変身願望

2015年(!)の作品。短編小説の類。
なんと4年前!(絶句)

「変身願望」

今夜俺は中目黒のBar "lumen lunae"にいる。

雑居ビルの地下1階にひっそりと佇むこのBarは知る人ぞ知る隠れ家だ。時には芸能人もお忍びで訪れる。それもそのはず、若い頃は舞台俳優としてそこそこの人気を博したという原田俊さんがマスター。今も現役で脚本家と俳優を務める俊さんは身長180cm超え、筋肉隆々で顔の彫りも深く日本人離れした体躯と風貌だ。この俊さんを兄貴分として慕う俳優の卵も多い。"lumen lunae"出身俳優が生まれるのも時間の問題かもしれない。

多すぎず少なすぎず常時10名から25名くらいの客入りのあるこの店を俺が知ったのは偶然のことだ。2年前の冬、雪の降る日に目的地のBarに辿り着けず、緊急避難的に会社の同期と入ったのがこの店だった。常連客とは明らかに毛色の違う俺達を俊さんは歓迎してくれた。「よかったら、またきてくださいね」と明け方送り出してくれた俊さんの言葉を真に受け、俺はその後3年近く通い詰めている計算になる。

常連といってもよい年数になってきて、この店のことも一通り分かってきたが、まだ俺が知らないこともたくさんある。その中でも今俺が一番謎に思っているのはこの店のあるメニューだ。この店のメニューには値段の付いていない不思議なドリンクがある。

“Las metamorphosis”

メニューのOthersの中にひっそりとprice抜きで書かれている。俺がこの存在を知ったのは店に通い始めて半年くらい経ってから。隣に座っていたアイドル風の若い女性二人組がヒソヒソ話をしているのを聞き付け、「ごめん、今話してるの聞こえちゃった。このPrice抜きのドリンクがどうしたの?」と聞くと、二人ともマスターの俊さんのほうをチラ見して「いえ、何となく気になるねって、二人で」とはぐらかされた。

それ以来“Las metamorphosis”のことが気になる俺は短刀直入に俊さんにオーダーしてみたがはぐらかされるばかり。“Las metamorphosis”なるドリンクは本当に実在するのか、このミステリアスな店の雰囲気を増すためのものか。

すべてはマスターの俊さんのみぞ知るというのか。

居心地のよさから3年ほど通いつめ、正真正銘の常連さんからも常連と呼ばれるようになってきた今日、隣席に座ったカメラマンの堀江さんから、ところで「あんたよく顔見るけど“Las metamorphosis”」って知ってると尋ねられた。

「メニューに書いてあるお酒ですよね、値段抜きで。気になってるんですけど、誰からも教えてもらえなくて。ご存知です?」

「モグリだな。まだあんた常連じゃないよ。」

そう言って、堀江さんは煙草をふかしながら被写体を探している。

「ところでアンタ、あっちのほうは最近どう。見たところ更年期?倦怠期?人生折り返し地点まできちまったなぁ……っていう顔してるよ」

「いやあ、仰る通り。最近随分トシ食っちゃって、飲み代はあるけど活力がないというか。」

俺は最近薄くなってきた頭頂部を指で掻きながら本音を明かした。独身男の40代は辛い。金には不自由しないが、この先どういう人生を送るのか毎日最終警告を発せられているようなそんな気分だ。

「アンタ、俊さんに頼んでその辺の活きのいい若造と入れ変わっちゃったら。俺もその口だけどね。」

彼が指差した先は数名でこの店を訪れている20代の青年のリーダー格だ。

「あれが『元俺』。乗り変わられちゃって。気が付けば変態カメラマンのホリエモンこと堀江さんだよ。まあこんな人生も悪くないけどね。」

「え、それどういうこと。どうして堀江さんとあの若い彼があのその……??」

「だから“Las metamorphosis”だよ」

「あの酒は別々の人間の心と身体を入れ替えることができる。もっともこんな経験をしたのはこの中では俺と彼だけだけどね。俊さんがどうして出し渋るのかは知らない。俺のときは、結婚を約束していた彼女をマブダチに寝取られたんだ。人生に絶望した俺は、俊さんに『楽に死ねる方法を教えてくれ』と泣き付いた。そうしたら、この変態カメラマンに俊さんがナシを付けてくれて同意の上で入れ替わりという訳。」

