに大別されるという事が言える。

前述の内藤さんはといえば、ある意味究極の日本を代表したアマチュアサーファーの一人であった。当時から日本にはNSA(日本サーフィンアソシエーション)という団体があり全日本選手権と呼ばれた全国レベルのアマチュアサーファーの集う大会が運営されていた。

この大会は、クラス別にジュニアから始まりグランドマスターと呼ばれたサーフィン界のパイオニアが集うクラスまで、いくつにも大別され、全国のトップアマが集うサーフィン界を代表するコンテストの一つだった。

内藤さんは長きにわたりこの全日本選手権の多くのクラスで日本一に輝き、コアなt東海地方のサーファーの間では知らないものがないと言い切れるほどのレベルのサーファーだった。

内藤さんは何処のポイントのどんな場所にいても、ああ内藤さんが海に入っている。自分が入ったところでいい波を拾わせてもらいそうもない、そんな思いに駆られる数少ないサーファーの一人でもあった。

私が地元の連れと初めて訪れサーフボードを購入して色々なレクチァーを受けた店のテストライダーだった内藤さんには、正月休みを利用して鳥取まで泊りがけで遠征した時のサーフトリップや、時に海の中で色々なアドバイスを頂いた。

恥ずかしい話だが私は、波乗りを始めて一二年の間、大きな思い違いをしていた時期があった。サーフィンを始めて二年目の夏のことだったか、腕試しに地元サーフショップ主催のコンテストに出で見ないかとの誘いに便乗してビギナークラスの大会に出場した機会があった。

一緒に参加した仲間内の技量は自ずと知っていたし事前練習で他のショップに通う見知らぬコンテスターの実力も大方の想像がついた私は、うぬぼれから優勝する可能性は間違いさえなければ大いにあると高を括った。

そして友人4人と共に参加した大会その大会で私は、海でのポジション取りに失敗してあえなく自分だけ予選敗退した結果に終わった。

残りの三人は一位、三位、四位、自分だけが蚊帳の外で表彰式に参加した時の悔しさは今も忘れない。だが当時の自分にはその結果をばねにして更なる精進を重ねようなどといった前向きな捉え方が出来るだけの器を持ち合わせてはいなかった

というか、そこまで波乗りにのめり込みたいという情熱自体持ち合わせなかったというのが実際の話である。

サンデーサーファーとよばれたポジションで二十年近くに渡って続けた波乗りも、その後娘に知的障害があることが分かり過去の思い出の一つに追いやった。最後までショートボーを貫いた最後の一枚の板も、今はない。だが波乗りという楽しみに出会えて数々の思い出を紡ぐことが出来たことは、何事にも代えがたい財産であると言い切るだけの自信がある。

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