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自分を知るための自己紹介|self introduction for self understanding

自分が自分のことを知るために作る自己紹介〜

生まれてから小学生前まで(記憶ないのでパパッと)

ママ方のバーバに、「あんたはちんちんをお腹に落としてきたんや〜」
っていつもお風呂一緒に入ってる時に言われてたから、かなりおてんばで、どこかに出かけても必ずどこかしら怪我してくるような小娘でした。
でも愛嬌はあったらしく、かわいいと色んな人から言ってもらえてたみたい。


うで美味しそう

あと、人を笑顔にするのがもう好きやった記憶。
パパからもう何回も聞かされるのが、小学生くらいの時、パパと一緒にエレベーター乗ってたら綺麗な女性が乗ってきて、「かわいいね」って言われたところ、「お姉さんの方がかわいいですよ〜!」って返してたらしい
多分ほんまに思ったから言うただけ、覚えてない。

いじめられた記憶は幼稚園年長かな〜された嫌なことって割とすぐ忘れるけど、この時のいじめてきた二人の名前は今でもフルネームで言える。根に持つタイプなんかも
そんな感じの幼少期

転期❶オーストラリアに移住

小2の頃、ママが一人でタスマニア島に行った。しかも3ヶ月。子供の頃の3ヶ月は相当長い。
私はお姉ちゃんいます。だからご飯作ってくれてた。パパはお仕事大忙しで毎晩帰り遅めやった。
ほんで、ママ帰国後に私・お姉ちゃん・ママの3人でタスマニア島のホバートに移住。
パパの仕事とかじゃなくて、ママの希望やったみたい。
今になって知るいろいろな要因があったけど、とにかくこの経験をできたことにほんま感謝しています。


オーストラリアのマクドのプレイグラウンドでよく遊んでた

タスマニアの中で1番大きい街、ホバート
と言いつつもアジア人なんてかなり少ないその頃。
でも街でカップルが仲良くイチャイチャしていたり、それこそ同性のカップルも当たり前のように見てたから、既に自然なことと吸収してました。

Taroona Primary Schoolに通っていました。お姉ちゃんの中学と隣接していたから一緒にスクールバスで毎日通い、小学生はほぼ乗っていなかったから姉の友達と仲良くもなってた。アジア人は小学校が2人に対し、数十人はいたかな〜

初日から友達できて帰りたくな〜い!ってほざいてたらしい。

乳歯何本かない

正直、3年弱住んだ中で差別的ないじめ数回あったし全てが全てポジティブな思い出ではないけど、総じてめっちゃ楽しい日々やった。
親友もできて、(当時Best Friend Forever通称BFF)も流行って、一人15年くらい経った今でも連絡取り続けいている友達がいます。財産!
そんな感じ。

帰国後、通っていた小学校に戻ってから

なんか違和感。
なんかあんまり楽しくないな・・
いや、楽しんでたけどそれなりに。漠然とオーストラリアにいた頃の方が楽しかったな〜居心地良かったな。って気づき始める。
でも林間とか、修学旅行の思い出は楽しかった。

小6で転校!!

6月に一駅くらいの距離やけど引越し。寂しかったけど、転校先がま〜〜〜良かった。ええ学校やった。というのが人
今でも仲良い。
ハッキリ言いやすい環境やったし、それが出しやすかった。
この頃のエピソードを今でも友達がたまに言ってくるのが、
ある日、運動会の騎馬戦を小5・6で合同練習していた時に、違うクラスの男の子が、なんか変な理不尽なことして、(内容覚えてない)端で待機してた私は横から「いい加減にしろよ!!」って叫んだ。覚えてはいるけど、理由覚えてない。でも許せんかったらしい。後で担任の先生に呼ばれたけど、経緯を話して怒られはせんかった記憶。
とにかくいい友達ができた小学校でした。

中学|スパルタ運動部&だいすきな祖母がお空へ

入学して、友達もいっぱいいつも通り作って、
経緯忘れたけどバドミントン部に入部。これが運動部1スパルタと言っても過言ではない練習量の部活やった。
おかげでジュニアの他校選手とも戦えたし、先輩はその人たちに勝って結構打ち込んで時間とエネルギーを使った。
とにかく我武者羅にやってた。サウスポーを買われて、シングルスやるも苦手でダブルスへ。キャプテンと組んで左右コンビで賞状もらえるくらい良いペアになれました。
週7で、平日は朝練+どこの部活よりも遅い時間まで練習。
土曜日は半日か全日、日曜は必ず全日。顧問の先生にマジか!?と思ったがおかげさまで強くなれました。身も心も。
とっても良い先生やったなぁ引退の時にもらった手書きの手紙は今でも大事にクリアファイル入れてます。