決めた。俊さんのスペシャルドリンクで俺は若者に生まれ変わる。人生八十年。四十歳という折り返し地点を越え、下り坂に差し掛かったこの人生から俺は脱却したい。

俺は変態カメラマン堀江さんがチェックを済ませるタイミングで、俊さんを呼び止めた。

「俊さん、頼みがある。ずばり“Las metamorphosis”のこと。」

俊さんは相変わらずのポーカーフェイスだ。

「堀江さんから今聞いたんだ。例の話。」

俺は店のメニューをめくりながら最終ページの“Las metamorphosis”を指差す。

「一杯いただきたい。」

俊さんは珍しく苦い顔をしながら、あごひげを左手の親指と人差し指でさすっている。

「動機は?相手は決まってるんすか。」

「俺は金は要らない。自由に生きる時間と仲間がほしい。こう見えても俺にも蓄えはあり、無茶さえしなければ彼が遊んで暮らせる金くらいは提供できると思う。等価交換とまではいかないまでも生かすも殺すも自分次第という取引じゃないかな。相手はズバリ彼。」

俺は店の片隅で騒いでいる集団の中の色黒の青年を指差した。輪の中に常にいながら中心には決して入らず、ちょっとすかした感じで異彩を放つ彼。見ようによっては彼が仲間達の中で一番大人のようにも見えた。

「アツくんかぁ。」俊さんは思案し、「この件は彼には話してないんですよね」と俺に確認すると、腹を決めたかのように「いいでしょう」と言い残し、奥に引っ込んだ。約10分ほどして戻って来た俊さんは俺の前に黄金色に透き通るドリンクを差し出した。

「青木さんはこのまま飲み干して。アツくん!ちょっと」

俺はその無味無臭のドリンクをゆっくりと飲み干した。天と地がひっくり返るとかいろんな想像をしていたが、特段の変化は現れなかった。一方で、輪の中で微妙に浮いていた彼は身体を重たげに動かしながら「俊さん、どうしました」とゆっくりカウンター越しに話しかけた。

「俺からのプレゼント。悪くない取引話だ。」

俊さんはカクテルグラスを右手にかざして見せると左手で手招きした。カウンターの中に入ったアツくんと俊さんは何やらヒソヒソ話をして盛り上がっている。アツくんの「それ、いいっすねぇ。笑っちゃうわ。ありえねー」という声が漏れ伝わってくる。交渉成立か。

するとアツくんは俊さんの肩に右手を回してVサインを作り、左手で黄金色のカクテルグラスを揺らして俺のほうに向け「カンパーイ!」と一気に飲み干した。


明くる朝、俺は灼熱の工事現場で立ち尽くしている。警備会社から支給されたユニフォームを着用し交通整理員の勤務。午後1時にこれを終えると土木作業の現場に向かう。合わせて日給1万2千円。彼はこうやって夜の飲み代を工面していたんだなと思うと若さって一体何なんだろうと感じる。

夏の日差しが否応なく照りつける。朝まで飲んでもこんな仕事をなんなくこなせる肉体がなんとも皮肉だ。昨日までの俺ではありえないスタミナだが、ありがたくもなんともなかった。

どうりでこれだけ色黒な訳だ。てっきり海焼けか日サロかと思っていたが……

そんな生活を一週間繰り返し、ようやく手元に5万円の金ができた。新聞を買う金も "lumen lunae"に行く電車賃も惜しい。時間だけが余るほどあり、俺はとぼとぼと歩く。

一週間ぶりに訪れた "lumen lunae"。外から店内の様子を窺うとなんだか妙に盛り上がっている。何事かと思いながら店に入ると店内に札束が舞っていた。

「青木さん、ごちっす!」

若者達が宙を舞う万札を次々と掴み取る。

「なんすか、この乱痴気騒ぎ?」

ストールに座りつつ俊さんに尋ねると、「アナタ言ったじゃないですか、等価交換って。若さの価値なんてこんなもんじゃないですよ」

そう言って俊さんが差し出したiPadの株価のページを見て俺は目を疑った。俺は若い頃からA社に目を付け、同社の株式をコツコツと買い増し今では十万株を保有していた。その株価が、画期的な新商品開発発表とライバル社の倒産が相俟って一気に12倍に急騰していた。

「嘘だろ……」

いずれは間違いなく成長するだろうと見込んだ自分の眼力を信じ、月々の給料と賞与を充てて一点買いで買い貯めたA社株。まさかこのタイミングで花開くとは......。

俺の風貌をしたアツ君は店に入った俺に気付き、「青木さんも飲みましょう。今日はボクの奢りですよ」と満面の笑顔で俺に語りかけた。俺は笑うに笑えず、彼から手渡されたDuvelを一気に飲み干した。(了)

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