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小沢健二「So kakkoii 宇宙 Shows」で見たもの

2022年6月に小沢健二によって日本各地で行われた「So kakkoii 宇宙 Shows」。

そのいくつかを訪れることができたので、そこで見たもの、感じたものを覚えているうちに書き記します。人は忘れるので。

こちらは本編。開演前の話はこちら。

開演へ

開演前BGMは野性的なビートを奏でながら、時折音量が大きくなったり小さくなったりを繰り返す。開演時刻はとうに過ぎているが、誰もそれを気にすることはなく、ただただ「待つは希望」とばかりに、それぞれ電子回路を付けたり消したりしてみたり、本を読んだり、会場アナウンスで言われたとおり携帯電話のフラッシュをグッズの蓄光素材部分にあててみたりしている。

ステージの上には、所狭しと楽器や機材が並んでいる。ステージど真ん中にマイクとギターアンプがあって、囲むようにドラムセット、ベース&アンプ&シンセベース、パーカッション、ハープ、大量のキーボード、そしてティンパニ&ビブラフォン&チューブラーベル&その他。後列には大量のカホンや譜面台やマイクが並ぶ。

スクリーンやカメラなどは見当たらず、特別な舞台演出を思わせるようなセットもなく、ただただ演奏の狂乱を予感させる無人のステージをぼんやりと眺めていると、いつのまにか何とも形容しがたい、蛍光色のだぼだぼの服装の人たちが3人登場し、それに気付いた観客から拍手で迎えられる。3人がそれぞれベース、パーカッション、ティンパニの前にスタンバイするとBGMが途切れる。

ティンパニの音が静寂を破ったかと思うと、聴き馴染みのあるベースのフレーズが始まる。「薫る(労働と学業)」だ。即座に観客も反応し手拍子で応える。

すると「ブルックリン!!!!橋を渡りィ!!」と絶叫が聞こえる。小沢健二の声だ!姿は見えないまま「運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)」のラップパートを叫ぶ!そうしてひとしきりラップしたあと、今度はバンドメンバーの名前を叫ぶと、呼ばれたメンバーが一人ずつお揃いで色違いの蛍光色服のいでたちで登場する。まずは第一バイオリンから。気がつくと小沢健二は「薫る」のベースに乗せて「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」のラップパートを叫んでいる。ベースとパーカッションとビブラフォンだけだった「薫る」のフレーズにおなじみのストリングスパートが重なり、世界が広がり始める。残りのメンバーも小沢健二が呼び込み、30人全員が揃ったところで、会場の明かりが落とされ、同時に闇の中で全員での演奏による「薫る」の全力のイントロが音のかたまりとなってこちらを圧倒する。

闇の中でフードを被った小沢健二がセンターマイクに向かう。背後では、全員が闇の中でそのシルエットが怪しく蛍光色に浮かび上がっている。そのなかで一人だけ蛍光発光していない小沢健二が、暗闇の中でノートを取り出し、すこし静かになった演奏の中で話しはじめる。

内容は「突然『日常の裂け目』から現れたCOVID19により非日常が日常となった」「この2年間でみんな2歳分、年を取った」「年を取ることについては、昔からポジティブに歌にしてきた(大人になれば、東京恋愛専科、天使たちのシーン等)」「年を取ると、死ぬことの話は次第にタブーになる傾向がある」「しかし生まれて年を取って死ぬことの輝きを僕らは知っている、だから皆もここに来ている」「今回のライブでは『離脱』という合図で演奏がゆっくりになる」と話す。

ノートを置いた小沢健二が「薫る」の繰り返しフレーズをどぅんどぅん歌いながら口にすると、演奏が止まる。


演奏が止まったその時、一瞬だけ、暗闇の中で、
この朗読の後ろで演奏されている曲が
「薫る」ではなく「ウルトラマン・ゼンブ」であった
並行世界が見えた気がした。
そのステージではバンドメンバーは
蛍光色が格子状にデザインされた服を着ていて、
人数もかなり少なかった。
その世界でも小沢健二は
同じことを話していた気がしたが、
一体どこからその並行世界を
垣間見ることができたのかも
わからないままだ。


