見出し画像

ハイツ山手

受注伝票
マルゲリータ L 1、コールスロー3、チキンナゲット3、コーラ L 3
(お届け先)
○○区 ○○町 3丁目 15番地シャトー山手 103号 

 
私がピザ屋で働き始めた理由は、単にその街の地理に詳しいだけの話である。

 住所を見れば、殆んど何も頼らずにその場所へ行き着け、旧市街の迷路のような街並みも、原付バイクの利点を最大限に活かせる抜け道の一本一本までほぼ完全に把握していた。それはある意味、必要に駆られて身に付けた術なのだが。
 
 「○○町 3丁目  ハイツ山手?昔住んでたアパートか、103号室はそれこそ俺がいた部屋だ。昔はこのボロアパートに宅配ピザを頼むような奴は一人もいなかったんだがな…」 
 10年程前の一時期暮らしたその場所は、頭であれこれ考えなくとも体が勝手に反応するかと見えて、今でもわけなくたどり着ける場所だった。

 そこは入居当時既に築30年近い物件だったこともあり、今の印象とさほどの違いを感じない。

 ただ一つ明らかに変わったのは、アパートを取り囲むように建てられた高層マンションの影響で、辺りの風景が一変していたことぐらいだった。
 言ってみればまるで「その建物だけが時代に取り残された遺失物のような空間」ともいえた。

 安普請のアパートの玄関ドアには、当時のアパートにありがちな安っぽいチャイムが付けられていたが、経年劣化によるひび割れが見られブザーを押すことすら躊躇いたくなる代物だった。

 玄関脇のサッシ戸のガラスを照らす照明の灯りが家主の所在を明らかにしていた割に中から漏れ聞こえる音はなく、強いて言えば冷蔵庫のモーターの微かな機械音だけが静かに、そして規則正しく鳴り響いているぐらいだった。

 今まで自分で押すことなどついぞ無かった壊れかけのチャイムに手を振れると、扉のすぐ真裏ではっきりと「ピンポン♪」という音がした。
 どういう訳かその時「ピンポン」としか聞こえぬ呼び出し音を耳にしそれで意味が通じた昔を思い出さずにはいられなかった。

 暫く中の反応を待ったのだが一向に返事がなく、無駄な時間だけが過ぎていった。
 
 痺れを切らした私が勢い余ってドアノブを回してみると、無施錠の玄関ドアが少しだけ開き、中の様子が垣間見えた。

「今晩は、○○ピザです」

 勝手にドアを開けたことに多少気後れしながら控えめに今度は自分の口で訪問を告げても、やはり部屋の中からの反応は無かった。

 デリバリーの宅配というのは、小口小荷物などの商品と違い、注文した家主が不在などということはまずありえない、なので新人の私はこういう場合どうやって対応すればいいのか良い案が思い浮かばなかった。

 自分なりの最善策を考えあぐねていたその時、キッチンの奥の部屋で微かな女の呻き声のような音がした。ともすれば消え入りそうなその声は、ことの重大さを推し量るのに充分なインパクトを持って私の耳に届いた。

 事情が事情だけに、玄関口で靴を脱ぎ捨て、勝手に奥まで上がり込んだ時最初に目にした光景は、簡易ベッドの上で背中をこちらに向けてうずくまる小柄な女の姿だった。

 肩で息をしながら、か細い呻き声をあげる女は、最早意識も朦朧としており、放っておけば間もなく死に至るだろうという予感を抱かせる姿と言えた。

 寝汗でびしょ濡れの、普段着のまま横たわるその女は、着替える気力も消え失せ、自分の汗で冷えきった体を小刻みに震わせながら苦し紛れに私の方に寝返りを打った。

 医学的知見の乏しい私には、女の病状を殆んど把握することが出来なかったが、心臓や脳に異常が見られるわけでは無さそうなことだけはなんんとなくだが理解できた。

 とりあえず119番通報による救急要請を済ませた私は、濡れた衣服を着替えさせることが先決だと考え、何の躊躇いもせずクローゼットの中の彼女の下着と、寝間着を引きずり出した。

