【考察3】キリエのうた/憐れみの讃歌
憐れみとは、人の苦しみや悲しみに深く同情すること
讃歌とは、賛美したり讃えること。
Kylieとは、主よという意味で憐れみの讃歌のこと。ミサ曲。
ミサとは、神の全ての恵に感謝をする儀式。
ミサ曲とはミサのときに歌う曲。
レクイエムは、ミサ曲の一部で、死者のためのミサ曲。最後の審判において死者の魂が救済されることを主に祈る。
キリエの歌を考察して行く上で、この曲の考察をしなければならないと思いました。
意訳して、その後に誰目線のどういう歌なのか。そんなことをかいていきたいとおもいます。
憐れみの讃歌
心 燃え尽きてしまった夜に
涙も枯れていた朝に
瞳 閉じたら
死んでしまった夜と、夜通し悲しんで泣いて、もう涙も枯れてしまった朝に、瞳を閉じたら
悲しみの先の方へ
手を伸ばしていたんだ
悲しみの先の方で
何が待つ 誰がいるの
私の目の前に広がる悲しみの先の方であなたが手を伸ばしていた。その先には、何が待っているの。誰がいるの。私には何も見えないけれど、あなたには何が見えているの。
あの時は 目を伏せては
時をやり過ごしていたけど
「こんなはずじゃなかったよね」って
自分か誰かの声
悲しみに暮れて、何も出来なくて、ただ目を伏せて、時が過ぎるのを待っていた。「こんなはずじゃなかったよね」あなたが死ぬなんて思ってもなくて、きっとあなたもそんなつもりなかったよね。こんなはずじゃなかったって話す人。そうだよ、こんなはずじゃなかった。
いつか 朽ち果てていく
わかってる 木の葉のように頼りなく
風に舞ってる
いつか人は死ぬ
私が死んだことはわかってる 触れたら崩れそうなほどに脆く弱く、ただ、風任せに舞うだけの私。
サイコロを振られたら
嫌でも移り変わる
阿弥陀くじのようでも
それすらも 受け入れて
もう後戻りはできなくて、この世に縋り付きたくても、行かなければならない。阿弥陀くじのようにどこに行き着くのかわからなくても、それすらも受け入れるしかない
「こんなはずじゃなかったよね」って
嘆いてた川を渡って
知ることのない明日に
生まれ変わっていたんだ
「こんなはずじゃなかったよね」って嘆いて後ろ髪をひかれる想いで川を渡る。そこから見た私の元いた場所は、私には知ることの出来ない明日に生まれ変わっていた
歩き出しても 何度でも あぁ
繰り返す 痛みにも
慣れていく それでいいんだと
歩き出しても、何度も悲くて苦しくて痛くて。でも、それにも慣れていく。それでいい。
きっとあなたも悲しくて苦しくて痛いよね、けれどきっと慣れていく。でも、それでいいんだよ。
大切な人 大切な日々も
見えなくなって 泣いた後で
宙に描いていたよ
川を渡りきって、辿り着いた場所では、大切な人たちも、大切に思った日々も、全部見えなくなって悲しんで泣いていたけど、空を見上げればそこに全部描かれていたから、もう寂しくなんかないよ
世界はどこにもないよ
だけど いまここを歩くんだ
希望とか見当たらない
だけど あなたがここにいるから
あながちた世界はもうどこにもないよ。
だけどね、いまここ(あなたのいない世界を)を歩くしかないんだ
希望なんてどこにもない
だけど あなたがここにいるから
何度でも 何度だっていく
全てが重なってくために
何度でも、何度だって歩いていくよ
全てが幸せになるために
最初はルカ目線でこの歌は始まるように思いました。目を閉じるとこから、この歌は始まります。
彼女は死んでしまった希の姿をもう見ることはできません。想像するしかなく又は夢で見るしかないのです。