再び時間が動きだし、その暗闇に「日常の裂け目」が稲妻のように現れると同時に、イントロがかかる。「流動体について」だ。骨太なリズム隊の演奏に、疾走感と浮遊感のあるストリングスが乗ると、いつのまにかフードを脱ぎ捨てた小沢健二が叫ぶ。「LIGHTS ON! 付けろッッ!電子回路ッッ!」。皆が手元をゴソゴソやると、会場はあっというまにピンクと緑に染まり、アイドル現場でよく見る非日常的な景色に染まっていく。力強いホーンを先頭に、各楽器がこれでもかと演奏を盛り上げ、熱が籠もっていく。

そして小沢健二が「並行する世界」を歌う。

思わず、もしも2年間半前までの日常が続いていたら…という並行世界を想う。

同時に、いま「流動体について」が作った「日常の裂け目」から、2年前に本来の予定でライブが開催された会場にいるはずだった自分が、曲に導かれて、この場所に連れて来られるような感覚を覚えた。良かったね。小沢健二のライブに来れたね。

一心不乱にギターソロを弾く小沢健二。しつこく最後のサビを繰り返し、会場の動きも拍手も大きくなってくる。

非日常が日常となっている、まるで並行世界のような現実」と「日常が日常のまま進んだ、まるで現実のような並行世界」が「流動体について」が作る日常の裂け目によって繋がる。その裂け目から、両方の世界を交互に眺める。

最後のギターソロを弾きおえ、駆け上がるようなストリングスの熱が爆散し、曲が終わる。


また時間がとまり、日常の裂け目から
一瞬だけ並行世界が現れる。
その世界では「ウルトラマン・ゼンブ」が演奏され、
日常の裂け目の端からは
すべてのウルトラマンの特徴を兼ね備えたかのような
見たことのないヒーローが、
未来を救うために
こちらの世界をのぞき込んでいた気がした。


ティンパニの音を合図に、その裂け目から見える光景が変容する。裂け目からはその都市の夜景を上空から眺めた景色になっていた。「飛行する君と僕のために」のイントロが演奏される。

この曲も「非日常が日常に変わっていった」現実のなかで、録音され、私たちの手元に届いた曲だ。しかしその日演奏されたこの曲は、音の厚みも、歌い方も、私たちの部屋に届いたものとは違っていた。「孤独な夜と不安をひとりでも恐れることなく進む」という感じの録音版に比べ、そこで見えたのは「不安を抱えても、前を向いて、みんなで飛ぼう!」という自信に満ち溢れたバージョンだった。

なるほど、この裂け目から、夜の空に飛び立てばよいのだな、と考えていた。その時。

その瞬間は訪れた。

「離脱」である。

小沢健二が、間奏中に突然「離脱!」と叫ぶと、演奏のテンポが半分になり、照明のトーンが暗く変わった。

その瞬間、何もかもから離脱した私たちは、体の動きがゆっくりとなり、その分思考の速度が2倍になった。何が起きたかを理解できずに混乱している間に、小沢健二は「戻る!」と叫び、テンポも照明も元に戻った。

今しがた自分の身に降りかかった出来事が何なのかをわかる前に、曲はどんどんと前に進み、私は「本当のこと」を運ぶため、日常の裂け目の間から見える夜の空へと飛び立っていった…。

夜の街の上をスカイダイビングのような、夜間飛行のような、落ちているような、浮かんでいるような姿で、しばらく過ごしていると、オリエンタルなビブラフォンの音が聞こえてきて、ジャジーな演奏が始まる。気が付くと辺りはすっかり明るくなっていて、並行世界の東京の上空を飛んでいるようだった。「大人になれば」だ。

小沢健二の朗読が始まる。内容は「並行世界の東京では『大阪の道頓堀』ぐらい有名かもしれない『古川』」の話。なるほど。開演前にロビーで見た、あの地図の話だ。「古川は今は地下を流れていてあまり見えないが、『アルペジオ』ではこの川のことを歌った」ということや、「『アルペジオ』のジャケットを撮った界隈は古川の上を、流れに沿って、つまり建物を避けるように、高速道路が走っていて、それが『東京恋愛専科』に登場する『急カーブ』の形だと気づいた話」から、「過去の川の流れが現在の街を作るように、現在の私たちにも未来が含まれている」話になった。

曲がはじまると、日常の裂け目が見せてくれる風景では、私は上空から地上に降り立っていて、並行世界の東京の新宿御苑のあたりにいた。そこから曲を聴きながら、並行世界の東京の「古川」の流れに沿って歩いていく。

僕らは歩くよ どこまでも行くよ 何だか知らないが 世界を抜けて

東京の代名詞として街をたゆたう「古川」を中心に作られた街並みの真ん中を、我が物顔で流れる並行世界の古川。今の東京とは少し違う風景を眺めながら、時間をかけて、川沿いを歩いていく。楽しく歩いていると古川が嬉しそうに話しかけてくる。「私の流れに沿って、街が作られるんじゃないかな、って昔から思ってたんですよね。」

すると白髪の小沢健二が歌う。

何だか知らないが 白髪になってね
誰かの歌を聴くと 夏の日は魔法
夏の日は魔法! 夏の日は!魔法!

