【煙展】燻る死神▽屈ノ丞
――苦しい。
――息ができない。
自分が望んだはずなのに、怖くて怖くて仕方がない。
――あれ? こんなに恋しかったっけ?
地に足をつけるのが、こんなにも今、恋しく思う。
でも、もう、それも叶うことはない。
汚い音だけが、喉から漏れる。
もっと早く知りたかったなあ――。
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叶うことはないと思っていたそれが叶うとき、僕は知らない屋敷にいた。屋敷中、どこもかしこもロウソクだらけで、どれもゆらゆらと淡い橙色が静かに舞っている。
ロウソクには、よく見ると名前と生年月日と思われる数字の羅列が深く刻まれていた。どのロウソクにも同じように、誰かの名前と生年月日が刻まれている。ロウソクの作り主だろうか。
「気付いた?」
背後からの声に反応して、振り向くと、一人の少女が立っていた。彼女の手には、まだ煙を立ち昇らせている一本のロウソクがあった。
――!
仄暗い屋敷の中でもしっかりと見えた。
彼女の持つロウソクには、僕の名前と生年月日が刻まれていた。
――どうして僕の名前が?
――どうして、彼女が僕の名前のものを?
駄目だ。思考が追い付かない。
喉から、口の中から、唇からとカラカラに渇いていくのだけが、僕の脳に届く。
頭の中がぐちゃぐちゃな僕を眼に映しながら、彼女は無表情のまま口を開いた。
「どうして僕の名前が? ……そう思っているんでしょう?」
彼女は僕の視線の先のロウソクに目をやる。
僕は何も答えることができなかった。彼女の無表情は変わらない。
「……何も覚えてないのね。本当に、貴方は自分が、何故、ここに、どうやって来たのかも分からないのね」
やっと彼女が表情を変えたかと思うと、その瞳は心臓を凍てつかせるようなもので、僕を瞳に映して、ただ一言、言い放った。
「――愚かね」
怖い。
「帰らなきゃ」
早くこの屋敷から出て、家に帰りたい。
部屋に一つだけあるドアにつま先を向ける。
「帰れないよ」
――帰れない?
彼女はまた、相変わらずの無表情で僕を見ている。
「帰れるわけないじゃない」
「どういうこと?」
「だって、貴方は自分から捨てたじゃない。何もかも」
「僕が?」
彼女が何を言っているのか、何も分からない。
彼女の無表情が崩れる。軽蔑するような眼差しだった。
「こっちに来て。分からせてあげるから」
彼女は踵を返して、歩き始める。留まりたい煙が僕の顔をかすめた。その煙はなんだか懐かしい匂いがした。彼女の言葉を無視して逃げ出したいのに、煙がそうさせなかった。
連れてこられた部屋もロウソクだらけで、全てのロウソクの先で橙色が揺らめいていた。
彼女は、部屋の真ん中にポツンとあるテーブルの方へと歩を進め、二脚の椅子の一つに腰掛けた。僕もつられて、彼女と対角にあるもう一つの椅子に腰を下ろした。
「あ、そうだわ。喉、渇いているでしょう。用意するわ」
さっき座ったばかりなのに、彼女はまた立ち上がる。
「待っていて。直ぐに準備するから」
僕は首を傾げる。
「君が用意するの?」
「他に誰がいるのよ」
彼女はさも当たり前のように言い、部屋のドアの先へと進んだ。
――おかしな話だ。
僕が歩いて知っているだけでも、ここは普通の家とは比べ物にならないほど大きいし、広いはずだ。しかも、如何にも「由緒ある」という言葉が似合う内装なのだ。これだけ立派な屋敷なら、給仕の一人や二人いてもおかしくない、いや、いるべきではないだろうか。
それなのに、彼女は「用意する」と言い、席を外した。――そうだ。この部屋に来るまでの間にも、誰にも会っていない。ただロウソクの灯りがゆらゆら揺れているだけで、物音という物音も聞こえていない。
「どうして?」
「どうしてが多いのね」
気付いたら彼女がティーセットと茶菓子をテーブルに置いていた。
「君以外に、この屋敷に人はいないの?」
「用意したのだから、礼くらい先に言えば?」
彼女が紅茶を口に含む。顔には出ていないが、言葉が不満そのものを語っている。僕は小さく謝る。
「一人よ。ここには、私だけが住んでいる。どうしてなんてもう聞きたくないわよ? ……安心して。どうせ、分かるから」
ティーカップを口から離す彼女は、テーブルの端に置かれた僕の名前が刻まれたロウソクに目をやった。ロウソクの先からは、まだ煙が昇っている。
