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選択の自由(エッセイ)

子供クライミングクラブ

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子供クライミングクラブの活動で、トップロープクライミングをしている時、子供たちは自分が登れないと思うと「もう降りてもいい?」と私に聞きます。

その時、私は必ず「それを決めるのは自分だよ」と言っています。ルートを登っていて、テンションをするのも、一手出して落ちるのも、自分が決めることです。良い悪いではなく、どのリスクをどの程度取るのか?選択は本人の素直な意思によるものなのか?ということが重要なのです。


岩場の開拓

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ルート開拓の時、特にボルダリングの場合、自分が公表しようと思ってトポを雑誌に掲載するとき、自分の登ったライン、グレードは、自分自身の主観に基づく一つの事実だと捉えて、私はその情報というか記録の一種を編集者に原稿として送っています。

そのトポを見て登る人は、私の提案である情報と実際の岩を見比べると思います。そこで、例えば私の提案より、より楽しいと思うラインがあったり、私自身が使わなかったホールドを使って「お買い得」と感じたり、グレードを変えてみたり、或いは派生ラインを思いつくこともあるでしょう。

それは、そういったことは全て再登者の自由。初登者をリスペクトすることはあっても、再登者が初登者の意向に左右される、フォローする必要は全く無いと考えています。リスペクトとフォローは違います。リスペクトは敬意を表するということで、フォローは追従です。

最初に登った人の課題を次の人が必ずフォローしなければならないというのは、アウトドアスポーツではありません。アウトドアスポーツは自然が主役で、我々人間はそれに自分を合わせる、自然といかに深く融合できるのか、そこに普通のスポーツでは味わえない恩恵があるのです。


私自身

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クオリティは別として数だけはたくさんの課題を初登してきた一応、開拓者として考えることは、初登者は特に偉くもなんでもなく、ただラッキーだっただけということです。今振り返ってみれば私自身がそうだったと思います。

時間が自由に確保でき、開拓を継続するにあたって金銭的に不自由はなく、クライミングが好きで仲間もいる。そんなスタイルを何年も維持できる環境にあるかどうか?確率論で考えても、これは相当なマイノリティです。つまりそのチケットを得たのであればそれは幸運であったという他ありません。


まとめると

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というわけで何が言いたのかというと、誰が最初に登ったとかそんなことで優劣はつかず、どのような環境にあるクライマーであろうとグレードに差があろうとなかろうと、基本的に全てのクライマーがフェアなのだということ。

自然が主役。それがアウトドアスポーツのすばらしいところなのだから、その恩恵を濁らせてしまうような、人間の理屈や倫理などで固めた真面目一辺倒な雰囲気ではなんだか寂しいじゃないかと思うわけです。

もっと自由でいいんですよ。クライマーは特に、もっと自由で良いと思う。グレードとか課題の限定なんかで自分の個性を縛っちゃったら勿体無い。まあ、これが言いたい事なんです。

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