その瞬間、並行世界の東京の幻は霧消し、現実の東京が現れた。このあたりは麻布十番の近く、いわゆる「アルペジオ界隈」だ。「アルペジオ (きっと魔法のトンネルの先)」のイントロのギターが流れ出す。

現実の古川は、こちらに話しかけてくることなく、静かに、光の当たらないところを流れている様子だった。しかし、その静かな流れは、ゆっくりと確実に、汚れた川を再生の海に届けている。この世界では古川は有名ではないけれど、古川が暗がりを抜けた先に海が開けているように、トンネルの先には心を通じあわせることのできる人がいる。そして、あの2年間の暗がりの、そのトンネルの先が、このライブ会場なのだと、周囲に何千人といる小沢健二リスナーを眺めながら静かに思う。

小沢健二の歌詞で歌われている順番とは逆に、アルペジオ界隈から原宿を経由して、駒場図書館に行ってみた。夏の日の魔法は少し過ぎ、秋が来ていた。図書館を過ぎ、なんとなくそのあたりを歩いていると、いちょう並木が見え、「いちょう並木のセレナーデ」が聞こえてくる。黄色いトンネルの下を歩く。

イントロのフレーズをホーン隊がやさしく奏で、ベースパートをキーボードが演奏し、ベーシストはソロを取り、ストリングスやハープがきらめく。大規模でありながら、細やかな演奏が会場を包む。小沢健二はギターをチューニングしながら歌う。

いちょう並木を歩きながら、小沢健二の90年代の狂乱の日々を勝手に想像する。その時過ごした時間や呼び交わし合った名前が、星屑となって遠くへ飛び去っていったりしたのだろうか。その飛び去った星屑は、どうなってしまうのだろう。僕らの体はかつて星の一部だったと言うから、またこの地球に落ちてきて、誰かの体の一部になったりするのだろうか。Stardust 落ちてくる、なのだろうか。

いちょう並木を抜けて、しばらくするとまた曲は「アルペジオ」に戻っていた。季節は春になり、日比谷公園の噴水に虹がかかっていた。遠くのいちょう並木には青々とした葉がしげり、小さく星屑が光った気がしたが、それは遠くにいる君の声を聴いた私の涙にも思えた。

再び「薫る(労働と学業)」のフレーズが流れる。小沢健二は「この曲は1時間後ぐらいにやります」と笑う。再び朗読を始める。内容は「ライブではよく『Sing it! (歌え!)』とあおり、『I can hear you! (聞こえるよ!)』というが、マスク着用・大声NGのライブではそれができない、と思いきや演者側に見える・伝わる光景はあまり変わらない」「歌っていても歌っていなくても聞こえるし、伝わる」という内容。そういえば以前の小沢健二のライブでは喉をガラガラに枯らすまで叫んでいたなあ、と思い出す。

すると、嵐「Sakura」のイントロのようなギターが奏でられ、魔法的電子回路の電源を消すように指示される。暗闇のなかでおなじみのフレーズが折り重なっていき、ひそかに「今夜はブギーバック / 大きな心」が始まる。1994年頃の東京と、2000年頃のニューヨークの景色が、妖艶で怪しげなストリングのフレーズによって交差する。暗闇のなかで、ミュージシャン達の蛍光色の服が浮かび上がり、揺れ、不思議な気持ちを増幅させていく。「おなじみのブギバ」とはちょっとちがう、すこし落ち着いた伏し目がちな「今夜はブギーバック」が描かれていく。

あの大きな心 その輝きにつつまれた つつまれた あの大きな心を

孤独で、尖ってて、温もりを恋しがりながらも、まるで人を拒絶するかのような冷たささえあった「Eclectic」バージョンに対して、今回のSo kakkoii 宇宙 Showsでは、その直前に「Sing it!」の話をしたことからも分かるように、大きな心を一緒に心で歌って共有したい、というオープンさがあった。「大きな心」の「心」の意味も、「アルペジオ」の「本当の心」を経て、変わったのかもしれないな、ということを思った。