俄看護師にでもなった気分とでも言ったらいいのか、風呂上がりの子供の世話でもするように素早く全ての衣服を着替えさせた後、冷蔵庫にあった経口補水液を女の口元に持っていくと、生への執念がそうさせるのかペットボトルの水を貪るように一気に飲み干した。人の命とは時に儚く、またある時は何者も抗うことの出来ない強さを持つものだということを改めて実感させられる出来事だった。
 それでも尚、女の意識は朦朧としたままだった。

 遠くで救急車のサイレンの音が耳に届き出したのは、本当にそれから間もなくのことであった。

 アパートのすぐ脇の曲がり角までたどり着いた救急車は、そこでサイレンを止め前面道路に横付けの形で駐車をした。緊迫した状況の中でなぜ私がその到着を察知できたかといえば、赤色灯の回転に伴い明滅する強い赤光が、彼らの到着を確信させたからだった。
 二人一組なのだろうか救急隊員は、それぞれに役割分担が出来上がっているらしく、一人は到着を告げ患者の容態を確認する役目を担いそしてもう一人は車からストレッチャーを下ろす手筈を整えていた。

 私が彼女の容態を言葉足らずではあったが救急隊員に告げると、第三者の私の立場を慮んばかってか、収容先の病院まで同行する意志が有るのか無いのかの返事を迫られた。

 注文主が緊急事態とあらば、商品の引き渡しも代金の授受も儘ならないと腹を括った私は、ピザ屋への報告も疎かにして、取りあえず救急車に同乗して病院へと向かう考えを示した。

 救命救急センターを有する公立の総合病院は、全く知らずにいたのだが、そのアパートから目と鼻の先の場所に存在した。間もなくICUと呼ばれる救急治療室に運ばれた彼女とはそこでお別れだった。
 お役御免の私はそこから件のアパートまで歩いて戻り、結局代金の受け取りも出来ぬまま、重い足取りでバイト先のピザ屋への帰路に着いた。
 対面販売と宅配のみで営業展開するそのピザ屋は、一坪ほどの持ち帰り客相手の販売コーナー以外は厨房と事務所兼ロッカールームの小部屋だけの手狭さだった。
 会社直営のその店は本部から派遣された唯一の正社員でもある店長と古参新人取り混ぜて8人のアルバイトにより運営されていた。
 厨房に入った私を、店長よりも実務経験の長いバイト頭のAがめざとく見つけ、食って掛かってきた。
「おめえ今時携帯ぐらい持ってんだろうが、家に忘れたなんて言い訳したところで、公衆電話なり何処かで電話を借りるなり連絡を入れる方法ぐらいいくらでもあるんじゃねえのか?」
「あんまり遅いんで、シャトー山手のお得意さん、しびれを切らして催促の電話の嵐だったんだぞ」
「すぐさま代わりの品を他のバイトに持っていかせたんだが、お宅にはもう金輪際頼まないと捨て台詞をはいたそうだ」

「シャトー山手  ハイツ山手じゃないんですか?」
「何を寝ぼけたこと言ってやがんだ、受注伝票よーく見てみろや○○町3丁目シャトー山手103号室 横山某って書いてあるだろうが、お前の目は節穴か?」

 なまじっか土地勘があり、偶然にも元住んだアパートと似通った名前の物件名が禍して、完全に思い違いをしていた。

 今更グダグダ弁解しても始まらないと悟った私は、地回りのチンピラにバイクの運転で文句をつけられ拘束されていた等としらじらしい嘘をついてその場をやり過ごした。
そうでも言っておけば、注文の品もロハで巻き上げられたぐらいの言い逃れができると閃いたからだった。

 それから半月が過ぎた頃、非番の日に、小柄で清楚な身なりの女が私を訪ねて店を訪れたという報せをバイト仲間から聞いた。

 女の話で、ハイツ山手の件の一部始終が明らかにされたが、自分がどうやって病院まで運ばれ一命を取り留めることができたのか真相が知りたい。そして命の恩人の私にできる限りのお礼がしたいという言付と、女の名前と携帯番号の書かれたメモ書きが手渡された。

 私はその時、思わず周りの目も憚らずにほくそ笑んだ。

 その女の、私が今世間を震撼させる連続婦女暴行殺人事件の真犯人だという事実も知らぬ現状に

同情の念を抱きながら。

いいなと思ったら応援しよう!