源爺物語
その二
蜂の3刺しで死んだかも… 畑の陽だまり土の上♬
ハチのムサシは死んだのさ 平田隆夫とセルスターズ♪
昨日の投稿記事、鋏のなんたらかんたらを書いているとき、実はおいらは、自問自答を繰り返していた。
「お前鋏が嫌いとか言う前に、もっと嫌いなものがあるんじゃね~のか? ええ~このすっとこどっこい!」そう、おいらは世を謀って本当に本当に嫌いな、みなしごハッチーの話題に触れることをないがしろにしていた。
テレビゲームをピコピコ出来なかったおいらの子供時代は、出っ来ん坊主(これはひょっとして名古屋弁か?)は表で遊ぶものと相場が決まっていた。
春:土筆取り 夏:四つ手網を使って用水路でガサガサ 秋:刈り取られた稲藁の山を勝手に崩し、秘密基地を作って遊んだ。
お百姓さんが綺麗に積み上げた稲わらをバラバラにして、子供が2~3人入れる秘密基地作りは、手慣れてくるとものの2時間ほどで出来上がった。そしてそれは、どうやって作ったのかは覚えがないが屋根付きの結構立派な出来のものだった。
時々の事だったが、基地の中で近所の幼馴染と完成の余韻に浸っているまさにその時、田んぼの持ち主のじいさん(子供の目に百姓は皆爺さんに映った)がやってきて首根っこをひっつかまれて表へ出され一列に並ばされてビンタを喰らった。立派な大人はどこの何様の子であろうと悪さをした子供のほっぺたをひっぱたく権利を有していたからだ。そして説教を垂れる言葉には耳を貸さず、元あったようにじいさんと一緒に藁束を戻させられたのは言うまでもない事だ。
そんな中でおいらが、一番興奮冷めやらなかったのが廃墟と化した工場や倉庫の探検だった。刑事ドラマやアクション映画のロケに使えれそうなお化け○○と呼ばれた廃工場は、自転車で足を延ばせば学区内の至る所に立っていた。ある日、同じ分団の一個上の幼馴染二人と、目星をつけていたとっておきの廃墟に遠征を試みた時の話だ。スレート葺の朽ちかけた倉庫は、放置されて数年が立つと見えて、建屋の前は雑草が生い茂っていた。
人の立ち寄った形跡がまるで見られないその倉庫への侵入は、造作のない事の様に見受けられたのだが、一つ気になったのはあしなが蜂の大群がうようよと工場の周りを飛び交っていたことだった。
蜂という昆虫は、巣をつくる時期が一年の内のいつごろからとか、ほぼきまった時期があるらしく、また狂暴化するのも初秋から晩秋の時期だと後日改めてテレビ番組で知った。正しくそいう時期だったことが推し量れるのだが、その敷地には万はオーバーにしても数千匹のあしなが蜂が所狭しととびかっていた。それまでの私は、運よく蜂に刺された覚えもなかったし、ましてやその痛みの加減など、窺い知る由もなかった。
棒切れか何かをぶん回し、視界に入る大小様々な蜂の巣を打ち落として進むと、怒った蜂の集団が、間もなく私達三人に襲い掛かってきた。私の後ろにいた一個上の幼馴染は、一個上の癖に私の体を盾にして草むらの影に隠れ遊ばせたため、私は、蜂の集中砲火を一身に浴びる結果と相成った。目尻、首筋、手、足、一度に4~5か所蜂の餌食となった幼き頃の私は、今回も火がついたように泣き叫びながらの退却を余儀なくされた。
そしてそのあと、全くもって眉唾物の民間療法である「ション弁をかけたら一発で治る」の一個上の言葉を信じて、一個上の放つション弁まみれの憂れき目にあった。
一つ救いだったのは、おいらが蜂アレルギー体質でなかったことだった、もしアレルギー体質だったとしたらアナフェラキシーショック(おおっと卑猥な言葉を使ってしまった)で 御陀仏だったことだろう。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 うちの宗派はなんまいだぶだった。父ちゃんごめん。
おしまい
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