そして、そこにはルカの内側に広がる悲しみが広がっています。けれどその途方もなく広がる悲しみに先、遠く離れたところに希の後ろ姿を見るのです。待って、いかないで。そんな想いで姉に駆け寄ろうにも、自分の周りに巻き付く悲しみのせいでルカは身動きが取れず、後ろ姿をただ見つめることしかできません。
希は手を伸ばし歩いていきます。その先になにがあるのか、ルカには見えないしわからない。けれど、何かがある誰かがいるそんな様子が希から伝わってくる気がするのです。
私を置いていかないで。そう願っても、姉は行ってしまう。そんな悲しい気持ちが分かる描写になっています。
そんな1番は抑揚なく静かに終わり2番が始まります。視点が変わったように感じました。そう、希視点です。ここからは、ルカには分かり得ないのです。
未曾有の大震災で津波という避けれないモノに攫われてしまった希。(ルカを守るための自己犠牲という考えです)
心の整理なんてできているわけもなく、この世への未練や想いを引きずりつつも、嫌でも進まなければならず、自分に与えられた状況を受け入れるしかありません。
「こんなはずじゃなかったよね」とこの世のルカと同じようにあの世に向かう希も嘆きます。
その足取りは重いけれど、少しずつ進んでいきます。
これは想像の話ですが、
三途の川は仏教なのでこの考察であっているのかと引っかかりました。
幼き日にクリスチャンである母と姉を亡くしてきたルカは仏教の思想も混ざっているのでしょうか?(マオリと夏彦は仏教ですし)又は、クリスチャンである希と仏教である夏彦はフィアンセだったため織り交ぜたとも考えれるのかもしれません。
話を戻します。
希には知り得ない明日に生まれ変わっていて少しずつ、進んでいくことに覚悟を決めていくような気がします。
未来に向かうルカにも夏彦にも、あの世に向かう自分自身にも、悲しみや苦しさや痛みに慣れてしまってもそれでいいんだよ。だから前に進んで欲しいし、私も前に進むしかない現実を受け入れて覚悟していく。そんな歌詞に思います。
橋を渡りきった希は、ルカや夏彦のいる世界が見えなくなって、大切にしていた思い出も見えなくなって、やっぱり悲しくて泣くけれど、宙にその姿や思い出が描かれていて、前を再び向いて歩こうとします。
すぐには覚悟しきれない、そんな様子が浮かびます。
さて、世界はどこにもないよ~ですが、ここから私は希目線でありルカ目線であるように思いました。
希のいる世界はもうどこにもないルカと自分のいた世界はどこにもない希。けれど、希望なんて見つからなくてもその現実を受け入れて歩くしかない。
それでもルカにはきっと傍に希がいる。
そして、希には夏彦がいるんだと思います。
「ずっと一緒だよね」と最期に希は夏彦に問いました。「いるよ」と応えてもらい満足そうにしています。ずっと、夏彦に捨てられるかもしれないと不安の渦中にいた希がようやく心から安堵できた瞬間でした。夏彦の葛藤や戸惑いに希は気づいていました。けれど、最後に覚悟を決めてくれた。言葉にしてくれた。それが嬉しくてそれだけで良かったんだと思います。
その、夏彦の言葉が希と共に歩いてくれるのです。
そして、何度でも何度だって苦しくてもルカは歌うし、希は歩くのです。
全ての幸せを願って。自分の幸せではなく、周りの人の幸せをねがって。
この歌を聴けば聴くほど、心に暖かく染み渡って、好きになっていきました。アイナさん弱々しく掠れたような声でポロポロと紡ぐ歌声と力強く前を向いて歌いきる歌声のその差がとても素敵で、この歌をここまで歌えるのはアイナさん以外にはいないと思います。
この歌に出会えたことが、キリエのうたを好きになった理由のひとつでもあるんだと思いました。劇場で聴けてよかった。そして、またこの歌に会いに行きたくなります。