人生いろいろ⑯ 青春篇(部活談義)
さて、大学四回生。これがきっと最終章になるでしょう!笑
大学生活はスケート三昧のhello!。主将職も無事解かれ、さぞスケートに打ち込んだことだろう、と誰もが思いますよね。が、意外にもそうしなかったんです。
大学での三年間、本当に勉強せず部活に身も心も注いできたのですが、あと一年で大学生活も終わり、といったときに将来を考えたのです。入学時に教授陣から言われたように当時既にデファクトであった大学院に進んでからの就職という選択肢をとるべきか。学科のみんなはほとんどがその意向。一方で、私は悩みに悩みました。研究室についてはは「ここならスケートに打ち込める」という理解のある先生方の揃ったところをジャンケン(高倍率につき)で勝ち取り(なんと負けたヤツ(男性)に泣かれ、かなりの罪悪感が......)、二つある教室の「勉強しないで遊ぶ学生用」の部屋に入れられました。が、いろいろ考えた末に、あまのじゃくな私は、みんなが大学院で2年間油を売っている間に社会に出て逆転!というシナリオを描いたのです。就職先も様々な業界を書店で購入した本などを基に研究して絞り込みました。そんなときに就職担当の教授から呼び出されました。
「君は、大学院でちゃんと勉強し直してから社会に出なさい」
とまあストレートに言われまして。こういうことを言われると余計に反発することを先生はご存知なかったんでしょうね。その辺のいい子ちゃんとは違うのです、私は。猛烈に反発した私は実は卒業単位も危うかったので、部活のメンバーにシーズン前半の実質的休部を申し入れ、研究室の先生には年度前半は勉強、後半は部活メインで卒業研究をする旨を申し入れました。今考えると青二才のくせに真の強いヤツですね、笑
と言いながら、就職事情は厳しかったです。当時は学科に各企業から1名ほど枠をいただいていたので、早々に行先を決めていた私は速攻でエントリーしたのです。が、これは想定外だったのですが、マスターをバチェラーよりも優遇する方針。先にエントリーしてもマスターの方が手を挙げると自動的に落とされるのです。
「人物を見ないのかよ、学校歴なんかクソ食らえ!」
と思いましたが、現実は直視せざるを得ません。そして、いろいろありましたがぶっちゃけ志望順位10番目くらい、これ以外の会社だとさすがに、というところで着地したのです。これがベストな選択であり、その後の人生にも大きく影響することになるとは当時まったく予想だにしていませんでしたが、もちろん納得の上で内定通知をありがたくいただきました。
あとは肝心な卒業単位です。実は大学一年生のときはなんだかんだ言って相当数の単位を取っていたので、単位取得のテクニックはわかっていました。ただ、やらなかった(やる暇がなかった)だけです。なので、講義選択から何まですべて相当戦略的に進め、無事卒業単位を前半戦でゲットしました。ついこの間まで主将をやっていた人間がこの有様だったので、あまりに身勝手すぎて部活の同期・後輩たちには本当に申し訳なかったのですが、人生がかかっているので致し方ありません。鴨川に行きさえすれば参加できる陸トレにすらまったく参加しなかったので(相当頑固&意地っ張りなんです、苦笑)、みるみる体力は落ちていきました。
とりあえず、あとは無難に卒業研究をすればよし、というところまで持ってきたところで練習を再開しました。7月、ちょうど夏合宿@愛知の時期。わずか4,5日間の合宿期間でスタミナアップから筋力回復、更にはスケーティングのおさらい、と土台無理な話です。ただ、幸運なことに日本の女子エース勅使川原さんや兵庫県のエース、後にオリンピックで活躍する田村くんなど錚々たるメンバーが参加してくれたのです。私は練習不足が丸わかりの状態にも関わらず、C大学OBのコーチになぜか気に入られていまして、勅使川原さん、田村くんともう一人経験者の高校生との4人組に。いやぁ、地獄でしたねぇ。まだ体力すら戻ってきていないのにこのメンバーでリレーしたり、インターバル練習をしたり。。。
まあ、この「しごき」があったがゆえに半年弱のブランクがあったにも関わらず、比較的早期に体力やテクニックを取り戻し、また、よき思い出が新たにひとつできました。
シーズン前半戦(秋口)は概ね三回生終盤と同様の成績でした。本当は最後となった西日本選手権(10月、京都開催)でもう少しよい成績を残したかったのですが、まだ間に合いませんでした。ただ、K大学との定期戦では完全に前年のリベンジを果たし、500m、1,000m、3,000mリレーのすべてで圧勝しました。リレーの途中で靴紐が解けてしまった(危ない、危ない。。。)のはみんなから叱られましたが、笑
そして、このタイミングでもう一つの決断をします。
アウトには行かない!
