nymphomania

彼女にとってセックスはただ楽しいことであって、例えばキスをしたり、手を繋いだり、否、ただ対話することと同じことだと考えていた。
もしその行為に意味を与えるなら、それは自分次第。意味のないセックスもあれば、最高に官能的な対話もある。
辛いセックスや、苦しいセックスは存在しない。身一つで可能な、相手と共有できる(相手以外とは共有できない)娯楽の最たるものである。

彼女は嘘を吐くのが苦手だった。他の何よりも嘘を吐くことが、特に自分を欺くことが一番罪悪感を持つことだった。
そうは言ってもあけすけに、全てを曝け出すことが正義でもない。自分が罪悪感を持たなくとも、世間で悪とされていることについては、把握しているつもりだった。
だから彼女は、必要以上に語らない。このとき一番の罪は、明らかになってしまうことだ。シュレディンガーの猫のように、知らなければ、その事実は50%存在して50%存在していないのだから。

彼女が一番愛する人はたった一人だった。まるで恋のように異性と楽しむ時間があっても、いつだって一番愛している人の存在は揺るがない。そしてそれは自信を持って、今隣にいる異性にだって、聞かれれば本当のことが言えるのだ。そして、今隣にいる異性だって、心の底から恋しいと思うのは本当なのだ。
さらに言えば、この社会的に赦されざることは、それ以上でも以下でもない。社会に赦しを乞う必要はないからである。つまり彼女は開き直っていた。
ただひとつ、人を傷付けたくなかった。特に一番愛する人のことは傷付けたくなかった。身勝手な女である。

彼女の人格はひとつであった。極めて凡庸な性格で、嘘も吐けないのだから、他者を巧妙に欺くことなど不可能。そしてその徹底的な正直さが、彼女の罪悪感を消していた。
では、正直に生きれば良いものなのか。それを誰かに問うて、誰が幸せになろうか。誰に指摘されて、誰が幸せになろうか。それが彼女の考え方だった。

自分だけが自分を正当化して生きる、人間にとって人生において、これ以上のことはない。身勝手だろうが社会性がなかろうが、倫理観がなかろうが、それを他人に押し付けることなく、ただひっそりと思い続けることが、罪悪なわけがない。

究極に幸福な自意識を持った、滑稽な女の話である。

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