この曲の間だけ、見えた並行世界があった。
その世界では「シナモン(都市と家庭)」が
演奏されていたような気がしたが、
霧がかった海に消えていく海賊船のように、
それも見えなくなってしまった。
霧が晴れるとそこは1992年だった。


一瞬の静寂の後、スチャダラパーの3人が登場し、一気に「おなじみのブギバ」が帰ってくる。演奏はクールで妖艶な「今夜はブギーバック / あの大きな心」のまま、その分スチャダラパーのお気楽でアッパーなラップが引き立つ。これまでにない「ブギーバック」が誕生した。自分も小沢健二の「Sing it!」に無言のスクリームで応える。「I can hear you! きこえるきこえる!」と小沢健二も返す。大熱狂のブギーバックを終え、スチャダラパーが去っていく。やっぱり小沢健二とスチャダラパーが揃うとついつい流されて盛り上がってしまう。誰のせい?それはあれだ、夏の日の魔法。

…気が付くとあたり一面は雷雨に襲われていた。「あらし」が始まる。観客達も屋根のないアンフィシアターの客席で、集団で大雨に打たれている。皆、一心不乱に全身で大雨と稲光を表すような、不思議なダンスを踊っていた。次第に雨に打たれているのではなく、私たち自身が雨や雷で、私たちが動くから雨が降り、雷が落ちているのではないかと思うようになった。それは時折訪れる「離脱!」の瞬間のせいかもしれなかった。

その大雨は止むことなく地面に降り注いだ。その多くは側溝に流れていき、やがて汚れた川となった。いずれ再生の海へと流れていくのだろう。その大雨の水のうち、水捌けの悪い土地に流れていったものたちは、茶色く濁った、まるでチョコレートのスープのような池を作っていった。

フクロウの声が聞こえる」が鳴る。

「魔法的オリジナル」バージョンとオーケストラバージョンが合体した、最強の演奏がそこにあった。父と子の対話は宇宙で行われ、渦を巻く力の中で、日常の裂け目からたくさんの秘密を見せた。「So kakkoii 宇宙 Shows」の名の通りのことが、目の前で展開されていた。混沌と秩序、ベーコンとイチゴジャム、直観と推論、孤高と協働、本当と虚構…。そのすべてが一緒にある「いつか」の世界が、すぐそこにあると思えた。それは本当に近くにあるのか、日常の裂け目が見せた幻想なのか、そのどちらでもあるような気がした。宇宙の力に導かれ、私は小沢健二の合図がないままに、「離脱」を体験することになった。

その瞬間が訪れたのは、「フクロウの声が聞こえる」がいつのまにか「天使たちのシーン」に変わっていた時からだ。「フクロウ」の力に後押しされた、オーケストラ演奏(通称:正調)の「天使たちのシーン」の力で、私は季節のループから離脱し、人生という決められた時間からも離脱し、この世界で起きることのすべてを一瞬と永遠のうちに天使として眺めることになった。海岸の足跡、ネッカチーフの鮮やかな朱い色、約束を交わす子供たち、雪を払い跳ね上がる枝、返事じゃない言葉を話す人たち、にぎやかな場所でかかりつづける音楽…。すべての事象が一瞬のうちに目の前を通り過ぎ、そして永遠に何度も起こっていた。実際の演奏がどれほどの長さだったのかは、もうわからなくなっていた。生まれて育っていくサークルの中で、自分の役割さえ忘れそうなほど、この曲に浸っていた。

そんなことで頭をぐるぐるさせると同時に、私はこのライブでこの曲をほぼフル尺でやることの意味も考えていた。まず考えたのはこの2年間の間に、非日常の出来事によって命を失った多くの人々への思い。そして様々な事情で今回のライブ会場では小沢健二に会うことができなかった人のこと。もともと追悼歌の意味も大きいこの楽曲だけれど、こと「命」というものを守るために、全人類が精いっぱい戦ったこの2年を経て、この曲が宇宙に捧げられることの尊さを思っていた。

同時に考えたのが、生まれて育っていく命の話。星屑が再び高い塔に落ちて、地球で生まれ育つこと。小沢健二目線で平たく言えば、りーりーとあまにゃんへの思い。子育てのめんどくささと愛おしさみたいなところもグルグルと考えていた。