これも四回生ならではのわがままです。スピードスケートというと皆さんがご想像なさるのは屋外の400mのリンクを高速で駆け抜けるイメージだと思います。これが我々の言う「アウト」です。当部も創設当時はもちろんアウトがメインだったようですが、京都という土地柄やはり練習・試合双方に限界があり、私が入部した頃には屋内で行うショートトラックがメイン競技になっていました。なので、「アウト」(屋外リンクでのスピードスケート)はそもそも十分な練習ができない、ということがあるのですが、私の場合は細身だったために屋外リンクでは風で押し戻されたりと本当に成績が振るわなかったのです。とはいえ実は部員の大半がアウトは苦手、嫌い、金がかかる、と思っているのですが(ただ、直線(のスケーティング)の練習になる)、みんなでやるからやる。そこへ前主将の四回生が「やらない!」と宣言する訳です。にもかかわらず「アウト後のショートトラックはやる」と。いやあ、私の真骨頂ですね。やっぱりこうじゃなくっちゃ。ゴーイングマイウェイ!笑
で、アウトに行かない代わりに何をしたかと言いますとブレードを新調しました。当時はMKさんのお下がりを使っていたのですが、成績がもうひとつ伸びないのはこのブレード長にあるのでは、と内心思っていました。最後のシーズンに自身2度目のブレード新調。これは相当な賭けです。(元主務Kも真似して新調したのですが、笑)
という訳でスケート靴を業者に預けたので、筋トレ&卒業研究のデータ取り、ということで体育館と研究室の往復をしていました。
アウト期間中にインドアリンクに練習に全然行かなかったのか!?と疑問に思う方もおられるかもしれません。実はここに悲劇が。。。それまでは名古屋のMさんという方にスケート道具の一切を委ねていたのですが、各方面から評判を聞きつけ大阪のUさんという方に新しいブレードへの交換を依頼しました。これも学連ネットワークのなせる業です。が、ほとんど無名の大学の選手のブレード交換など後回しなんでしょう。いつになっても、完了したという連絡はなし。。。
Uさんももちろん本業を持ったうえで行っているスケート選手への支援活動であり、その辺は重々理解していたのですが少なくとも5回は「まだですか?」、「困ってます!」と電話したはずです。Uさんには大変失礼かつ申し訳なかったのですが、本当にラスト3か月に賭けて数万円投資した訳で。スケートがなくて練習できないのではアウトに行かなかった意味がない、と半ベソをかきながらマシントレーニングに励みました。一番力を入れたのはエアロバイクです。実際のレースをイメージしながら、例えば1,500mを滑り切るイメージであれば7割くらいの力で2分半漕ぎ続ける。そういった練習を頭を使いながらすることでスケートリンクに通えないフラストレーションを誤魔化していました。
ちなみにこの時期にアウトの関西インカレ(八ヶ岳)、日本インカレ(釧路)があり、事務方としてはスケート活動をしていました。八ヶ岳はフィギュア、ホッケーからも援軍が来て忘年会的な感じでした。確か12月23,24日だったはず。クリスマスイブじゃあないの。。。釧路は本当に大変でした。各大学の宿舎を回る車の運転中に大雪に振られてマジで死ぬかと思いました。なお、この大会で当時大学一年生の清水宏保選手が500mで優勝し、賞状を授与する偉い方(誰?笑)に賞状を渡すという役割を拝命しました、笑
清水選手は「チビ様」というニックネームだったようですが、そばで見ると本当に小さく、でもひとたび氷上を滑るとみんな思わず黙ってしまう、というくらい凄い迫力でした。滑るイナズマ的!
で、結局アウトに行った部員達が帰ってきても私のスケートはまだ戻ってきていなかったのですが(涙...)、「俺のお古でもいいなら貸してやるよ」という先輩に「自分のスケートじゃないと意味がない......」と内心思いながら「ありがとうございます」とスケートを借り、兵庫県の貸切練習に参加してみました。すると、、、速い!!
スケートのサイズもブレードの位置もまったく合わないので抜けたり、まあ荒っぽいスケーティングなのですが身のこなしが明らかに変わったことに気付きました。もしかしてこれは地道なトレーニングの賜物か?
