一体誰がこんな文読むのかしら
一体誰がこんな文読むのかしら
誤タップ?興味本位?
自分の書いた文章を他人に読まれることの違和感ってどこかで拭われるタイミングが来るの?
読書感想文とか作文を読み合って評価し合う授業も
過去の日記を読み返すときも
自分の書いた脚本で演劇したときも
恥ずかしいな、緊張するなという気持ちが混在していた。ちょっとした文章を褒められたり、文才があるよとふわっと言われたときには嬉しくて、そわそわして、舞い上がってしまう。それと同時に、文章を通して自分自身を覗かれているような気がして、知ってる人に自分の文章を読んでもらうのが苦手だ。
でも自分が読み手に回るときは書き手の気持ちを一切考えない。文章を通して書き手の深淵なんて覗かないし、ただの文字列がその人自身を表すなんてことなんてないと思っている。もちろん言葉を選び、紡ぎ、並べた書き手の意思は強く反映しているけれど、それが全てではない。
だから人が書いた文は簡単に読める。それが小説だつだり記事だったり日記だったり形はそれぞれあるけれど、活字を読むという意味ではここが最適なのだ。電車の中とか休み時間とか、携帯の画面を睨んでいる人に混ざって、活字を目で追っている。
もしかしたら、実はみんなも惰性で見てるショート動画ではなく、記憶に残らないSNSのつぶやきではなく、活字を見ているのかもしれないね。いつの日か文章を紙に印刷する日が来なくなるのかもしれないし、そもそも人間が文章を書くことすらなくなるかもしれない。
書く人がいないのに読む人は無数にいる世界になったら、化石として発見されたこの文章は誰かに読んでもらえるのかな?そんな時代に一体誰がこんな文章を読むのだろうか。
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