…私が「一瞬と永遠の天使の呪縛」から離れ、「戻る」きっかけになったのは「ローラースケート・パーク」のイントロのギターフレーズだった。2つのコードをギターで繰り返しシャカシャカ弾く小沢健二を見て、「一番聴きたかった曲だ!!」とシンプルにファンとしてはしゃいでいた。わーでゅ♪わーでゅ♪

やはり「ローラースケート・パーク」は曲の構造が「彗星」に凄く似ているなあ、と思う。

それでここで君と会うなんて 予想もできないことだった
神様がそばにいるような時間

小沢健二が縁で出会った人たちのことなども思いながら、改めて「時間」の有限さを思ったりする。

日常の裂け目からは、公園で思いっきり遊ぶ子供たちや、空を見上げてる犬を、天使たちが見守っているのが見えた。そんな中、ここで偶然君に会うなんて、と驚いていたら唐突に「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」が始まる!「ばーらーばー!」と心で歌いながら、腕を上げて左右にブンブンふるダンス。日常の裂け目も急旋回し、先ほどの「アルペジオ界隈」あたりでドライブをすることに。なんだか楽しいドライブになりそうだ。

東京タワーを過ぎる急カーブ曲がり

現実の古川が、空を遮る首都高速に向かって笑いかけたような気がした。

街でみんな夏の噂 僕たちのロマンスは
バレてない!バレてない!

小沢健二がそう歌うと、車は間もなくレインボーブリッジに差し掛かろうとしていたのに、ブルックリン橋になっていた。曲は「運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)」に変わっている。気が付くと「ニューヨーク恋愛専科」が始まっていた。これ多分バレてるな。

この曲も2年間の延期のあいだに書かれた曲。レインボーブリッジとブルックリン橋のワープトンネルも、2年前だったら存在しなかったかもしれない、とそんなことを思う。ちなみに昨年末のMステでは、このワープトンネルはブルックリン橋と多摩川にかかる橋を結んでいた。おそらくこのワープトンネル?ワープ手段?はUFOの形をしていると思う。小沢健二がダンスで教えてくれた。

小沢健二が恋愛のウキウキを詰め込んだこの曲で、時折離脱しつつ浮かれ浮かれていると、突然またもとに戻るスイッチが発動する。すなわち

ああ なんてことだ!

そう小沢健二が叫ぶと、たちまち曲は「ローラースケート・パーク」に戻り、妄想の首都高デートとニューヨークデートから、君と出会った公園のシーンまで戻る。さあ、ここで改めて君と会ってから、まばゆい愛の未来を創るには、どうしよう。

ありとあらゆる種類の言葉を知って
何も言えなくなるなんて そんなバカな過ちはしない
過ちはしない 過ちはしなあああああああああああい

まばゆい未来を創りたいけれど、迷い過ぎて何も言えなくなりそうなときは、どうすればいいの?

それはもうここにいる人たちはわかっている。持つべきは「強い気持ち」と「強い愛」だ!

強い気持ち・強い愛 1995 DAT Mix

ついに待ち望んだストリングスバキバキの強気強愛!しかも1995 DAT Mix!金麦持ってこい!天に上るようなイントロのストリングスから、秒で会場の熱気も最高潮。「Lights on! 付けろ! 電子回路!」で会場が再びピンクと緑の海に。2色の電灯が波のように揺れている。ああ、どうして大声でこの歌をシングアロングできないのだろう。マスクの裏にこの曲の歌詞が印字されて浮き上がってくるんじゃないかっていうぐらい心で叫んだ。小沢健二も「I can hear you!」を連発する。いつもなら大絶叫合唱のラストサビも、これでもかと繰り返しやる。観客の心の絶叫はきっと筒美京平さんにも届いていたと思う。演奏の熱もすごかった。ストリング隊が左右に大きく揺れるたびに会場が大きく揺れているかのような幻想が弾けた。君の声を聴かせて(=Sing it!)。1995 DAT Mixで追加された「強く 強く 強く」の後のストリングスのみのパートの高揚感がすごかった。ほとんど無重力。これぞ宇宙。


ここでまた並行世界が見える。
「強い気持ち・強い愛」が突然
強烈なギターと印象的なシンセベースフレーズに
とって代わられ、「上昇する気温のせいで」と始まる。
天気読み」だ。
「強い気持ち」と「強い愛」を持ったうえで、
それを信念に、何か一つ行動に移してみる
(電話をかけてみる、新しいフレーズを届けてみる)
ことが大事なんだ、と伝えたかった気持ちが
見せた幻なのかもしれない。