学連の一学年後輩も「hello!さん、なんかずいぶん変わりましたね」と評していたので確かに何がしか変化があったのでしょう。
そんなこんなで2月頭かな?、ようやく私のスケートが返ってきました。先輩にも相談しながら、砥石で自分に合ったロックを付け、ようやくスケートリンク初滑りです。いやあ、ビックリしました。自分の身体が変わったのか、ブレードの新調が奏功したのか、その両方なのかわかりませんが、とにかく絶好調。そのまま京都府の貸切練習に入ります。最初は1,500m。この組で、長距離が得意なKS大学のI選手、親友のKを破り一着でゴールイン、タイムは余裕でA級。ビックリでした。続いて1,000m。途中から抜け出して先頭をキープ。最後にずーっと後ろをつけてきていたKS大学のOBさんに刺されましたが(ズルい......)、これまたA級タイム。その他、スプリント系の練習もトップクラスに交じってまったく見劣りせず、とんでもない成長を見せました。
これも一過性の出来事ではなく、毎度の練習で安定したスケーティングを発揮し、これは本物だと自分でも確信しました。
そして、四回生最終シーズンの試合が始まりました。この頃から見据えていたのが都道府県対抗選手権に今年も京都府代表で出ること。今年こそは戦力になる!と。で、上から数えていくと、経験者以外には二枠程度しか残らない狭く険しい道です。連盟の役員さんは「練習はもちろん、各大会での結果だけではなくプロセスを評価する。勝ちに行く姿勢を見せろ」と発奮を促します。連盟としては来年のこともありますから同じ力であれば当然若手を抜擢する訳です。
そんな中、全関西(大会名)が兵庫県のリンクで開催。ここは高速リンクとして有名なのですが、氷が硬すぎて私は苦手でした。ですが1,000mで当時の大学記録を樹立!しかし、A級タイムに0.38秒及ばず。。。
まずは片足A級に乗せるべし!と今度は1,500mに挑みます。が、予選通過は楽勝でしたがタイムはついてこず。やはりホームリンクとはまったく勝手が異なります。
次の関西インカレは言い訳をすれば事務方と選手を兼ねていたことなどあり、実力相応のところまで勝ち上がりましたがタイム的にはパッとしない成績(関西ではもっとも狭くて氷が柔らかい、という悪評高いリンクでの開催でもありましたが。。。)。
という訳で徐々に大会数も減ってきて焦りの気持ちが少しずつ芽生えていました。もう3月に入り、来月からは社会人。そんな中、若干体調崩し気味(風邪?)の3月7日の晩連、リレー練習で転倒します。まあ、4年間よく転んだもので、このときも定石通り壁に並べたマットに垂直にエッジを当てる(それなら大事に至らない)という原則を冷静かつ忠実に守ったのですが、起き上がって滑り始めるとなんだか感覚がおかしい。変だなぁ......と思い、大事をとってその日の練習は途中で上がりました。練習後も24時間やっている書店で立ち読みしたりと普通の生活を続けていたのですが、早朝5時頃でしょうか、どうも足が痛いと思ったら右の足首が腫れています。
捻挫か、ついてないな......
少しでも早く治したいので、アメフト部御用達のスポーツ接骨院に翌朝出向きました。先生がレントゲンを撮ってくださって開口一番「いやあ、キレイに折れてますな」と。
「え、もう一回言ってください」
「だから骨折だよ、骨折。ほらここ」
「でも、まだ試合が残ってるんですよ!」
「それは無理というものだね」
駄々っ子のような私の願いを聞き入れるも何も、折れているんじゃあもう仕方がない。普通に考えて、あと1,2週間で治るとか、どんなに若くても、綺麗に折れていても無理ですから(涙...)。
実はそのとき既に京都府代表選手として選出していただいていまして、相当期待してくださっていたらしく敢えて補欠も入れてなかったそうなんです。後に大会会場(大阪)に松葉杖で出向いた際に連盟役員さんにお会いしたら「ギブスにブレード付けて滑れ!」と呆れた顔で言われてしまいました。。。
という訳で、エントリーしていた3月7日以降の大会はすべて棄権。練習では出していたA級タイムも試合では出せずじまい。更には1,000mでマークした大学記録は盟友Kにわずか2週間であっさり塗り替えられる始末。
そして引退。。。
追いコンで一言求められて、さすがに泣きましたね。悔し涙です。
でも仕方がない。何が起きるか分からないのが人生。それを四年間のスケートで学んだ気がします。
了......
まだ書きたいことがあるような気がしますが、既にめちゃくちゃ長文になってしまいました。という訳で、この四年間のスケートライフで得た気付きはまた別のnoteの中で反映できればと思います。
とりあえず、青春篇・スケート談義は今回で終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。
しかし、本当にスケート漬けだったなぁ......
今の流浪の人生が嘘のように実直に生きた四年間でした。
さて、次は何を書きましょうかね。社会人篇??
しばらく考えてみます。ではでは。