「説明する前に、貴方が覚えているここで目が覚める前までのことを教えて」
真っ直ぐに僕の目を覗く彼女の眼は全てを見透かしているようだった。僕は、僕が覚えている限りでのここに来る前を、脳内で探し回る。
――僕は。
▼ △ ▼
生きていることに価値などあるのだろうか。
朝、同じ時間に目が覚めて、代わり映えしない朝食を胃に落とし、今後使うかも分からない黒板の文字の羅列をもう見返しもしないノートに写し、また、今となっては何も感じない昼の弁当の味を流し、何を目標にしているかも分からずに、ノートに延々と文字と数字の羅列を書き殴り、たった十数秒の耳に障る合図一つで、座り心地の悪い椅子から解放され、見飽きた景色を映しながら、家のドアを開け、冷めきった夕食を腹に入れ、汗と共にこびりついて離れない退屈を洗い流そうと試み、面白くもないのに、面白いだろうと言わんばかりの何が言いたいのか分からない番組を垂れ流し、やっと瞼が重くなってきたところで、自室に戻りベッドに倒れ、目を閉じる。そして、一日を思い返して、溜息を吐くのだ。今日もつまらなかったと。
生きていれば、やりたいことが見つかる。生きるということは、生きる意味を探し続けることだ。死ぬなんてことを自ら選んではいけない。生きたかったのに、生きられなかった人もいるのだから。
――何言っているんだ。
やりたいことはいつ見つかるんだ。生きる意味を探しても分からぬまま死ぬんだ。生きることを選んで何が得られるんだ。生きられなかった人のために生きたところでそいつが喜んでいるなんてどう分かるんだ。なんでそいつのために生きる必要があるんだ。
生きることの反対は無だ。死は生の過程だ。永遠の安寧だ。
未練なんてない。未練を持てるほどの生き甲斐なんて持ち合わせていない。目標もない。持とうとも思わない。そう言えば、ただただ非難される。仕方ないじゃないか。何も感じないのだから。
皆が生きているのならば、僕は無だ。真反対にいるのなら、過程である死に手を伸ばしてもいいじゃないか。
この国では、毎日26秒間隔で人が死んでいる。一日に3,000人以上の人が命を落としても、国は揺らがない。うんともすんとも言わない。その3,000人に僕が含まれたって、なんてことはないじゃないか。いつもと同じように日は昇って沈む。何も変わらずに、皆は過ごすのだ。
それなら、死に手を伸ばしてもいいじゃないか。
何のために止めるのだ。誰のために止めているのだ。僕のためか? 自分の思考を認めるためのお前のエゴか? 漠然とした理由しか述べられないじゃないか。それなら――。
――黙って、死なせてくれよ。
今日も冷めた夕飯を喉に通す。特別感も名残惜しさも何も感じなかった。
用意したバッグを持って、夜の涼しさを感じる。
少し離れた雑木林は、月の光もまともに差し込みやしない。幼い頃、秘密基地と喜んで、中が腐れ落ちて空洞になった大木の中で、日が暮れるまで過ごしていたのを思い出す。近所の奴に、将来の夢は何だと訊かれれば、迷わずに答えていた。父さんと母さんみたいにみんなを笑顔にできる人になるんだと。
年を取るにつれて、幻想にすぎないと気付いた。誰かを笑顔にすれば、誰かの笑顔が消えるのだ。誰かにとってはいい人で、誰かにとっては悪い人なのだ。誰かを愛していれば、誰かは愛されないのだ。
気付けば、キラキラしていたはずの視界は灰色で、待ち遠しかったご飯も灰を噛むようで、そして今は、これが「無」なのだと知った。抜け出すこともいつからか馬鹿らしくなった。もがけばもがくほど無力感が身体を蝕んだ。
生きていれば、やりたいことが見つかる。生きるということは、生きる意味を探し続けることだ。死ぬなんてことを自ら選んではいけない。生きたかったのに、生きられなかった人もいるのだから。
そんなに言うなら、叶えてやろう。
やりたいことも、生きる意味も見せつけよう。選んでいけない理由を探してやろう。生きられなかった人に寄り添ってやろう。
この木なら、折れることはないだろう。この紐なら千切れることはないだろう。
躊躇いはなかった。
ぶつりと途切れるその時までの短い間だけ、無から解放された。
▼ △ ▼
「人の記憶なんて、そう簡単になくならないわ。――思い出したでしょう。自分の最期」
何も言うことができなかった。信じられないと感じるのとは裏腹に、非日常なこの感覚を、冷静に受け止めている自分がいた。