現実世界でも、実際に気温が上昇し35度を超えた影響なのか、35度を超えた日から「天気読み」が日常の裂け目から漏れ出し、バキバキストリングスとつよつよホーンありのファンク交響楽バージョンとして顕現した。これが果たして上昇した気温のせいなのか、「晴れた朝になって君が笑ってもいい」という小沢健二の粋なのかは、わからない。とにかく「天気読み」でこんなに踊ることになるとは思わなかった。

楽しかったメドレーの締めを飾るのは「強い気持ち・強い愛」のおかわり(アウトロのみ)。無事楽しい楽しい祭りは大団円を迎えた。


気が付くと、レインボーブリッジに立っていました。ひとりでレインボーブリッジに佇んでいると、橋の上に一羽のカラスがいるのを見つけました。その聡明そうな顔をしたカラスは、不思議そうにこちらをしばし眺めた後、大胆に優雅に飛び立つやいなや、一羽だったはずが二羽に分かれ、一羽は東京タワーの方へ、一羽はスカイツリーの方へ飛んでいくのが見えました。橋の上から見える2つの塔を交互に眺めていると、小沢健二が「高い塔」のイントロのギターを弾きます。

凍えるような、うねるようなストリングスが鳴り、小沢健二が歌い始めると、レインボーブリッジはブルックリン橋になっていて、フリーダムタワーに向かって飛び立つカラスが見えた気がしました。そのタワーは本来ワールドトレードセンターが立っていた場所に立っている塔です。

もう少しよく見てみようと目を凝らすと、また景色がレインボーブリッジから眺める東京タワーとスカイツリーに戻るのでした。どちらの塔も見れば見るほど、直線的な曼荼羅のような、神殿のような、複雑で不可解な塔で、それ自体が東京そのもののようでした。

塔自体をずっと凝視していたのでしばらく気が付きませんでしたが、2つの塔めがけて、空からキラキラしたものが断続的に降り注いでいるようでした。それはなにか星屑のように見えましたが、自分にはなにか覚えのある、古い友人のような、遠い約束のようなものに思えて、懐かしくなるのでした。

高い塔に降り注いだ星屑がどうなるのかは、わかりませんでしたが、近いうちに、どこかで、その星屑が生まれ変わった姿と最高の形で出会えるような気がしてならないのでした。


キラキラと会場に降り注いだ星屑(Stardust)が消えていくように、小沢健二の「Lights out… 消える… 電子回路…」の合図とともに、会場が暗闇に包まれ、ピンスポットの当たった小沢健二と私の二人きりがホールに残される。

小沢健二のギターで、それが「泣いちゃう」だとわかる。
広いホールに小沢健二と私の二人きりなので、目の前で小沢健二が訥々とギターを爪弾きながら、自分の方を向いて、歌いだす。
無人の表参道、地球のこと、一人のキッチン。そうして小沢健二が叫ぶ。

だってそうじゃん!

すると突然ステージに演奏メンバーが現れ、会場にも何千人という観客が現れる。小沢健二と二人きりの時間は終わり、さっきまでのライブ風景に戻っていく。

そうして大観衆を前に、改めて小沢健二がこの「非日常が日常になった世界」について歌い始める。「生活は続けなきゃいけない」けど「逃げられない」!じゃあ「逃げちゃおっか」なーんていったりして、奥歯かみしめて生活を続けるために頑張ってたよね。世のありさまを呪いつつ踊ったりなんかしながら。この2年間みんな各々大変だったし、きっと自分もそれなりに大変だったんだな、ということをこの歌詞を聴きながら思う。

そうして語る小沢健二を見て考えたりしてるうちに、静かに始まった演奏が、にわかに熱を帯びていき、カホンの音が次第にビートを刻み始め、気づくとドラムもベースもグルーヴィーにビートを刻んでいる。あの物静かな始まり方からは想像もできないぐらいボルテージが上がり、いつのまにか次の曲に移っている。

