投稿用温ちゃん

自分にクリソツな自閉症の娘との、シュールな毎日          其の2

進化論と自閉症

 人類の、更なる進化について考える時、生物学的視点に立ってみた場合、進化は、純粋に「変化」を意味するのであって、「進歩」は意味しないとある。

 ホモサピエンスサピエンス、即ち人間は、この先如何なる進化を遂げるのだろう?ダーウィンの進化論の根幹をなす学説に、「自然淘汰説」がある。

 要約すれば、進化とは、環境や社会に適応して生き残った者の遺伝子が後世に伝播することの例え、つまり裏を返せば適応できなかったものは淘汰される、ということである。

 人類にとっての新たな進化の過程は、もう始まっているのかもしれない。それは進化という形でなく、退化という形でしか言い表せない状態なのかもしれない。

あえて「変化」という言葉を使えば説明がつく。生物の変遷は、「進化」という形だけでなく「進化」と「退化」を繰り返して進むものだからだ。

娘の障害について

 なぜこんな話を始めたかといえば、最近常々思う事がある。タイトルにもあるように私の娘は重度の知的障害児との診断を早くから受け、現在は特別支援学校に通う。(コロナの影響で休校中だが)16になった娘は未だ2語文、例えば、あなたが好きだ。とか、私は行く。といったような文章を言葉に表せない。単語自体も車がくどぅまだったりお買い物がおかいどもなど、はっきり発音できない子音を幾つか抱えている。ほかにも数字の概念が曖昧だとか、生活全般、社会性等に於いて大きなハンデを強いられている。

 しかしこれはあくまでも外見上の話である。親だからこそ解ることかもしれないが、娘は、喋れぬだけで人の言う言葉の殆どを理解する。洗濯物を畳んでしまってくれと口で指示すれば家族の誰よりも正確に決まった場所に収めるし、私が適当に畳んで箪笥の奥に放り込もうものなら、その行動を見逃すことなく飛んできて、自ら正しい場所に収め直したりもする。家の何処に何があるだとか、その日の料理の味付けが、見た目にはいつもの大好物のそれと変わりないが、使われる調味料のメーカーだけが少し変わり、若干の味の違いでも生じようものなら、敏感にそれを感じ取って、一口、口にしたのち残りの一切を誰が何と言おうと拒否したりする。逆パターンもたまにあり、偏食の娘が頑なに拒否し続けた食材も、タイミングを見計らって無理やり口に押し込んでやると、最初は嫌がりながらも次に?・?クエッションマークが頭一杯に広がり、気に入ると親の分まで取り上げて食べだしたりする。

 これら二つの事柄において考えるに、記憶という「思考」、食べ物の嗜好に対しての「思考」(駄洒落か?)が健常者よりもさらに緻密に働いているとしか捉えようのない時がある。そんな時本当に障がいとは何ぞや?と考えさせられる。いくつかの発達障害という括りで述べられる精神障害は、障がいなどではなく、人類の更なる進化の一過程を生きる人間の姿なのではないかとさえ思うときがある。実は自閉症者は、テレパシーで障がいを持つ者同士が意思の疎通をおこなっているだとか、テレポーテーションで空間を自由に行き来できるとか、人類の未来を知る未来予知能力を持つといった荒唐無稽な空想が頭をもたげることすらある。そしてそんな研究というか学説を唱える人類学者がひょっとしたらいるのではないか、などという勝手な空想をしたりする。

 娘の学校生活について

 話は変わるが、人が、初対面の相手の人となりや、人間性を推し量る時、まず観察するのは、相手の興味や嗜好、話術とか、表情、立ち居振る舞いといったところか。第一印象は人間関係の形成の上に於いて重要な役割を成すことは疑いようがない。一度貼られた負のレッテルを剥がすことはなかなかに厄介である。私の娘は初対面の相手に常に、知的レベルが著しく低い、コミュニケーション能力に欠ける、という評価を受ける。それは健常者に止まらず、同じクラスの障がい児からもだったりする。言葉が無いはイコール重度の発達障害者なのである。

幸いなことに、他害行為や、自傷行為、オウム返しといった障がいが顕著でない娘は、いじめの対象にすらならないのが実情だ。支援学校の教師でさえその扱いは未就学児と同等レベルである。親の欲目もあるのだが愛嬌があり人畜無害の娘は人気者だが、こと生活指導においては、他に手のかかる子が優先され、放置されることがある。学校然り児童デイサービスなどでは尚更の事だろう。そうはいってみたものの基本我が家は、学校や、デイサービスに対して感謝こそすれ、大きな不平不満はない。支援学校の日常を自分の目で確かめた経験のある人ならお分かりだろうが、本当に大変な現場である。殆ど肉体労働といったほうが的を得ているのかもしれない。一人一人の抱える問題の程度を踏まえ常に注意を怠らず、真摯に指導に当たられる先生方の姿に感謝以外の言葉が見当たらない。

 休日は、コンビニとドライブ以外は一歩も外へは出たがらぬ、超インドア派の娘が、学校では友達と喜んで手をつなぎ散歩へ出かけると聞く。時間はかかっても給食も出されたものは残さず完食するらしい。これも偏に日頃の先生方のご指導の賜物と、感謝の念が絶えない。今回のような突発的な長期休校を余儀なくされるとさらにその有難みを強く感じる。そんな学園生活も残すところあと2年、小学校時代から親交のある親御さんの中には、国はどうして特別支援大学校を作ってくれないのかとぼやかれる方もお見えなぐらいだ。今はただコロナに感染することなく平穏無事な学校生活を謳歌してくれることを切に願って止まない。

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