「死んだ後、どうなるか。『無』だという人もいるけど、こんな世界もあるのよ。この世界は、生きている人の命を扱ってるの」
「……死神みたいだ」
「そうね、そういう人もいるでしょうね」
彼女は自分の体を確かめるように、頬を撫で、横髪を指に絡ませた。
「骸骨でもないし、黒いローブも羽織ってないし、大鎌も持ってないけどね。私はただここで、ロウソクの煙が昇るのを見届けるだけ。ここのロウソクは、生きている人たちの命そのもの」
彼女は天井を仰ぐ。大小様々なロウソクが静かに燃えている。
「ロウソクの大小はその人の寿命を表す。長く生きるなら、それだけロウソクは大きいし、早く死んでしまうなら、ロウソクはその分小さい。何もなければ、順調に炎は蝋が全て溶けきるまで揺らめく。その人の生の運命なんて、もう生まれた瞬間から決まりきってる」
彼女の指先がテーブルの上のロウソクに触れる。
「一つを除いて」
自ら命を絶った者のロウソクは蝋を残したまま煙を見せる。
「――まだ、これだけ生きられたのに」
「……生きただけ、無意味だよ。その分生まれるのは、虚無でしかない」
そうだ。それを僕は味わっていた。
「――愚かね」
無表情であることに変わりはないはずなのに、僕を真っ直ぐに映す眼は、明らかに軽蔑を向けていた。
「そう言うくせに、未練たらたらじゃない」
灯りのないロウソクの先からは、まだ煙が昇っている。
「どういうこと?」
「死は何も解放してくれない」
「……死じゃなければ?」
「自分で見つければ?」
彼女は空になったティーポットの中を確認し、席を立つ。
「仕事に戻るわ。好きに過ごして。どうせ、この屋敷からは出られないんだから」
広い部屋に一人取り残される。
ゆっくりと椅子から離れる。
――未練。
あの時、確かに僕は、無から解放されたと感じた。なのに、彼女は――。
テーブルの上のロウソクに目をやる。ロウソクの煙はまだ消えない。
ここにずっといても仕方がない。
考えても答えの出ない言葉を頭の中から引っ張り出して、テーブルの上に置く。
部屋のロウソクをなんとなく眺める。どれも消える素振りなく灯りが揺らめいている。全てが同じようで、全てが違う。大きさも色も蝋の溶け方も同じものはない。
深い意味もなく、ロウソクに指先だけ触れてみる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
「ぅわっ」
指先から脳へと熱が伝わる。熱と共に流れ込むのは、知らない光景だった。このロウソクの主の記憶なのだろうと、俯瞰して状況を把握している自分がいた。
「本当に、命そのものなのか」
ファンタジーだと、いつものように笑って流せなかった。指先にまだ少し残る熱が、そうさせなかった。
飽きることなく、部屋中のロウソクの先を眺め続ける。部屋の一角だけ、敷き詰められているロウソクの本数がやけに少ない。
近づいてみると、立派な装飾が施されたドアが、ロウソクの隙間から覗いていた。入るのを一瞬躊躇ったが、好きに過ごせと言った彼女の言葉を都合よく受け取り、躊躇った手をドアノブに掛けた。
屋敷の中のはずなのに、この部屋だけが、異様な空間に感じた。違和感の正体は直ぐに分かった。火だ。どこを見てもゆらゆらと小さく揺れる橙色は一つもない。この部屋の照らすのは、ロウソクではなく、電気ランタンだった。
電気ランタンの置かれたテーブルには、一本のロウソクが立っていた。ロウソクの先では、橙色の代わりに青白い煙だけが途切れることなく揺れていた。
僕のロウソクでないことは、大きさと名前を見れば直ぐに分かった。
――僕と同じような人がもう一人いる。
「誰の?」
無意識に僕は、そのロウソクに手を伸ばしていた。
▼ △ ▼
そろそろ雪が降り出すのではないだろうか。じんじんと痛みを感じる鼻先を天に向ける日も多くなった。
今日も、お気に入りのカフェで日が暮れるまで、彼女と駄弁る。あと何回、彼女とこの無駄で愛おしい時間を過ごせるのか。
進学先もバラバラなら、会う頻度もぐんとなくなってしまうのは分かり切っている。彼女との時間を噛み締めたい。そう思っているのに、まだまだ子供の心は、ほんの小さな石ころにイラつきを噛みついてみせるのだ。
意固地になって後に引けなくなった感情を、彼女が落ち着かせようとしてくれるのに、それにさえ、苛立ってしまう私は、ただただ彼女から離れたくなった。
「放っといてよ!」