聞き覚えのあるコードを小沢健二が弾き始める。「ある光」だと気づくが、会場はまだ「泣いちゃう」のしんみりトーンを引きずってか、大人しい人も多い。2018年の「春の空気に虹をかけ」ツアーで演奏された時と同じストリングスのフレーズがかかり、一気にギアが入る。歌いだしで「ある光」と気づく人、サビのハンドクラップを爆音で叩く人、ずっと頭をブンブン振って踊ってる人、それぞれの「ある光」の受け止め方をしている。

「ある光」は演奏される度に違った表情を見せる曲だ。原曲(録音版)は、とにかく悲痛さで溢れていて、今居る場所から降りて新たな光を探すことへの渇望が生々しい。その後、2010年の復活ツアーで演奏された弾き語り(ひふみよ版)は「時間軸を曲げて」への橋渡しとなる予兆のみ。2017年末の峯田和伸とのセッション版は(峯田による)表現することへの畏敬が込められている演奏。そして革命的だった2018年の春空虹版は、疾走感と多幸感で上書きされた、前向きに進んでいくことを宣言するものだった。そして2021年末、気迫のエレキ弾き語り(マイクロ魔法的版)を経て、また新たな「ある光」が生まれた。

So kakkoii 宇宙版「ある光」は、演奏については春空虹版を踏襲しているが、世の中が置かれている状況や、その前の「泣いちゃう」で歌われていることを踏まえると、新たな解釈が見えてくる。その解釈とは「もうすぐでトンネルから抜け出せるかもしれない、という希望」を歌っている、というもの。

原曲版が持っていた「現状から脱したい」という悲痛さが、現在の「非日常な世の中から脱したい」という願いとオーバーラップしており、そのうえで現在の「もう少しでこの状況にも終わりが見えるかもしれない」という希望が、春空虹版の疾走感・多幸感と重なり、さながら「いまは水中で息を止めていて苦しいが、水面が近くなっていて、まもなく水面に顔を出せる」という感じ。言うなれば、

気が付くと、演奏していたホールが水で満たされて、客席は巨大な水槽の底になっていた。水中でも力強い演奏は続いている。小沢健二の歌う「泣いちゃう」で、自分が息を止めていて苦しかったことを初めて自覚した観衆が、「ある光」を合図にホールの上の方にある水面に向かって泳いで上がっていくのだった。もうすぐ水面にたどり着ける、一緒に行こう、光と!と演奏が背中を押す。

という感じ。

ある光」の力で、暗がりを進み、トンネルを抜けた先まで進んでいった私が、その先で見た光景は、So kakkoii 宇宙 オーケストラの演奏する「彗星」だった。

「So kakkoii 宇宙 Shows」は「彗星」を生演奏するためのライブである。「そして時は2020」(結果的に大嘘)のあと、イントロが鳴った瞬間、誰もが「本物の『彗星』の演奏だ!」と思ったはず。そう、ずっと、ずっとこれが聴きたかった。

本当は観客が喉から血を流すぐらい一緒に歌って初めて完成するものだが、今のところはI can hear you!で対応することでよいとする。これもいつかまた絶対に実現してほしい。

2年間延期された結果、この「彗星」が、現在の「非日常な世の中」の予言っぽくもあり、この混乱の振り返るためにある楽曲でもあり、という面白い立ち位置の曲となった。日常の裂け目の、「片側から反対側を見ている」曲として、両方側からの視点で成立するような、やっぱりすごくて不思議な曲である。

なんて素敵なんだろう‪ ‬
素敵なんだろう 
素敵なんだろう‪ 
素敵なんだろう
素敵なんだろう
と!

そう言いながら小沢健二が腕をグルグルと回すと、宇宙が回転し、渦を巻いた。会場がグルグル回っているのか、宇宙そのものが回っているのかは分からなかったが、無数の星が回転するさまは、特大のミラーボールが宇宙を照らしているのようで綺麗だった。僕のそばにいる猫が僕を見た。

そうして「あふれる愛がやってくる!」という呪文と爆音の高速ハンドクラップとともに、「流動体について」が切り裂いて開いた日常の裂け目はどんどん閉じていったのだった。

日常の裂け目が閉じると、小沢健二とミュージシャンたちは舞台から去っていった。





突然、飯倉片町でよく聴こえたあのフレーズが聴こえたかと思うと、日常の裂け目がまたちょっと開き、裂け目で眠る猫が背中を丸めて「涙に滅ぼされちゃいけニャイ!」と叫んだ。それに呼応するかのように小沢健二は「なおす力」について朗読をする。そしてその場にいる人に「なおしなおされて生きるのさ」な、よしよししてほしいダンスをしながら「失敗がいっぱい」を歌う。特にこの2年間、思わぬ傷つき方をした人がいっぱいいるって知ってるんだね。やさしいね。

