見出し画像

声のアルバムの原点④ ~4人のおじさんの友情

父が倒れたのは55歳の時でした。
私の父は田舎の長男坊ですので、若い時に仕事の修行で一時家を離れた以外は実家を出たことがありません(たぶん)。確か一度民間企業に入社した後、地元の公務員になってずっと町の役場で働くという人生を送りました。

育った町ですしあの年代ですから、学校の運動会なんかでも親同士が幼なじみだらけでわきあいあいと平和なものでした。明るくひょうきんな性格でしたから、友達は多くいたような気がします。なんとなく、そんなに仕事はできるほうじゃなかった気が笑。適当に仕事して定時になったら帰ってきて、うちは夜7時には家族七人で毎日晩御飯を一緒に食べてました。(これが本当に普通だと思ってたんですね、なので都会に出てから自分も残業が当たり前になった時、都会の子どもはお父さんと平日に晩御飯を一緒に食べるというのはめったにない事なんだなと初めて知りました)。うーん、ちびまる子ちゃんやサザエさんのような昭和の家!実際私は父を思い出す時、ちびまる子ちゃんのヒロシが思い浮かびます

そんな父でしたが、倒れる前は議会かなにかの報告が重なっていたようで、珍しく夜遅い日々が続いていたようです。もともと糖尿や腎臓病の気がある家系ですので、それまでにも軽い脳卒中は起こしていたりして、とにかく食べることが大好きな人でしたがウオーキングなどもやっていたようでした。

その日は気分が悪いと17時くらいに帰ってきて部屋で寝ていたらしく、トイレにでも立った時だったのでしょうか。「頭が痛い!」と大声を上げて倒れてしまい、母と、まだ高校生だった弟とで抱えて、救急車が来るのを待ったそうです(私と姉はすでに家を出ていた)。その頃は父の両親でもある祖父母も元気だったので、突然倒れた息子に祖父母も動揺したことだったろうと思います。

ここから前回の投稿・「声のアルバムの原点① ~父が倒れた日」となるわけですが、容体が落ち着いたのは諸々の手術も終わった3カ月後くらいだったでしょうか。呼吸器もはずされ、ひとまず24時間の付き添い体制も大丈夫かと親族で決めて、私も大阪の広告代理店を退職・6年ぶりくらいに実家に戻りました。

病状とは別の話で一山超えたらまた一山が、いろいろある訳ですが。
今日はほっこりした話を書こうと思います。

ルーティーンのような療養生活が始まった55歳の父と24歳の娘。父の元には、いろいろな人がお見舞いに来てくださいました。私は今でこそ人見知りも全くしなくなり見ず知らずの人にインタビューする仕事なんか始めちゃった者ですが(図太くなったものだ)、当時はまだ気恥ずかしさもあって、あまりおしゃべりできませんでした。入院生活も長期になるとお見舞いも減ってくるものですが(特に父は話すことができなかったので)、特に仲の良かった3人のおじさんが、本当によく足を運んでくれました。

確か、4人とも小学校からの付合い。それぞれに家庭を持たれてからも仲は良かったようで、うちで麻雀大会もよくしてたなと。若い時のアルバムを見ると旅行なんかもよく行っていたようです。

おじさん達は大体一人で、「ちょっと近くに来たから」みたいな感じでふらっと立ち寄って、父の顔を覗き込みながら「ヨネちゃ~ん、元気かよ~~」「調子はどね~か~」と声を掛けてくれていました。父も調子がいい時はまばたきやちょっとした笑顔(口角を上げる)で応えることができ、おじさん達はその反応を喜んでくれたものです。私が付添いをした1年、誰かが2週間に1回は来てくれてたような気がしますし、それは亡くなるまでの5年間、続けて下さったんじゃないかなと。

私が父の何を一番尊敬しているかというと、これかもしれません。
本当に思い返せば、お調子者の甘ったれ長男だったような気がしますが、人にとって大事なことってこういう事なのかなと。
私はこういう関係性が築けているかなぁ・・・

来週は父の十七回忌。もうこんなに時がたってしまった。
私は今回の帰省で3人のおじさんに会いに行こうと思っています、おじさん達もすっかり歳をとってしまったから、生きてるうちに会って気持ちを伝えなくちゃ。
おじさん達からしても「和ちゃん、おばさんになったのぅ~」と思われるだろうなw

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?