中学はほぼ部活の思い出で。引退も他の部活動は6月にする中、9月まで続けていたバド部、迷ったけど周りからの説得で9月まですることに決める。

進路は模試でいつもE判定(ほぼ不可能判定)やったけどどうしてもだ1志望の高校に行きたくて。ママも個別で学校から呼び出されてたくらい考え直しを言われていた。

引退試合は、勝てるはずの相手校に団体戦1-2で負け、引退。でも第1ダブルスやった私たちのペアは勝利できて、最後勝って終われて二人で喜びを分かち合った。

引退してから直行で、1年以上前からガンになっていたバーバの病院へ。
久しぶりに訪問してバーバに全部報告して、ハグして。
するとその1時間後、バーバはしゃべることができなくなった。
孫が4人いるうちの誰よりも歳が離れた末っ子やった私。過ごせた年数は短かったけど、その分近くに住んでたしたくさん一緒に過ごした。
ほんまに大好きやった。いとこはもう大阪出てたし、滅多に会えてなかった。
最後、私がくるのを待っててくれてたんやな〜と思った。
まだ中3やったし、やってあげることが少なすぎて。
その2週間ほど前に私の誕生日をバーバの病室でママとお姉ちゃんと祝って。その時にiPhone4で撮った写真を現像して持っていくことしか出来ひんかった。でもそのバーバの笑顔がとびきり笑っててめっちゃ可愛かった。

その前、中学の授業で”誰かを思い浮かべて、その人を表す1文字の漢字を書いて”ってのがあって。
私は穏やかの「穏」という漢字をバーバを浮かべて書いた。
一緒におるといつも穏やかな気持ちになれた。
門限や連絡をいつも守らず遊んでた私をママが怒って家から放り出されたときもバーバん家直行して一緒に暮らしてた。

最期は親戚、家族のみんなに囲まれてお空に行ったバーバ。
もっといろんなことしたかったし、10年経つ頃の今でもバーバの話をすると恋しくて涙出る。忘れたことない。
命日の9月29日はいつも空見てバーバと話してる。というても自分の報告。
でもそれが、割と自分の気持ちがまとまる良い時間。ありがとう

バーバと約束してた第1志望に絶対受かってやるで!!という思いで、引退後周りより遅く受験勉強スタート。
もう記憶ないけど血吐く手前までは勉強したと思う。
あとは滑り止めすら受けへんかった。そこの赤本だけ買って、個別指導通わせてもらって数学の苦手克服、ひたすら勉強。
約4ヶ月半の本気勉強を経て、第1志望合格!合格証書はバーバの仏壇の前で開封して泣いて喜んだ記憶。良い報告できて良かった〜〜
こう考えたら、自分やればできるやん!って思った。

やばい。まだ中学やのに3000文字弱や

第一志望の高校生活スタート!妹がいたことが判明!

ぎりぎりの底辺で入学したものですから、勉強追いつくのに必死。
1学期で似た境遇の友達と折れそうになった。
でも、担任の先生に恵まれ1学期最後の三者面談でとっても想ってくれていたことがわかり、頑張ろうと奮闘。
英語はめっちゃ得意で楽しかったから、リスニング科目だけいつもTOP5には入ってた気がする。頑張れ

少林寺拳法部に入部。理由はバドミントン部がなかったのと、ママ推しで武道に初挑戦。
この高校で出会えた人たちがもう財産すぎて、受かって通わせてくれた両親にほんま感謝です。

今思えば可愛い悩みやな〜って感じやけど、
それなりに毎日悩んで人間関係に苦労して、でも楽しんでた日々やった。

高二でカリキュラムにあったカナダのバンクーバーへホームステイ。
大当たり家族で可愛い子供たち優しい両親と、良い空気で自然と街のバランスが最高で、あっという間の日々。今でもたまに思い出すけど、毎週末日本人のクラスの子たちと遊びに行ってたから、ファミリーと出かけた思い出ももう作れば良かったと後悔少し。また戻りたい街の一つ。

帰国後、余韻に浸りつつ久しぶりにいとこと再会、二人でご飯を食べた時に
「両親、離婚してるで」と。
両親とは私のお父さんとお母さんです。何よりも従兄弟から聞いたのがショックやったなぁ。でも実際には私が知った4年前に成立していたらしい。
今思うと単身赴任やと信じ込めるくらい大事な日には帰ってきてくれていたし、コミュニケーションも取れてたから。
しかもここまで私の耳に入らないようにしてたのは姉らしかった。
みんなの優しさと思いやり、愛がゆえの全てのタイミングやったと思う。

その次の月、すでに家族旅行の予定があって、私と姉の合同バースデーをして、ふと父と二人になった時間に子供がいる(=私にとって妹)ことを告白され、意外と冷静に返事して、終わった。
これが私の核家族4人最後の旅行でした。

その年の末。妹と義母と初対面。私のことを十分に知っていた妹はすぐに懐いてくれて、めっちゃ可愛かった。
姉はすでに会っていたらしいけど、母は私が初めて会う時まで待ってくれていた。
そんなこんなで高二で初めての妹ができた!!

高校3年生になってからは、全員受験モード。
進学校と言われる高校だったので、最初は国際教養大学または立命館アジア太平洋大学で悩むが、課外を考えたときに今住んでいる大阪の方が選択肢が広そう・・と悩んでいた時に父に通信制のビジネス・ブレークスルー大学を教えてもらう。自身で説明会に足を運びに行き、面白そうなのと、なるべくして100%オンラインにしているとのこと。
当時は大学在学中に海外に住もうと考えていたため、ネット環境さえあればいつでもどこででも学ぶことのできる環境も自分にピッタリ!と入学を決め、大学受験は無事に年内に終了。

4000文字超えたのでこの辺りで終わります
次は2018年入学した大学〜現在2024年まで振り返ります。



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