突然失敗に落ち込み、悩み、迷える私たちの前に「扉」が現れた。

HELLO!と書かれたその木製のドアを半信半疑で開けてみると、扉の向こうから「ドアをノックするのは誰だ?」とイントロが流れる。中に入ろうと、思いっきり扉を開けようとした瞬間、小沢健二が「離脱!」と叫ぶ。

スローモーションで扉をあけ、中に入ると、東京タワーから海へ続く道に立っていた。「ぼくらが旅に出る理由」が奏でられる。空へ駆け上るかのようなストリングスにのり、身体がにわかに羽田沖に向けて浮かび始める。

ストリングスが美しく鳴り響くイントロで「Light on!」を叫ぶ展開は1曲目「流動体について」を彷彿させ、少しだけ日常の裂け目が開く。宇宙と暮らしを瞬時に行き来し、身体は重力に逆らう。

かつて君は摩天楼で 僕にあてハガキを書いた

そういえばかつて小沢健二にハガキを書いたことがあった気がしてきた。無いんですけどね。

そして毎日は続いてく

この「毎日」は、So kakkoii 宇宙 Showsを経た後で、「非日常が日常となった世界」のことを指しているんだな…とぼんやりと手を振ってしばしの別れを告げる。



並行世界では
エル・フエゴ(ザ・炎)」と
愛し愛されて生きるのさ」が
鳴り響いているのが見えた気がするが、
日常の裂け目がほとんど閉じていたので、
もうあまりわからなかった。


みたび「薫る(労働と学業)」のイントロが始まり、小沢健二は「ね?やるって言ったでしょ?」と笑って見せる。かわいい。

そうして最後の朗読を始める。内容は「90年代に僕を見つけてくれた人たちは今40~50代で、お子さんと来ているかもしれない」「ややこしい歌詞を歌う僕を見つけてくれてありがとう」「お子さんのパパやママはめっちゃクールだったし、今もクールだ」「ありがとう友よ」というもの。

えっ、私たちのこと友だと思ってくれてるの?え?俺ってオザケンとマブダチってコト?え?マジで?じゃあこんど一緒にAmong Usやろうよ!

…なんて調子乗っちゃうくらい、リスナーへの感謝ソングだったし、これ以上ない生活応援ソングだった。それも上から目線じゃなくて、各々頑張って生み出して薫らせていこう、っていう肩組み型の応援。

さんざん前フリ(?)をたくさんしていただけあって、演奏もキレキレでSo kakkoii。やっぱり原曲の編成に近い演奏なので、これも「やっと本物が聴けた」という感覚も凄くよかった。

大サビの「離脱」の連打すごかった。でもおかげで「何が最高か」が変わることが、ものすごくよく分かった。しつこい。そこ好きなのだ。

最後に「彗星 Abridged version」が演奏される。

そして時は2022 全力疾走してきたよね

2000年代を嘘が覆い イメージの偽装が横行する
みんな一緒に騙される 笑
だけど幻想はいつも崩れる 真実はだんだんと勝利する
時間ちょっとかかってもね

今ここにある‪ ‬この暮らしこそが宇宙だよと
今も僕は思うよ‪ ‬なんて素敵なんだろうと 
澄む闇‪ ‬点滅する赤い light‪ ‬脈を打つよ街と
空を横切る彗星のように見てる

そうして呪文を唱える

5 4
  \離脱!/ 
‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬さぁぁん! にぃぃい! 
‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‬‪ ‪ ‬‪ ‬‬\戻る!/  
                1  生活に帰ろう

この最後の呪文で、日常の裂け目は完全に閉じて、ホーキンスには平和が戻った。

2022年6月、小沢健二は彗星の如く空を横切り、渦を巻く宇宙の力で日常の裂け目から少し秘密を見せて、去っていった。

なんとなくだけど、So kakkoii 宇宙 Showsを通じて、きっと私も、みんなも、実は小沢健二とはずっと友達だったんだよ、ってことが分かったんじゃないかなと思う。なんつって。今はそれでいいと思う。

私は、次の彗星が見れるのはいつになるのか、心待ちにしながら、その日までは「1993年のオザケンキャップ」をがしがし被って生活をしたい、と思う。

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