感情そのものを映した工事音に負けない怒鳴り声と共に、苛立ちに任せて、彼女の肩を押した。彼女は唐突の衝撃によろけ、数歩後ろに下がった。一瞬彼女を睨みつけた後、前を向いていつもよりも大股に再び歩く。
歩き始めて直ぐだった。ほんの数秒だった。
彼女が私の名前を弱弱しく呼んだのが合図だった。
彼女の声をかき消すように、金属同士が鈍い音を出しながら、コンクリートに落ちる音が背後から押し寄せた。不自然に生まれた嫌な風が、私の髪を揺らした。
非日常な音。普通なら、驚いて直ぐ音の方を向くだろう。それなのに、今は向けなかった。向きたくなかった。
金属音と同時に浮かんだ予想が外れればいいと思った。心臓の音が嫌に大きく聞こえて気持ち悪かった。感情が胃から込み上げてきて、慌てて口許に手を当てる。
振り返って視界に映ったのは、予想していた光景と左程変わりなくて、彼女の姿もなかった。さっきまでの工事音も金属音も嘘だったかのように、周りは静まり返っていて、ただ、女の人の「女の子がっ」と言うほとんど言葉になっていない叫び声と男の人の「救急車をっ」と言う焦りが滲んだ大声だけが鼓膜に張り付いて取れなくなった。
彼女の名前を呼んでも、返事はない。いつもみたいに「聞こえてるよ」って言いながら、私の顔を覗き込んで笑ってもこない。
最後に触れた彼女の華奢な肩の感触が、手に残って離れない。最後に瞳に映した彼女の悲しげな顔が、頭の中を覆い尽くす。最後に聞いた彼女の私を呼ぶ声が、脳内で反響する。
ほんの少しだけ離れたかっただけなのに。
――鮮明で。
――ぐちゃぐちゃで。
――頭のてっぺんに血が上るようで。
――体の中の全ての血が凄い勢いで抜かれていくようで。
喉の奥がチリチリと痛んだ。口の中が渇いてどこもかしこも変に引っ付きそうで苦しい。視界がぼやけて仕方がなかった。かじかんだ手を伝う少し温かな液体は、冷気にさらされて直ぐに冷たくなった。
彼女の母親は、目を腫らしながら、私を慰めた。誰もが私のことを「かわいそうに」と憐れんだ。
違うよ――。
箱の中で気持ちよさそうに眠る彼女が、目を見開いて私を睨んでくる。
――そうだよね、許せないよね。
だって、私が――。
「娘の分まで生きてあげて」
――無理だよ。
夜、どんなに彼女に謝っても、彼女が許してくれることなんてない。
生きたって、彼女のための償いは生まれない。何をしたって許されない。
それなら――。
――直接謝らなきゃ。
変色する手首を見つめる私はいつも以上に冷静だった。浸かったお湯が身体を温めているのか、冷やしているのか分からなくなった。
――――彼女は、許してくれるのだろうか?
▼ △ ▼
危うくロウソクを落としそうになった。
彼女は、彼女も、彼女が――――。
「死は何も解放してくれない」
彼女が発した言葉が、ふわりと目の前に現れる。
謝罪が相手の罪から逃れられる手段だといつから錯覚していたのか。謝罪は、その罪を背負っていく覚悟である。罪からの解放など鼻からないのだ。彼女がそれに気付いた時には、もう謝りたかった友人に会うことも叶わずに、このロウソクだらけの館で目覚めることしかできなかった。
罪を背負う覚悟をして生きることこそが、友人への残された償いだった。
死してなお、彼女に残ったのは、生への未練だった。
――僕も同じじゃないか。
無から逃れたかった。無から逃れるというのは、もがき生きるということだ。人間の醍醐味を味わうことだ。僕は、死が無から逃してくれていると、陳腐な脳みそが幻想を見せていたに過ぎなかった。
あの時、確かに僕は、無から解放されたと感じた。でも、それは、本当に息絶える寸前のことだ。あの時僕は、地面が恋しくなった。僕は、生きたいと思った。
死は、それに気付くきっかけに過ぎなかった。
僕は、無から逃れたのではない。
僕はただ、唯一の救いを捨てたのだ。
「畜生。未練なんて――」
――今更消えるわけないじゃないか。
懐かしい匂いが、僕の鼻腔を刺激した。
屋敷は相変わらず、静かで、それを表すようにロウソクの先がゆらりゆらりと舞っている。数え切れないほどあるロウソクの中で、異常に踊る灯りが目に入った。
蝋を余らせているロウソクの先が激しく揺れ、揺れたかと思えば、途端に消えようとしている。消えかけた灯りに手をかざして、灯りを正常に戻す。
「また、そんなことをしているの」
「――死は何も解放してくれないから」
「……そうね」
今日も僕は、消えかけた灯りに手をかける。
僕が燻っているかぎり。
fin.